夢玉堂の二階には

絹田屋@活動休止

第1話

 猛暑の陽射しが降り注ぐ。凹凸が激しい 土瀝青 あすふぁると は熱された ふらいぱん の如く、征く者を苦しめた。揺らめく逃げ水が目眩に拍車を掛ける。

 私は一介の、出版編集者にすぎない。何故汗と埃に塗れながら出歩いているかと問われれば、今話題の硝子製品を扱っているお方のインタヴューの為だ。

 埃っぽい大通りから路地を抜け、丁字路突き当り。目的地である店には風鈴がずらりと並ぶ。《夢玉堂》と掲げられた看板は茹だる視界でも確認できた。やっと着いた。桐を一枚板に切り出した職人気質さから店主――訳有って私は名義人殿と呼んでいる――の性格が現れているように思えた

 彼は社内では気難しく、気紛れなヒトであるとの評判だ。そして其れは其の通りで、弩が付く新人の私であれば担当者にしても良いとの御達しだった。彼は人気作家でもあり、この《夢玉堂》の店主でもある。


「御免下さい。」


 暑気あたりしそうな喉を振り絞り、名義人殿を呼ぶ。開け放たれた店先の奥には、間違いなくヒトが居るはずだ。反応が無かったのでもう一度声を掛けた。


「いらっしゃい。そう何度も呼びなさんな。」


 チリチリと涼しげな音と、軽い足音を立ててやってきたのは店番の 草夏 くさか殿だった。おかっぱ頭で頭頂部に飾られた大振りな 髪帯りぼんが愛らしい。細い首にピタリとくっついている首飾り。歩くたびに金の鈴が踊っている。


「旦那様は、中庭で水浴びをしていますの。」

「全く、此の時間に伺うと云っておいたのに。相変わらずなお方だ。」


 本当にそうですわね、と彼女は笑った。黒袴に雪銀の肌、縮緬の折り鶴が画かれた振り袖を翻す。冷たい 曹達そーだをお出ししますわ。涼し気な声に蘭鋳の帯が揺れる。

 店内は相変わらずの陳列であった。絢爛な洋吊燭台しゃんでりあを模した装飾品。七色の光を放つ白鳥の硝子文鎮。異国の海底を切り取って出来た 小酒杯りきゅーるぐらす 。所狭しと並べられた異国情緒溢れる品々に目移りする。


木立こだち様。其れを飲んだら上がってこいと。」


 さては、暑くて面倒になっているんだな。苦笑した私は草夏殿から曹達を受け取り、一気に飲み干した。パチパチと喉中で爆ぜる炭酸が爽快である。サァッと体内の熱が下がった心地がし、すっかり目が冴えた。

 こちらへ。彼女は小さな手で私を促す。慣れぬ革靴を脱ぎ揃え、彼女の後ろを付いて行く。突き立てた大きな番傘の下で、木桶に氷水を張った名義人殿が仰け反っていた。


「嗚呼、木立クン。斯様な恰好でスマンな。夏はどうにも苦手だ。」


 視線だけを此方へ寄越すと、ぎざぎざした――喩えるならば鋸の刃――歯を覗かせ、虚無主義者的な笑みを見せた。水に濡れた前髪が滴り、普段より威圧的な雰囲気が緩和されている。私は苦笑を浮かべた。


「いくら酷暑とは言え、氷水はやり過ぎではありませんか。」

「ヒトより熱を持ちやすい体質なモンでね。これくらいせんと、どうにもならんのだ。」


 草夏殿はクスリと笑い、鈴音をさせながら立ち去った。童の見かけだというのに、緩やかな所作が妖艶だ。視界の端で舞い去るそれに名残惜しさを覚えながら、名義人殿に向き直った。


