第5話 彼女

 「おはよう」


私の介抱から解放された彼は、疲れた顔ひとつしなかった。流石は高スペック。人が出来ているというか、何と言うか。……そこら辺も、ひょっとすると例の女性に鍛えられたのかも知れない。苦労人でありながら、それを表に出さない玄人。私の買い物に文句を言わず付き合ってくれるのも、あの子に散々振り回されたからなんじゃ……。


 いや、いけない。直接話したこともないのに、偏見で人を推し量るな。私が見たのは彼女の容姿と、圭くんへの態度と、目が合ったときの眼差しだけだ。だが、それで充分ではないか? 少なくとも私は、あの瞳が今でも忘れられない。他人を馬鹿にしたような、批判するような、あの凍てつく視線がはっきり網膜に焼き付いている。記憶は無いけれど、今日も夢の中で四、五回再会を果たしたのではないだろうか。それぐらい印象的な、彼女のパーソナリティを説明するに足る特徴と思われる。一体彼は何を思い、度々彼女に会いに行っているのだろうか。


 「んー、おはよう。頭痛い」

「昨日からずっとじゃん。ベンチからここまで運ぶときも、瑞紀、頭痛い頭痛いばっか言ってたよ」

「そうだっけ。全然記憶ない」

「酔っ払ってたもんねぇ。はい、野菜ジュース」

「ありがとう。……ん、このオレンジの液体なに?」

「だから、野菜ジュース」

「なんで」

「二日酔いに効くらしいよ。ビタミンが豊富で」

「へぇ、知らなかった」


うん、美味しい。二日酔い云々に拘わらず、この爽やかな風味は朝から心の風通しを良くしてくれる。その上身体にも良いなら、これから毎日野菜ジュースでもいいくらいだ。


「でも、うちに野菜ジュースなんてあったっけ」

「無かったから、朝買いに行った」

「私のために?」

「うん。まぁ、僕も久々に飲みたかったしね」


なんてまめまめしい二股男なんだ。ずりぃよ、お前。その要領の良さを私と弟にも少し分けて欲しい。


「それにしても、どうしてあんなに飲んじゃったの。普段は無理するタイプじゃないのに」

「それは」


言ってもいいのか? 決着をつけるという彼の言葉が信じられず、浮気を疑い、その相手を突き止めてしまった事実を、突きつけてしまっても。


 構わない、という人が大多数に違いない。いくら関係を終わらせる覚悟があろうと、今まで私を裏切ってきたことに変わりはない。でも肝心なのは、世間一般の人がどうするかではなく私がどうするか、どう考えるかなのだ。私は知っている。圭くんは、ここで浮気を許したからって調子に乗るような人間じゃない。他に愛する人がいようが、私のために早朝からニンジンジュースを買いに行ってくれるニンゲンだ。だから、今はまだ。


「心配だったから。圭くんがきちんと決着をつけられるのか、心配だったから」


あながち、完全に嘘でもない。事の顛末のうち、私が知るのは顛だけだ。終わり良ければ全て良し、今知りたいのは顛末の末。


 しかし、彼の口から出たのはあまりにも残酷な、残忍な言葉だった。


「……ごめん。その約束は、果たせなかった」

「あー……そう、なんだ。残念だったね。できれば、その、この一週間何をしていたのか、私に詳しく教えてくれる?」


感情に反して、顔がにやける。強ばったように口角が動かない。


「実は、僕は……」


 知りたくない、と誰かが叫んだ。

 嫌いたくない、と誰かが言った。

 よく聴けば、幼い私の声だった。


「ある人から、どうしても逃れられないんだ」

「……逃れる?」

「そう。その人は小学校からの同級生で、とても、とても優しい人だった」


   ***


 小学校を卒業するまで、僕と彼女はただのクラスメイトだった。いや、小学校は一学年二クラスあったから、クラスメイトではない時期もあったかな。ともかく気の合う同級生で、それ以上でも以下でもなかった。


 中学校に入るとき、僕は彼女に告白された。友達以外の関係性を知らない僕に、初めて恋愛を教えてくれたのが彼女だったんだ。僕は迷わず引き受けたよ。僕の目から見て、彼女は同学年の誰よりも可愛く、綺麗だった。女の子に恋をしたことがない僕でも、それぐらいの審美眼は持ちあわせていたんだ。


