家族

学校の近くのファミレス。



美菜とよく一緒に来るここに、まさか兄と一緒に来る日が来るとは思わなかった。


目の前には、ちょっと弱々しい面持ちをした奏多がいる。



「……昨日の話、聞かせてほしい」



静かに切り出した私に、奏多は一瞬の迷いのあと、ゆっくり頷いた。



「つい最近の話なんだけど」


「ええ」


「オーストリアに留学しないかって言われた」


「…そう」



海外留学。


それは確かに、奏多には大きな不安材料だろう。


留学なんて知らない人ばかり。しかも音楽で留学するなんて、普通の留学より大変だ。



大学の先生に薦められているってことはそれほど期待が大きいってこと。


少なくとも過多のプレッシャーに弱い奏多にはなんとも言えないだろう。



「怖いのね」



私の小さな呟きにに驚いたような顔をした奏多が真っ直ぐに私を見てくる。


いまだブラック珈琲なんて大人な飲み物を飲めない奏多はやっぱりハルと被って、苦笑が漏れた。



徐々に奏多の驚きが引っ込んで、素直が出てくる。


奏多はやっぱり、私には隠し事は出来ないから。


困惑に眉間にシワを寄せている兄を見て、静かに口を開いた。



「ピアニストがプレッシャーに負けてどうするの」


「…でも」


「そんなんじゃピアニストとしてやっていけないでしょ」


「……分かってる」



分かってるんだ。



小さく呟いた奏多は私と視線を合わせようとせずに視線をテーブルに落とした。



「それで?」



「……でって?」


「言いたいこと、あるでしょう。一番言いたいこと」




それをわざわざ言うためだけに、奏多はここに来たのだと私は分かっている。


奏多のまだ迷いのある顔を見ればすぐ分かる。



でも奏多はそうは思っていなかったらしく、驚いた顔をして――徐々に諦めたような顔をした。



「ほんと、緑には敵わない」



ポツリと小さく漏らした声に、苦笑が浮かんだ。



当たり前じゃない。

奏多と伊達に20年も兄妹なんてやっていない。


奏多のことは親よりよく分かっているつもりなんだから。



緩い笑みを浮かべた奏多は、ゆっくりと私と視線を絡ませると、静かに口を開いた。




「ついてきて、緑」



まるでプロポーズだ。


噴き出しそうになった私を見て奏多は不服そうに眉を寄せた。



「緑」


「だって、結婚前のカップルみたいなんだもの」



いつかは、という夢がなくはないけれど、まさかそれを彼氏より先に奏多に言われるなんて思っても見ない。



笑いが堪えられるわけなかった。




「行かない、って言う選択肢はないのね」



やっと笑いが止まって尋ねれば、奏多はありえないって顔で首を横に振った。




「俺のこの21年間はピアノと一緒だったし。それはないよ」


「でも、私にはついてきてほしいのね」


「緑は俺の妹だろ」



言っていることが少しおかしいなんて、奏多はきっと思っていない。


その言葉は妹には普通言わない言葉なんだから。


ピアノが大好きな奏多。


暇な時間は全部ピアノに触れて、ただピアノを弾くことだけが好きだった彼は、それと同じくらい妹を大事にしていた。



それをちゃんと私は理解している。

でも、こればっかりは奏多が頼る人が違う。



「俺にはピアノしかないから」


「そうね。奏多のピアノ、私好きよ」




子供の頃仕事で忙しい時間以外は全部音楽に捧げていた両親に音楽以外で構ってもらった記憶なんてない。



物心ついたときから奏多の奏でるピアノの音が私の子守唄だった。



「緑はやんない?」


「ヴァイオリン?」


「ん」


「どうかしらね。大学入ってほとんどやってないもの」



「ふうん」



頬杖をついた奏多は人差し指でテーブルをなぞる。


ピアニストの綺麗な指の動くその様はとても優雅で、同じ私の癖は奏多のマネから始まったのを、今でも覚えている。



「…緑には才能あるのに」



ポツリと言葉を発した奏多の手から顔に視線を向ける。



身内が言うのもなんだけれど綺麗な顔をした奏多は、やっぱりカッコいいと思う。


ハルを見るまで、きっと一番かっこいい人だと思っていたくらいだから。



「あっち行って一緒にやらない?」


「無理だって分かっているでしょう?いくら妹でも、できることと出来ないことがあるわ」


「……」



国内だったらいくらでもついていける。

前は何日だって奏多が不安ならどこへでもついていけた。


でも、今奏多より大事にしたい人がいる。

私がいないだけで寝れない、奏多より弱いほうっておけない人が。



妹である私に、できることは案外少ない。

それを奏多は知りたがらなかった。


奏多には私しかいなかった。



「奏多。もう大人よ。私たち」


「…ん」


「いい加減、私から巣立ちましょう?」



それを酷く奏多は嫌がっていた。

私から離れたがらなかった。


いくら私のことを溺愛しても、そこに恋愛的な要素は含まれなくても、奏多は私に依存しすぎている。



地元から離れた理由の中に、それが含まれていることを彼はきっと知らなかったはずだ。



「奏多」


「……ごめん」




大好きだった奏多のその顔に、ウソがあったことなんて一度だってないけれど。



奏多の指がグラスを伝って落ちた雫を広げていく。



奏多の、癖。

何かを迷うときときとか苛々したときの。



「……あのね」



奏多と離れることに不安を抱くのは奏多だけじゃない。

私だって不安。


生まれてからずっと一緒にいた奏多だからこそ、余計。


下手な人より大事。

でも。



「私、奏多より大事にしたい人がいるの」




弱くて、儚くて。

でも余計な手間と心配をかけないようにと我慢をしてくれる人。


奏多とそっくりで、でも弱さをすぐに見せる彼とはちがって全部自分の中に溜め込む人。



私が一番側にいてあげないといけないと思う人が。




「……そっか」



ふっと笑みを浮かべた奏多の、弱い笑みに胸が痛くなった。



「緑はちゃんと、自分の居場所があるね」



伏せた目がかすかな痛みを帯びている。

それを奏多は、ゆっくりと隠して見せた。



奏多は仕方なさそうに苦笑した。



「やってみるよ。1人で」



そう口にした奏多に、言い出したのは自分なのに驚いた。


けれど、少しずつ安堵を覚える。



「奏多は1人でもやれる」


「ん」



頷く奏多はやっぱりあまりいい顔をしていない。

それは当たり前だけれど、でもこればっかりは仕方がないから。





「でも、どうしてもダメだったら電話かけてきて」



それが私に出来る、精一杯の今の奏多への甘やかしだった。


「……うん」



緩く笑みを浮かべた奏多は、笑みを浮かべた私の頭を優しく撫でてくれた。



「緑は優しいね」


「そう?」


「ん。誰よりも優しい」



だから緑が大事で、必要。


暗に訴えられて頷いた。



「妹に説得されるなんて、兄として微妙だな」


「そう?」


「でも、それでこそ俺の妹」



褒められたことが気恥ずかしい。くすぐったくて逃げれば、今度は頬をつんつんされた。



「リサイタル終わるまでは毎日ホールにいる。だから毎日放課後にきて」


「どうして?」


「会えるときに会っときたいから」



やっぱり恋人みたい。


そう思う私は堪えられず笑ってしまう。


「うん、いく。毎日行く」



にっこりと笑った奏多は機嫌よく鼻歌を歌い始める。



それが奏多らしいなんて思った。



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