「其のままで結構ですので、お話をよろしいですか。」

「良いとも。僕ァ、木立クンの事は気に入っているからネ。」


 掻き上げた前髪はより黒々と艶めき、切れ長の三白眼が弓の如く 撓 しな る。蛇に似た視線に私の背中がゾクリと粟立った。

 咳払いをして 筆記本のーとと万年筆を取り出した。店の歴史、開店した切欠は既に伺っている。


「名義人殿は三代目に当たり、歴史は明治となってから直ぐ、でしたね。切欠は貿易商だった初代が友人から、珍しい物を土産として受け取った事だった。」

「ウム。初代も先代も早死したので、管理する者として僕にお鉢が回ってきた。」

「硝子ばかりを扱う様になったのは、名義人殿からなのですか。」

「そうだ。」


 彼は体勢を直し、縁に両肘を引っ掛け、腕枕をする様に自身の頭を乗せた。首を傾げる姿勢で、ねっとりとした視線を此方へ向けた。


「硝子は良いモンだ。褪せない。宝石に比べて安価でありながら、清廉だ。硝子を見れば持ち主の 為人 ひととなり まで映し出す。」


 まぁ、脆いがナ。

 薄く開いた唇がニタリと笑みを象り、赤い舌が覗く。此のヒトは、もしかしたら蛇なのでは無いか。とすれば、彼に慄いている私は蛙か何かだろう。語られる言葉は確信に基づく力強さに満ちており、逸そ畏怖さえ覚える。


「どんな硝子が、良い硝子ですか。」

「そうだなァ。」


 彼は水を掬ってバシャバシャと顔を あらう。半目になった眼は水面を眺め、少し留まった。

 私は名義人殿の担当者であったが、彼の瞳がどうにも得意ではなかった。

 彼は少々おっかない。だが、 貴婦人れでぃ 好みの涼やかな かんばせの持ち主であり、余所行きの愛想や愛嬌もある。若々しい肌から年齢が推測出来ない。身丈は六尺ほどある大男だ。控えめに言って、色男と称されても問題ない。

 しかし、何故か目を合わせると上手く息が出来なくなる。射抜かれるという表現の通り、私は碌に身動ぎさえ許されぬ石の身体になってしまう。


「君の眼みたいな、硝子が良い。」


 私の口から、間抜けな声が漏れた。「私の眼ですか」と問えば、「そうとも、君の眼だ」と返される。聞き間違えでは無かった。


「薄過ぎず、厚過ぎず。丁度良い塩梅だ。曇ってもない。打てば響く透明度の高い硝子は、僕自身好みでネ。」


 何と返答すれば良いか分からず、半ば混乱したまま彼の言葉を書き記した。一言一句違わずだ。冷静な判断が出来ない場合は、事実を書き留める事だけに集中し、文字起こしは優秀な先輩や明日の私に任せるに限る。


