海に沈むジグラート 第50話【誰が為の絵】
七海ポルカ
第1話 誰が為の絵
珍しく、フェルディナントは怒っていた。
聖堂で、黙々と自分の剣の手入れをしている。
何故怒っていると分かるかというと、側に彼が本国に連れ帰りたいと公言するほど寵愛している画家の青年がいて、何かをずっと話しかけているのに、振り返らず顔を背けたまま無視していたからだ。
駐屯地にいる騎士達にとって、それは初めて見る光景だった。
ネーリの可愛げある悪戯に、こらこらと優しく宥めているフェルディナントは、彼らは見かけたことは何度もあるが、ネーリを前にここまで不満を露わにした彼を見るのは初めてだった。それに軍団長であるフェルディナントは怒る時は明確に言葉に怒る人物なのだ。
こういう風に誰かを無視するような仕草は見たことが無い。
一体何があったのだろうと思わず聖堂の窓や扉を通り過ぎる前に、気になってしまう。
気になったのはどうやら人間だけでは無いらしい。
数日ぶりにフェルディナントとネーリが駐屯地に戻ってきた昨日、非常に嬉しそうだった団長騎フェリックスが、聖堂の側にいた。
首を伸ばして中を覗いている。
「……フレディ、本当にごめんね」
色々なんやかんやと説明して、何とかフェルディナントに許してもらおうとしていたのだが、何も言わなくなってしまったフェルディナントにとうとう言う言葉も無くなって、ネーリは途方に暮れた顔で謝っていた。
「……怒るの、よく分かるんだけど……、だって、フレディ教会の絵全部買ってくれたんだもんね。だからもう、あそこにある絵は君の物だから、僕が勝手に誰かにあげちゃ駄目なのほんと分かってたんだけど」
数日駐屯地に戻れなかったフェルディナントは、久しぶりにネーリに会えてとても嬉しかった。
城であった騒ぎのことなどを話し、ネーリはネーリで、アデライード・ラティヌーから、絵の依頼を受けて、どんな絵がほしいのかなど聞いたことを話して、今日も仲良く朝食後、駐屯地内を散策する二人が目撃されていたのだが、今はこのような状況になっている。
【エデンの園】の絵をネーリがラファエル・イーシャに贈った、と聞かされた途端、みるみるフェルディナントの表情が曇ったのである。
ネーリは、別にフェルディナントが怒ったことに驚いてはいなかった。
彼が、あの教会にある絵の中でも特にあの【エデンの園】を気に入ってくれてるのは分かっていたからだ。他人に勝手に譲られてそれは困ると言われるのは予想できた。
でも、ネーリはラファエルにあの絵を贈ることを、考え直す気はなかった。
最終的にはフェルディナントが、どうしても嫌だから取り戻してくれと言われれば、そうするしかないのだろうとは思ったが、どうしようもないと思うところまでは、お願いしますと頼み込む覚悟だった。
それでも今、ネーリが途方に暮れてるのは、もっとフェルディナントが抗議してくれると思っていたからである。自分の所有権を主張し、一番気に入っていたのにと落胆を訴え、どうにかしてほしいともっと言ってくれると思っていた。
しかしフェルディナントはネーリから説明を受けた後「あの教会の絵は、俺が全て買い取っていいと、お前は一度は思ったんだよな」と問われ、じっと天青石の瞳に見つめられたネーリが「うん」と頷くと、彼は「そうか」とだけ言い、ネーリのアトリエになってる倉庫から出て行ってしまったのである。
別に怒鳴られたわけでもないし、文句も言われなかった。
普通に去って行ったフェルディナントに戸惑い、でも彼のその態度を「じゃあ好きにしていいよ」と言ってくれたとも思わなかったネーリは、随分長い間、絵を描くのを放り出して、金の瞳をぱちぱちさせているフェリックスの側にしゃがみ込み、
「いま、フレディ怒ってたかな? 怒ってたよね……すごく怒ってた? 今は話しに行かない方がいいのかな? ……それともすぐ謝りに行った方がいいかな? 君から見てすごくすごく怒ってた?」
と、話しかけて助言を求めていたのだが、フェリックスは小首を傾げているので、しばらくしてフェルディナントを探しに行くと、騎士が「団長は聖堂におられますよ」と教えてくれて――今に至るわけである。
何を言っても、説明しても、フェルディナントはネーリの方も見てもくれないし、喋ってもくれなくなってしまった。
「あの……フレディ……」
ものすごく怒った空気とか、そういうものが無いのが逆に怖い。
彼は静かな表情のまま、剣を磨く作業に集中している。
ネーリが感じ取ったのは、今は話す気は無い、という空気だけだった。
ネーリはもう、引き下がるしか無かった。
「……いま、邪魔しちゃってるみたいだから、後にするね。……ごめんなさい」
しゅん、としてネーリが聖堂から出ると、隣で心配そうに伺っていた騎士たちが慌てて元のそれぞれの作業に戻る姿を見せた。
彼らは珍しい二人の喧嘩に、しかもネーリの方が落ち込んでいる様子に、あまり気にすることはないですよ、とかまた後でゆっくり話せば団長は分かってくれますよ、とか声を掛けてやりたかったのだが、今ここで声を掛けるとフェルディナントに絶対聞こえるので、声を掛けられなかった。
いつも明るく笑顔なネーリがしゅん……としながら倉庫に帰っていく姿を、騎士たちが心配そうに見送っている。
ネーリの気配が完全に去ると、フェルディナントは作業をしていた手を止めた。
小さく息をつき、剣を聖堂の台の上に置き、しばし頬杖を突いて考え込んでいる。
すぐ、視線に気づいた。
振り返ると、聖堂の窓からフェリックスが覗いてフェルディナントを見ている。
「……なんか言いたそうな顔だなフェリックス」
金の瞳をぴかぴかさせたまま、じっとフェルディナントを見ている。
「別にネーリを苛めたわけじゃないだろ。そんな目で見るなよ」
フェリックスが窓枠に顎を乗せた。
「……なんだよ。そんなところに居座っても、俺は今回は謝らないぞ。別に、あれはネーリが描いた絵だ。俺は買い取ったし、所有権は持ってるけど、でも究極には彼の絵だ。彼が誰かにあげたいと望んだら、俺に文句なんか言えないだろう。分かってるよ。だから何にも、言わなかっただろ」
もう一度フェリックスの方を見ると、まだじっと見ている。
「何か言ってやれ、みたいな顔で見るなってば」
フェリックスは瞬きもせず、フェルディナントを見ている。
「お前が慰めてやればいいだろ。俺は今回は、絶対に謝らないからな。今は何にもその話はしたくない」
一度は背を向けたが、数秒後、もう一度振り返った。
フェリックスがじっと見ている。
「フェリックス! 目で訴えてくるなよ!」
フェルディナントがついに怒ったが、フェリックスは身動きせず、じっとフェルディナントを見ていた。彼は数日間、フェルディナントとネーリが駐屯地にいなくて、大層つまらなかったのだ。昨日戻ってきてくれて、とても嬉しかったのである。
その二人が喧嘩なんて、してほしくなかった。
フェリックスはじっとフェルディナントを見続けた。
彼は唯一自分が主と認める竜騎兵である。逆らったりはしない。
フェルディナントのすることに、フェリックスは間違いなどないと信じ切っている。
だからこそ見続けた。
「喧嘩はヤダ」の顔である。
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