 交際といっても中学生、行動圏は近所に限られていたし、遠出しようにも色々な制約があって厳しかった。僕は彼女に気に入られようと手を尽くしたけれど、ほとんど空回りだったと言っていい。僕は彼女が何を考えているのか、何を求めているのか、さっぱり推し量ることができなかったからね。女心は秋の空と言うけれど、僕には冬の空に思えたな。いつでも冷たくて、乾いている。頑張ったところで、結局大人の真似事でしかなかった。


 何かがおかしくなり始めたのは、二年生になって、彼女が僕と同じクラスになってからだった。一年生のときは、別のクラスになってしまってね。滅多に会えないのを嘆いていたけれど、今思えばあれぐらいが丁度良い距離感だった。同じクラスになると、何気ないことでも彼女に声をかけるようになった。さっき冬の空と言ったけれど、彼女は決して無感情なわけでも、表情が乏しいわけでもない。むしろ、よく笑う子だった。僕のちょっとした冗談にも静かに淑やかに、でも満足できる笑い方をしてくれた。それが嬉しくて、いつも彼女の側にいた。


 だけど一方で、他の生徒との関係を断ち切るわけにもいかなかった。一年生の頃に仲良くなった女子生徒が、殊に僕を気に入ってくれていて、勉強で困ったことがあるといつでも僕に訊きにきた。勉強は得意だったし、友人が増えるのは良いことだと信じて疑わなかったから、僕は喜んで相談に応じたよ。僕は無駄に好かれ過ぎたんだ。余分な好意は、余計な悪意も引き寄せる。


 あるときから、物をなくすことが増えた。靴が片方見つからなくて、探したらごみ箱の中から出てきたり、体操服がなくなって、慌てて他のクラスの人に借りにいったり。状況は段々悪くなった。座ろうとしたら椅子の上に画鋲がひとつ落ちていたり、いつの間にか筆箱の中に針が混ざっていたり。どれも命に関わるようなものじゃなかったけれど、怖かった。自分はいつか殺されてしまうんじゃないかってね。それも、明確な意図をもって殺されるんじゃなく、遊び半分で、ちょっとやり過ぎました程度のヒューマンエラーで殺されるんじゃないかって。


 僕はこのことを、例の人には黙っていたよ。こんな姿は見られたくないと、少年らしい決意を燃やしてね。いちいち驚いたり痛がったりする僕を、彼女はダサいと言うに違いない。これは今でも確信できる。彼女にとって、彼女が耐えられる痛みに耐えられない人間はダサいんだ。だから我慢した。他のペンに紛れてビリビリペンが置いてあっても、上着に手を通したらカッターの刃が仕込んであっても、何でもない顔をしてやり過ごした。


 そんな僕に、彼女は『大丈夫?』と声を掛けてくれた。


 それがどれほど嬉しかったことか。


 この頃にはもう、彼女は罵倒の言葉しか吐かなくなっていた。バカ、アホ、死ね、消えろ、うるさい、黙れ、嫌い。でも本当に嫌っている訳じゃないんだ。その証拠に、彼女は一度も『別れろ』とは言わなかったし、二人で会ったときはハグしてくれた。彼女は少し、いやかなり、自分の感情を表現するのが苦手なんだよ。


 そんな彼女が、僕の苦しみに気付いて労りの言葉を掛けてくれた。それが僕には信じられなかった。やっぱり根は優しい子なんだと分かったし、何より僕だけは理解してあげなきゃと思った。この世の全てが彼女の存在を否定しようとも、僕だけは彼女の味方で居てあげなきゃ、と。やはり少年らしい純粋さで、僕は決意したんだよ。


   ***


 「……」


思った以上に、壮絶だった。想像を絶した。確かに好んで話したい内容ではないだろうが、彼が過去にそんな経験をしていたことも初耳だったし、彼の言葉を借りれば『少年らしい』素直さも現在からは想像できない。「と、ここまでは妄想で」と続けてくれたほうがまだ納得できるくらいだ。


「と、ここまでは前奏で、ここからがサビというか、ミソなんだけど」

「ちょ、ちょっと待って」

「質問?」

「いや、質問じゃなくて。ねぇ、まさかとは思うけど圭くん、気付いてないの?」

「何が」


言おうか言うまいか口淀んだが、この確認を飛ばして本題に入ることはできない。たとえ彼を傷つけることになろうと、ここは譲ってはいけないのだ。


「君はこう言いたいんだよね? 自分たち以外のクラスメイトは全員加害者だったけど、彼女だけは君の味方で、唯一の理解者だったって。でもそれ、そんなの――」


口に出すのも気が引けて、私は乾いた唇を舐める。彼がどんな表情をして聴いているのか、直視できない。


「――その子の自作自演に、決まってるじゃない」

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