「ええと、褒めて頂いて光栄です。」

「ウム。」


 名義人殿は満足げに笑った。頬杖を付いて、明らかに私の反応を見て楽しんでいる。私は正座し直して、再び咳払いをする。彼に振り回されていては仕事を完遂するのは難しい。


「お客様は、どういった方がいらっしゃるのですか。」


 其の質問を投げかけると、上機嫌に上向いていた口角が下がっていった。周りの空気がヒヤリとする。


「そうか。木立クンは、まだ二階に上がった事が無かったナ。」

「二階でございますか。」

「丁度、客が来る予定だ。見学していき給え。」


 ザバァッと桶から勢い良く立ち上がった名義人殿から、咄嗟に眼を背けた。彼は水浴をしていたのだから当然全裸なのだ。


「おやァ? 同じ男同士なンだ。照れなくたって良いじゃァないか。」

「不躾に眺めるのも、また違うでしょう。」


 彼を見ずとも、声音からして誂っているのは明白だ。傍らにあった手拭いを投げる様に渡せば、堪えきれなくなったのか、とうとう彼は独特な笑い声を立てた。


 ◆ ◆ ◆


 名義人殿が着流しに袖を通すと、貴婦人の声が表から聞こえてきた。草夏殿が応接している様だ。


「嗚呼、もう来たか。」


 半ば独り言で紡ぎ出された台詞に、私は恐怖に似た気配を感じ取り、顔をあげる。彼の表情は、戦地で敵陣を迎え撃つ将の如く、力の入った物だった。


「木立クン。覚えておくと良い。ヒトが此処に呼ばれる時は 憂鬱 めらんこりぃ郷愁のすたるぢぁに心を蝕まれている時だ。」


 は、と声にも言葉にもならない声が漏れた。言われた単語を区切って咀嚼しても、その意味を掴み損ねてしまった。


「何。直ぐ分かるサ。」


 私は筆記本と万年筆を握りしめ、敵襲に備える。強烈に甘い香りがして、私は顔を顰めた。草夏殿は私達の姿を認めると、静かに下がっていった。


「いらっしゃい。ご婦人。」 

「嗚呼、良かった。何だか今日は開いている気がしたの。」


 婦人は細身の 日傘ぱらそるを携えてえた。踵の高い靴に膝丈ほどのスカート。水に濡れた名義人殿の髪に、彼女はそっと触れた。


「水浴び中だったのね。上がってもよろしいかしら。」

「勿論だとも。お代は前と同じだ。其処の小瓶に入れてくれ。」


 上品なレースが あしらわれた手袋。現代的なクロッシェ。引眉に頬紅が塗っている。モダンな装いをした婦人は私に 微笑わらい掛けた。


「見ないお方ね。お弟子さん?」

「そんな所だ。彼も二階に上げる。」

「ふふっ、私は見られても構いませんわ。」


 睦まじさを感じる声音と触れ合いに、心臓がドギマギとする。彼女はクロッシェを脱ぎ、パーマネントを施した髪をそっと撫でた。そして小瓶に十円札を。私は素っ頓狂な声を漏らす羽目になった。


「そんな大金、二階に一体何が?」


 彼らは悪戯めいた笑みを浮かべ、無言で歩き出す。私は黙って付いていく他に術が無かった。

 日が高いうちから、男女が閉じられた空間へ向かい、金銭のやり取りを行う……。いかがわしさが充満するが、私は 頭 かぶり を振った。

 屋敷の奥へ奥へと進む。私が想像していたより、この家屋は遥かに広かった。廊下がいくつも枝分かれし、今どの辺りを歩いているのかも分からない。


「付いてきているか。」

「はい。」

「見失うなヨ。 はぐれたら帰ってこれンかもしれんから。」


 電灯があるにも関わらず薄暗い。私の後ろに婦人が、前には名義人殿が。妙な緊張感を味わいながら摺足で彼を追う。紺色の着流しに、薄灰色の帯が暗がりに浮かんでいる。引き締まった背中から腰にかけて、妙な色気を放つヒトだとぼんやり思う。


「ねえ、お弟子さん。貴方はどんなユメダマを頂いたの?」


 ご婦人が私に話しかける。はて、ユメダマとは。表にある商品の事を指しているのだろうか。私が此の夢玉堂で入手できたのは、小さな硝子の小物入れだ。男が使うには繊細過ぎるのだが、青色から無色に移り変わる様は 蒼玉えめらるどより美しく思えた。


「私は、」

「到着だ。」


 名義人殿が私の言葉を遮った。同時に私を強引に引き寄せる。階段の前をご婦人に譲る様に促した。


「さぁ、貴婦人。此処からは貴女が先頭を。部屋に入る最初の者がユメダマに呼ばれる仕組みとなっています故。」


 耳元で彼の声が響く。近い距離の為、普段では聞き取れない低い音波が身体を伝う。彼の血流と呼吸が起こす雑音が妙に心地良い。それと同時に何とも云えぬ痺れに近い感覚が背中を波打っていく。

 では失礼して、と彼女は階段を上がる。一段が膝ほどの高さだった。慎重に、だが踏みしめるようにご婦人は登っていく。名義人殿は私を捕らえたまま直ぐには動き出さず、彼女が闇に消えてゆくのを待っていた。


「名義人殿。離して頂けませんか。」


 体中がそわそわする。むず痒いような、擽ったいような。彼の大きな手と力強い腕にも困惑した。一見不健康そうであるというのに、一体何処からこんな力が出てくるというのだろうか。


