第4章:『すれ違いの方程式』

 六月に入り、学校は期末試験に向けて慌ただしくなっていた。


 放課後の図書館で、空央は数学の問題集に向かっていた。理系科目は得意だが、微積分の応用問題には少し手こずっている。


「あの、葉山くん」


 突然、後ろから声がした。振り向くと、月詩が立っていた。


「美咲さん。どうしたの?」


「その、お礼がしたくて。この前は親切にいろいろ教えてくれたから」


 月詩は小さな紙袋を差し出した。


「これ、文芸部で作った栞。蝶の写真を使ってデザインしたの」


 透明な樹脂で封入された栞には、青い蝶の写真が美しく輝いていた。


「わあ、綺麗だね。ありがとう」


 空央が笑顔で礼を言うと、月詩は少し安心したように肩の力を抜いた。


「あの、もしよかったら……」


 月詩は少し躊躇いながら続けた。


「一緒に勉強しない? 私、数学は得意だから。その代わり、生物を教えてほしいんだけど」


 空央は思わず顔を輝かせた。


「うん、もちろん!」


 こうして二人の勉強会が始まった。休み時間や放課後、空き教室や図書館で顔を合わせる時間が増えていく。


 数学を教える月詩は、優しく丁寧な解説の仕方をする。一方、生物を教える空央は、時折熱くなって専門的な話に脱線することもあったが、月詩はそんな彼の姿を楽しそうに見ていた。


「葉山くんって、本当に生物が好きなんだね」


「え? ああ、うん。美咲さんだって、文学のことになると目が輝くじゃないか」


 二人は照れ笑いを浮かべた。


 そんなある日、空央は月詩の机の上にある小説の原稿に目が留まった。


「これ、読んでもいい?」


「え? でも、まだ途中だし……」


「僕の研究ノートも見せたじゃないか。お互い様でしょ?」


 少し考えた後、月詩は小さく頷いた。


 原稿を読み進める空央の表情が、だんだん真剣になっていく。


「すごいな……。僕が説明した蝶の構造のことを、こんな風に表現するなんて」


 科学的な観察を、繊細な心理描写と重ね合わせた美しい文章。それは、空央には思いもつかない表現だった。


「本当に? 私、ちゃんと伝わってるか不安で……」


「うん、むしろ僕の説明より分かりやすいかも。まるで、蝶の気持ちが分かるみたいだ」


 月詩は嬉しそうに微笑んだ。


 その日の帰り道、二人は並んで歩きながら、いつもより多くの会話を交わした。学校のこと、将来の夢のこと、家族のこと。


「ねえ、葉山くん」


「うん?」


「私ね、最初は葉山くんのことを、すごく遠い存在だと思ってた」


「え?」


「だって、いつも一人で研究してて、私たちとは違う世界にいるように見えたから」


 空央は少し驚いた顔をした。


「僕も、実は同じこと考えてた。美咲さんが文学の話をする時、まるで別世界の人みたいに感じて」


 二人は目を合わせて、くすっと笑った。


「でも、今は違うよね」


「うん。私たちの世界は、案外近かったのかも」


 夕暮れの街並みを歩きながら、二人は心の中で同じことを考えていた。この距離感が、心地よく感じ始めている。

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