第3話 その後の騒動
「姫様……どうしてこのような……」
小夜は寝殿の渡り廊下に座り込んで頭を抱えていた。目の前には見事な庭が広がっている。玉砂利の中には小さな川が引いてあり、渡り廊下の下をくぐって、鯉が鱗を煌めかす、池へと繋がっている。植木もあちこちに植えてあって、年中そのうちのどれかが花を咲かせ、実をつける。今の時期は夾竹桃が見事だ。しかし、今の小夜にそんなものは視界の端にも留まりはしない。むしろ呑気な花や鯉が憎らしくすらある。
朝顔は、女房を二十人ほど連れ、街を探しに城を降りた。だが、見つかる可能性は低いだろう。時間もかなり経ってしまったし、ただでさえ城下は常に賑わっていて人が多いというのに、この祭りの近い時期につぐみ一人探すのは糠の中から米粒一つを見つけ出すようなものだ。
姫の脱走……この失態は軽くない。女房全員が職を失うならまだいい。ともすれば、二度と太陽を見ることはできなくなるかもしれない。つぐみの部屋から宝石がいくつか消えていた。路銀にするつもりだろうか。それに、この時期を狙った。計画的だろう。だが、何のために?
今までも、はっきり言って大人しいとは、とても言えなかった。勉強をサボって典薬寮に行ったり、厨房からお菓子をくすねたり、橙の植木に登って、その実を取ろうとしたり。しかし、それでも彼女なりに弁えているつもりだと思っていた。典薬寮に行くのはまだいい。医術もこの国では重要だ。様々な、身分を見るのも決して悪い経験ではない。だが、城の外に出るには彼女は幼すぎる。
どうして今まで気づけなかったのか? 小夜はこの数刻、幾度繰り返したか分からない問いを再度自分に問うた。
「小夜殿?」
その時、声が降ってきた。まだ幼さの残る、だが、確かに男の声だ。
「一体何の騒ぎですか。こんな朝早くから。まだ、祭りは始まっていませんよ」
紺の紋付長着に淡い橙色の袴をはいた少年が、気遣わしげに小夜を見ていた。穏やかで、気の弱そうな印象を受けるその少年の側には、場違いとも思える屈強で、黒尽くめの男が立っている。
「
小夜は慌てて身をただし、その少年にひれ伏した。
丁度、一月ほど前に成人の儀を迎えたばかりの彼は
「別に、私に平伏する事はありませんよ。私自体には何の立場もないんですから」
「ですが……」
小夜が、顔を上げれない理由は彼の生い立ちゆえではない。
「ほら顔を上げてください」
小夜は観念して顔を上げた。
「何があったんですか? 侍女たちが大勢、城の外へ出ていったそうですが」
「それが、姫様、つぐみ様が城から抜け出してしまって……皆、城下へ探しに」
「なに……つぐみ様が」
穏やかな表情が揺らいだ。それもそのはず、彼はつぐみの許権でもあったからだ。側の黒尽くめがジロリと睨みつけてきた。物こそ言わないが、腰に
以外にも、橙司の君は弾けたように、笑い出した。子供がした悪戯を面白がるように。
そういえば。小夜は思い出した。彼とつぐみは、子供の頃からの遊び友達であったと。とは言っても、あちこちで騒動起こすつぐみの横で、泣きべそかいているだけだったが。
お互いに成長し、許婚と決まってからは、昔のように遊ばなくなってしまったが。小夜は少し懐かしさを覚える。こんな時でなければ。
「笑って済ませられることではございません!」身分の差も忘れて小夜は叫んだ。つぐみも橙司も、小夜の腰にも背が届かない時から叱りつけてきたのだ。今さら、もう変わらない。
「大丈夫でしょう、直に帰ってきますよ」
目尻を拭いながら橙司の君は言った。小夜の怒鳴り声もどこ吹く風だ。
「この国は平和だし、つぐみ様の脚ではそう遠くに行けません」
「ですが、万が一のことがあったら……私は陛下に、顔向けできません!」
思わず声を上げて、直ぐに後悔した。少年の眼から穏やかさがすっと、消えたからだ。代わりに映ったのは愁いのような、哀れみのような何かだった。小夜は突然、目の前の少年が急に十も二十も歳を取ったように感じた。
橙司の君は目を細めて、口角を上げた。笑みというには歪な笑みだ。
「そうですか……では、こちらで探させます。小夜殿らは少し休まれては如何がですか? 街に出した他の侍女たちも戻して。ほら、せっかく、我儘な姫がいないんですから」
その口調は穏やかなようで、有無を言わせないものだった。小夜は、たしかにこの者が、この国に鎮座する、あの頭竜大臣の嫡子なのだと悟った。
「……かしこまりました。他のものにも伝えさせます」そう言うしか、なかった。
立ち去る橙司の君とその側付きを礼で見送ってから、小夜はひとり、ため息をついた。とりあえず、首の皮一枚繋がった、なんていうのはお気楽すぎるだろうか。
それにしても。小夜には橙司の君の態度がどうにも引っかかった。許嫁が行方知れずというのに、随分と落ち着き払っていた。まるで、つぐみのことなど気にも留めていないかのように。むしろ、つぐみが居なくなったことを喜んでいたようにすら見えた。それに、人手が足りない中、女房たちを全員を休ませるだなんて、まるで――
小夜はそこまで考えてやめた。あの黒尽くめの男の目が今も睨んでいるような気がしたからだ。
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