「木立クン。暫し我慢だ。」

「何故です?」

「彼女がユメダマを手に取るまで、動いてはならンのだ。」

「ええと、名義人殿から離れるのも、ですか。」


 身体を捻って逃れようとしたが、抜け出せる気がしない。ざわざわと身体の奥底が泡立つ感覚が激しくなっていく。ヒトと密着する経験が今まで無かった所為で、他人の温もりに戸惑う。


「おやァ。また何か照れているのかね?」

「いえ、っ……! あの、耳が、擽ったいのです。」


 知っているとも。吐息混じりに囁かれた名義人殿の声が、鼓膜に甘く響く。膝から力が抜けて倒れそうになるのを、後ろから抱き留められた。耳の後ろに彼の鼻があたる。クツクツと喉を震わせて、笑い出した。


「あっ、うぁっ! は、離して下さい……!」

「木立クンの、その感覚が鋭い所を好いているンだ。そう連れない事を言わンでくれ。」


 ぎゅう、と抱き込まれたかと思うと体温が一気に上昇する。呼吸が浅くなる。汗が噴き出す。眼から涙が零れ、溢れた熱を排出しようと、身体が跳ねた。

 何かが足から膝、膝から腰、腰から背中へと登ってくる。違う。彼に密着している所為ではない。別の何かが、私の身体を通っている!


「何ですか、これ、あっ、嫌、嫌だ、名義人殿……!」

一寸ちょっとの辛抱だ。ちゃァんと助けてやるとも。」

 まるで子供が愚図るのをあやす様だ。暴れる私を抑え込み、落ち着かせる様に身体を さする。振り返れば彼の顔がある。至近距離で見られたくなかったので、身を固くし下を向く。

 それでも妙な感覚は容赦なく襲い掛かってきた。


「は、ぁ……! 嫌だ、嫌だぁ、んっ、はぁ、あぁ……!」

「ヤレヤレ。君が 女子おなごでなくて良かった。まァ、ある程度は予想していたが……。」


 もはや自力で立っていられなかった。名義人殿に身体を預け、ガクガクと揺さぶられる感覚に翻弄される。腰が疼いて膝が笑う。何かが背を這い回り、首に纏わり付き、舌先まで痺れを残す。口がだらしなく開く。涎が涙と混ざり、みっともなく垂れていく。

 ぐっと髪を引かれ、上を向かされた。整った名義人殿の顔が、愉悦の色に染まっている。


「はしたないなァ、木立クン。」

「――……ッ!」


 彼と目が合う。舌舐めずりする蛇が意地悪く嘲笑う。彼に軽蔑されてしまう。彼が卑しい私を見ている。冷淡な瞳に、形容し難い熱が こもっている。

 彼の強い視線に射抜かれたまま、一際大きな痺れが襲いかかる。目の前が真っ白になり、一瞬意識を手放しそうになる。


「ホレ、大きく息を吸え。もう動いて良い。」


 固定されていた腕が緩む。ヘナヘナと床に座り込み、息を整えた。上着から 手巾はんけち を取り出し、口元……いや、顔中を拭った。自らの痴態を思い返し、羞恥で死にたくなる。


「何、ですか。今のは……。」

「ユメダマと君が、共鳴したんだろうさ。」


 嘘の様に波が引いていく。悪い夢を見ていたのではないかと疑いたくなる程度に。名義人殿もカラッと答えるので、冷静さを取り戻すのに時間はかからなかった。 


「ユメダマとは、一体何なのですか。」

「説明してやるとも。」


 彼が階段を登る。先程まであった薄暗がりがなくなっている。外からの光が差し込んで、温かみを感じる程だ。

 軽快な足音と背中から発せられる雰囲気で、何故か機嫌が良さそうに思えた。唾を飲んで、彼に切り出す。


「名義人殿。その、……私を軽蔑しましたか。」

真逆まさか 、そんな事は無い。単純に乱れる君は面白かったし、意地を悪くすれば可愛らしい顔をするンでな。」


 振り返ったその表情は逸そ腹立たしかった。だが、其れ以上に彼の底が見えずに戦慄いた。男の私に、此のヒトは一体何を言っているのだろうか。仕事の為だと思い直し私は深呼吸をする。


