僕たちはまだ愛をよく知らない2
にゃあと鳴く猫の声が聞こえた。夢の浅瀬。綿雪の母猫が背を向けた。学校からの帰り道。さざめきの中を俯いて歩いた。
『あなたに任せようかと思ってね』
振り返った母猫が人語を喋る。
『あなたはいいニンゲンみたいだし、わたしたちのこと好きでしょう。だけら私の子を任せてあげる』
がさり、右手に持ったビニール袋が音を立てた。そうだ、さっきコンビニに寄ったんだったか。取って付けたような記憶がふわりと浮かんで消えてった。
「いい人間って。きみが、落ちたおにぎり勝手に食べて、次からも要求してきたんだろう」
夕飯まで持たない腹を誤魔化す為に買っていた食料である。少しくらい減る分には問題はなかったが、分けるのが面倒になって彼女分も買うようになっただけだ。
『あら、そうだったかしら?』
すっとぼけた声で、まぁなんでもいいのよと白猫は会話を元の話題へと戻した。
『要は、あの子を任せられそうってことが重要なんだからね』
「どうして、ぼくなの」
ゆらゆら揺れるしっぽを追いかける。胸の内側はチリチリと火傷したみたいな痛みを覚えていた。
『言ったでしょう、あなたなら大切に育ててくれると思ったからだって』
「大切にって、そんな……無責任な、」
『あら、あなた何を思い出しているの?』
くすくす笑う声を遠くに世界が歪む。ひどく不自然な場面転換だ。けれどそれを不思議に思う人はここにはいない。ぼくはまだ、そうとも知らずに夢の中にいるから。無邪気に母へ問いかけるのだ。どうして自分の名前は愛(ちか)なのか、と。何度目かも覚えていない同じ質問を繰り返した。
「愛せると、思ったんだけどねぇ」
仕方なく産んだ子どもだと教えてくれたのは母のパートナーを名乗る女性からだった。パパもパパで、昔からの男がいるらしいしね。まぁ意味分かんないかと笑うその声に歪んだ世界は、父親とそのパートナーとの性行為を見てしまったあの日へと場面を転じる。
うっかり見てしまったなんて生易しいものじゃあない。何を考えていたのか休日の真っ昼間からリビングで事に及んでいたのだ。残念ながらこれは物語ではないので、そこで歪んだ性に目覚めたなんてことはない。あんなものは、突然の暴力とそう変わりないのだから。
『愛を知らず、なんなら愛という言葉すら嫌悪してる自分には相応しくないって?』
綿雪そっくりの青い瞳がちらりとこちらを振り仰いだ。
場面は近所の公園へと場所を転じている。ゆらゆらと揺れる木漏れ日が柔らかく辺りを包んでいる。暖かなその情景になんだか泣きそうだった。
「そうだよ、だから――」
『いいえ、それでも』
凛と、けれど優しい声で彼女はこちらの主張を遮る。細められたアイスブルーに宿る感情はなんと言ったらいいのだろうか。心臓は先までとは違う痛み方をしていた。――大丈夫よ。小さな口は騙る。
『それでも、あなたはあの子を愛してくれる。そう決まってるんだもの』
にゃあと、どこか遠くで猫が鳴き声をあげている。綿雪、起きた? 続いて届いた声は男性のもの。ずしりと胸の上へとやってきた重量は、無遠慮に顔の辺りを柔らかく叩き始めた。
にゃあ。再度聞こえてきた声に夢から抜け出た思考が回り出す。……あぁそうだ、慈夏(ちかげ)さんの家に来ているんだった。思い出す頃にまた綿雪が鳴く。
「おき、起きたから、わたゆき。叩かないで、ちょっとどいて」
目を開けた先には真っ白な毛並みにアイスブルーの猫が一匹。それから、一連の流れを見守り続けていたのであろう家主の男性がひとり、ソファの背もたれに腕を乗せてこちらを眺めていた。
「あの、すみません。勝手に入って、しかも寝ちゃって」
「いいよ、気にしないで。好きな時に来ていいよって言ったのはこっちなんだから」
それより夕飯食べてく? と尋ねてくれるこの人は、どこまで優しいのかと時々心配になる。
あの日、公園でよく会っていた白猫から子どもを託された後、どうすることも出来ずただ子猫を抱え続けていた見知らぬ子どもを助けてくれただけじゃない。その後も自宅では飼えない綿雪を引き受け、あまつさえいつでも会いに来たらいいと合鍵まで渡してくるお人好しなのだ。
誰にでも、こうなのだろうか。不安と、もうひとつ別の感情を縺れさせながら視線を交わらせる。その瞳が僅かに細められた。
それは、夢の中のあの白猫と同じ感情を宿している気がしたのだが。
「……食べてきます」
やはり分からないまま、胸の奥を燻らせ続けたのだった。
僕たちはまだ愛をよく知らない 雨月 日日兎 @hiduki
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