火猫

金子よしふみ

第1話

 そいつは単なる噂話だった。いつからいたのか、どこから来たのか、素性なんかがあくまで戯言のように過多になっていたのは、一昔前なら都市伝説とかと呼んでいただろう。今や各々の手のひらに乗る画面の中でそいつの不確かさだけが流布していた。そいつを捕まえたと自慢げに話していた男の家は夜中、不審火で燃え尽きてしまい、男もどこに行ったのか不明になった、などという話もあった。

 いつしかそいつは火猫と呼ばれるようになった。まさに燃え盛る火に包まれた猫のように見えると言う。もはや、日本人ならそいつみたいなのを妖怪と枠組む。

 ただ火猫が生まれた原因とやらは妙に現実的なのだ。

 ×月×日。ある男の所有する自動車のナンバープレートには血痕があり、ちょうど猫くらいの大きさだった。誰かが言っていたことだが、そういえば家の前で猫が轢き殺されている朝があった。通勤ルートはちょうどその道路だったそうだ。器物損壊。罪状はその通りだが、命がそこで奪われたことに変わりがない。しかし、その男にはその自覚がなかったと言う。 

 ある晩、その男の車が焼けた。帰宅した早々に燃え上がったと言う。男は屋内にいて彼だけが燃え、家財一切には焼けた跡はなかったらしい。全身やけどで救出され、救急隊員にうわごとのように男は、

「火の猫が、火の猫だ、火の、火の猫なんだ」

 と繰り返し続け、病院に着くか着かないかで息を引き取ったと言う。

 それ以降である。火猫のうわさが広がったのは。


 彼がそれを見たのは、そんな噂を聞いて何日かした晩だった。

 赤ん坊のような声がして、四本足で歩くから、きっとそれは猫だろうとは慣れた判断だったが、ガラス戸の向こうには燃え盛る火の色が揺らめいていた。はっと息をのんでいると、そいつの軽やかな足取りは本当に猫の様だった。四足リズミカルな動きに合わせて火先が穂のように揺れた。火猫は彼の存在を認めたのだ。

 彼は思った。交通事故を起こしただろうか。命を軽視しただろうか。噂を、都市伝説を、妖怪をバカにしなかっただろうか。駐車のため路肩に寄せた時、縁石にこすった。しかし、それは言い訳をすればこちらの車両も傷ついたのだ。左腕をちらと見て蚊が止まっていたから勢いよくはたいた。ティッシュで忌々しく取り、その後かゆみ止めを塗った。噂は信じなかった。都市伝説はそういえば口裂け女や人面犬なんてのもいたなと思い出を探った。妖怪は、何々娘や何々爺、何々婆しか思い浮かばなかった。それらが火猫を呼び寄せてしまった原因だと言うのなら、あまりにも日常的すぎている。それで自分の命が奪われるのなら、あまりにも現実は非日常すぎている。

 彼は手を合わせていた。信仰のせいではない。般若心経どころか真言の一つも知らないのだ。かといって、懺悔でも告解でもない。悪霊退散の呪文でもない。彼は火をまとった猫のように見えるそれに手を合わせていたのだ。

 火猫は小ばかにするかのように、あるいは彼の無知を憐れむかのように一鳴きした後、またしてもリズミカルに歩いて行った。火は揺らめきながら小さくなって行き、手を合わせたままの彼はそれがもう真っ暗な夜と同じ色になるまで見つめ続けた。

ほっとした彼は朝になって、自分が気を失っていたことに気付いた。


 ニュースがあった。

 ××市×木X町目XXの森口太郎 焼死 

 家屋どころか、室内にも焼けた跡、焦げ跡さえもなく、ただその人だけが焼けた。

 その人のスマホには動物を虐待する動画が残されていたと記事にあった。


 彼は愕然とした。なぜなら、彼の住所は、××市×林X町XX 名前は森田太朗

 火猫は探していたのだ。処すべき人間を。人間の文字を、言葉を理解していたのだ。彼は一日寒気から抜け出せなかった。

 

 火猫は今もどこぞを歩き回っているのだろう。

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火猫 金子よしふみ @fmy-knk_03_21

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