「入り給え」


 二階に辿り着いて直ぐの所に、ピタリと閉じられた障子が現れる。

 恐る恐る手にかけて滑らせる。部屋の中には、雛段の上に夥しい数の小瓶が並べられていた。壮観な眺めに息を呑む。


「全部、空瓶……?」

「ご婦人は恐らく、二つ隣の八畳間だ。」


 呆然とする私を尻目に、ご婦人の行方を探す。彼の言う通りの場所に彼女は蹲っていた。


「嗚呼、私の、儚い夢……。」


 彼女は小瓶に頬ずりし、静かに泪を流していた。中身は無い。しかし淡い 雪洞ぼんぼり のような光が、まるで蛍の如く浮遊していた。


「ご婦人……?」

「邪魔してやりなさんな。彼女は今、心を治している。」


 心を? 思わず名義人殿に鸚鵡返しする。彼女を尻目に、彼は更に奥へと進んで行く。


「此処は《夢玉堂》のもう一つの姿だ。……イヤ、逆だな。本来は玉ではなく、霊と書いて《夢霊堂》だったンだ。其れを僕が普通の硝子雑貨を扱う表向きの店を始めたのサ。」


 名義人殿の話を聞きながらメモを取る。 


「瓶に入っているのは夢霊だ。彼女が大枚叩いて買ったのも、君が反応を示したのも。」

「空に見えますが、此の中に在るのですか?」


 ふむ。と彼は何か思案する。来給え、と連れられたのは錠の着いた洋風の部屋だった。内装は洋館の書斎だ。硝子戸の付いた本棚に、一際大きな瓶瓶が並ぶ。

 猫の忍び足で入室すると、扉が一人でに閉じた。慌てて振り返るも、彼の姿はない。辺りは異質な静けさが漂った。


「《欠けた硝子は戻らねど、心の聲は補へる》。これは初代の言葉だ。」


 彼は部屋の外で夢霊について語った。

 夢霊とは、欠け損じた心を補うものであると。そしてそれは、夢霊を必要とする者にしか見えぬし、手に取れぬものであると。


「木立クン。君は離れた場所の夢霊に対して、過剰に反応を示した。という事は、君の心にそれを渇望するだけの穴が在るということだ!」


 名義人殿の演説じみた言い回しに嫌な予感しかしない。鳥肌が立つ。

 突如、ボウッと戸棚の瓶から淡い人魂に似た何かが現れた。あれが、夢霊というのか。


「君の心は、何が足りないんだ?」

「ッ私に、そんなものは……!」


 先刻と同じ感覚が皮膚を這う。扉を開けて逃げようとしたが、糊付されたようにビクともしない。夢霊の一つが、私の下腹部辺りに染み込んでいった。


「ッ! あ、ああぁ! 熱い、うぁ、あああぁ!」

「正直になったほうが良い。此処には君と僕の二人しか居ないのだからナ。」

「嫌です、……ッ! また私を誂って、何が楽しいのです。開けて下さい!」

「楽しいとも! 言ったじゃないか。僕ァ、君が気に入っていると。」


 嬲り殺される、と脳裏が囁く。腰が抜ける。扉にピタリと身体を寄せ、哀れな小動物の如く体勢を丸くするしか出来なかった。部屋の中には夢霊が、外には眼と歯をギラリとさせた名義人殿が。扉を開けようが開けまいが、怖ろしい状況にあるのは間違いない。


「う、あぁ、嫌っ、許して、嫌です、嫌……!」


 次々に夢霊が身体へ入る。その度、ゾクリ、ゾクリと身体の中を這う。スラックスが汚れるのも気にせず、私は足をバタつかせた。

 気が付けば、部屋中がこの世の物とは思えない灯りで満たされていた。


「……君、あまり人間らしい生活が得られなかったのか。」

「あっ、ふぁ、うぁぁ、何故、何故……!」


  感覚衝撃ふらっしゅばっく

 雨降師。見世物小屋。鱗肌。一ツ目。象足少女。身体を打つ。鞭。拳。


「私、私は、呪術なんて使えない! 団長を、呪い殺してなんか……! やっと、やっと人並み勤められる生活を得たんです!」


 売買。錯乱。脱走。泥啜り。罵声。


「う、うぁ、ああぁ、堪忍、堪忍して下さい……!」


 名義人殿から返答が無い。彼は此処の主なのだ。もしかしたら、私の記憶を覗き見ているのかもしれない。或いは、瓶の中身から察することも可能なのかもしれない。


「ひっ、嫌、あ……! あぁっ、み、見ないで……!」


 此のヒトに憐憫を向けられるのも、軽蔑されるのも耐えられない。此のヒトにだけは、嫌われたくない。


「ひっく、め、名義人殿、どうか、内密に……! ん、う、うぁ、私は、もうヒトに成ったのです、これ以上は、どうか、どうか……!」


 身体が開かれていく。いや、暴かれていると言ってもいい。忘れかけていた傷に無理矢理、傷薬を塗り込まれる心地だ。確かに渇望していた。だが其れを得るべき時期は通り過ぎてしまったのだ。

 濁流に飲まれ、呼吸の仕方を忘れる。チカチカと星が舞い、追い詰められていく。


「も、駄目、あ、ああぁ、あっ、――ッ!」


 白んでいく意識の外から、逞しい手で捕らえられる。救いにも思えて私はそれに縋り付いた。


「……スマン。」


 嵐のような侵入が止んだ。辺りは相変わらず、淡い雲の上に居るような景色だったが、遠慮なしに夢霊が入り込んで来なくなった。扉が開かれ、私は名義人殿の腕の中に居た。


「非道い、非道いです。一体私に、何の恨みが在るのです。」


 再び、スマンと言われ、強く抱き締められる。抵抗する力は無く、私は泣きじゃくった。


「私、欲しくない。今更、今更貰っても、火傷してしまう。」


 やや冷えている手が、私の泪を拭っていく。不器用な手つきだったが、壊れ物に触れるような優しさだった。まるで、繊細な硝子細工を磨く様な。

 徐々に収まってきたのを見計らったのか、名義人殿が重い口を開いた。


「僕ァ、単純に……。ただ君の事が、もう少し知りたかっただけなんだ。」


 罰の悪そうな顔があまりにも子供じみていて、私は思わず噴き出してしまった。


「何ですか、それ。」


 眉はハの字に下がり。口紐は真一文字に結ばれている。目にかかる艶やかな黒い髪、その間から覗く眼の色は、私の苦手とする蛇の瞳ではなく、まるで迷子になって不安で溢れた物だった。

 そんな表情をした彼を、これ以上咎める気は起きなかった。


「嗚呼、いらした。よろしいかしら。」


 来た時よりも随分晴れやかな表情をしたご婦人が居た。それから、優しい泪の跡も。


「やァご婦人。もう良いのかね。」

「ええ、もうすっかり。」


 挨拶だけしたかったの。と言って彼女は踵を返した。階段を降り、表で靴を履いた所で、彼女は私を見つめる。


「貴方も、難儀なお方なのね。」

「え?」


 深い意味は無くてよ、と手先を口元に添え、軽やかに笑う彼女は若返った風にも見えた。見送った後も、私は暫し呆然と立ち尽くした。


「木立クン、君の会社に連絡を入れてやった。僕に捕まって夕飯を共にするとね。」

「ええっ!」

「もう暫し、僕に振り回され給え。」


 飄々とする名義人殿。私はご婦人の言葉を反芻する。

 貴方も、と言われたという事は、当然名義人殿も難儀なヒトという事だ。私は少し、何かを勘違いしていたのかもしれない。


 《夢玉堂》の二階には、心を素直にする空間が広がる。硝子の聲で補った心は、虹色に輝く、強い物となるだろう。

 憂鬱と郷愁を飲み込んだその先に。

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