俺の猫が帰してくれない!?

まとめなな

第1話

「うーん、腹減ったな……」

 夜のコンビニで買ってきたおにぎりをほおばる。味気ないけれど、今はこれが精一杯。大学生になったし、自分で自炊もちゃんとやらなきゃとは思うが、初日から頑張りすぎても長続きしない。今日は引っ越し作業だけで精魂尽き果ててしまったのだ。

 風呂上がりに軽くストレッチをして、エアコンもない薄ら寒い部屋の真ん中に敷いた布団へと倒れ込む。「これからは毎日こんな感じなんだろうな……」そう思うと、不安と期待が入り混じった奇妙な感覚がこみあげる。だが、疲れも相まって、意外にもすぐに眠りの波がやってきた。アパートの周辺は思ったより静かだ。小さな音まで気になりそうだったが、今日は深く深く眠りに落ちた。



 翌朝。朝日がカーテンのない窓から容赦なく差し込み、まぶしさに思わず目を細めた。昨晩はカーテンをつける暇もなく寝てしまった。時間はまだ朝の六時半くらいだろうか。

「……はぁ、もうちょっと寝ていたかったな」

 何気なく取ったLINEのトーク画面に母からのメッセージが入っていた。「新生活どう?困ったことがあったら連絡してね。体調崩さないように。」心配はありがたいが、まだ何も始まっちゃいない。ともあれ「大丈夫だよ」とだけ返事をして起き上がる。

「さすがにカーテンは必要だな。カーテン買いに行くか……」

 そんなことをつぶやきながら、朝の空気を吸い込むため窓を開けた。その瞬間、不意に鼻先にツンとするにおいが漂ってきた。どこか焦げくさい、あるいは動物臭のような――何ともいえないにおいだ。もしかして隣の部屋が猫を飼っているのか?古いアパートだとにおいが入り込みやすいという話も聞いた。

 少し気になったが、今は自分の用事を済ませるほうが先。洗面所で顔を洗い、ほぼ空っぽの冷蔵庫を確認して今日の予定を考える。朝ごはん用の食材を買いに行きつつ、カーテンや日用品を揃えてこなきゃいけない。

 準備を簡単に済ませ、外出の支度を始めたところで――玄関のドアに視線を移すと、なぜかドアの隙間から何か黒いものが覗いていた。

 ドキリとして、そっと近づく。ゆっくりと視線を落とすと――そこには、やけに汚れた黒猫が、ひょこっと首を突っ込んでいたのだ。

「え、ちょ、なんで猫……?」

 驚きつつも、猫のほうも俺に気づいたらしく、ガリガリの体をこちらに向ける。アパートの廊下は共有スペースで、ペット飼育は一応禁止されているはず。野良猫なんだろうか。ひどく痩せていて、毛並みも悪い。片耳が少し欠けているように見える。

「お前、どっから来たんだ……?」

 猫は俺の問いかけなど意に介さず、ドアの隙間を押し広げるように頭を突っ込んできた。そしてそのまま、ずかずかと部屋の中へ。

「おい、勝手に入るなよ! 困るって!」

 焦って猫を追いかけるが、猫は段ボールの山の間を器用にくぐり抜け、部屋の奥へと進んでいく。そして、まだ何も入っていないはずの台所近くで止まった。猫はそこに座り込み、じっとこちらを見つめている。

 よく見ると、猫の瞳はやや黄色みがかっていて、どこか不安げに見えなくもない。腹でも減っているのか?と推測してみるが、野良猫をそう簡単に構ってもいいものか……。俺は仕方なく、コンビニで買い置きしていたツナ缶を開けて、水を少し混ぜて皿に盛った。もちろん猫用の餌なんて持ってないので、これが精一杯だ。

「ほら、好きにしろよ」

 猫の前に皿を置くと、猫は一瞬でがつがつと平らげ、皿を舐め尽くす勢いだ。ほんとに腹を空かせていたらしい。

「お前、どこから来たんだよ。ここら辺、あんまり猫を見かけないけど」

 もちろん返事はない。ただ、猫は少しだけ鳴いた。「ニャー」というよりも、かすれた声で「ニャッ……」と短く鳴いただけ。そのまま俺の足元にすり寄ってきた。汚れてはいるが、なぜか人懐っこい。 俺の目の前で丸くなってる。

「おーい……今から買い物行くから出てってくれよ?」

 そう声をかけても、猫は馬の耳に念仏。仕方ないから猫は放置して外出の準備を続けることにした。。無理やりつまみ出すのもなあ……と思っていたら、「ニャア」と一声鳴かれた。まるで「ここに居させろ」と言わんばかりに。

「困ったな。じゃあ、まあ……ドアは閉めるから、もし起きて帰りたくなったら鳴いてよ。じゃあ行ってくる」



 近所のホームセンターに行くまでの道すがら、ふと猫のことが気になる。まぁ、寝かせたわけだから、ひとまず様子見でいいか――そんな結論を出すにとどめた。

 ホームセンターではまずカーテンを選んだ。もし今後も出入りがあるなら、敷物や掃除グッズも必要だろうか。

「いやいや、飼わないし!!」

 ひとりでつぶやきながら、簡単な冷凍食品や野菜を少し買い込み、調味料も最低限そろえる。そして店内を見ているうちに、猫用の餌が視界に入った。

 カリカリのフードやちゅーる等が安売りされている。子猫用、大人猫用、ウェットタイプ、さまざまな種類が並ぶ。ここで買っておこうか――でも飼う気もないのに餌だけ買うのはどうなんだろう。

「まあ、もしあの猫がいなければ捨てるなり誰かに譲るなりすればいいか……」

 そう考え、俺は猫用のフードを一袋だけカゴに入れた。

 結局、荷物は両手に袋が何個か。歩いて持って帰るのはちょっとキツいが、なんとか家まで運んで帰ることにした。



 アパートに戻って玄関を開けると、室内はさっきと変わらずどこか静かで、猫の姿が見えない。やっぱり出て行ったのかな、と思いながら荷物を置き、靴を脱ぎ捨てる。

 すると、台所の隅からかすかな物音が聞こえた。あの黒猫がちょこんと座り込み、俺の姿を確認すると「ニャッ」と短く鳴いた。どうやらまだいるらしい。というか、完全にここを自分の寝床にした気配すらある。

「おいおい、俺んちを好き勝手に使わないでくれよ……。」

「飼えないってば……」

 そうつぶやいたところで猫には何の関係もない。俺は仕方なく電気を消し、翌日のことを考えながら目を閉じた。



 翌朝、アラームが鳴る前に猫のかすれた鳴き声が聞こえた。「ニャッ、ニャッ……」と短く鳴く。その声で起こされるとは、まだ慣れない。時計を確認すると、午前六時半。昨日と同じ時間だ。

「……もう起きるか」

 その時、「コン、コン」と玄関をノックする音が聞こえた。

「はい、どちらさまですか?」

 インターホンはあるが、古いアパートなので壊れているのかもしれない。俺は玄関まで行き、ドアを開ける。すると、そこには小柄な女性が立っていた。パーカーにジーンズというラフな格好で、髪は肩までのショートカット。年は俺と同じくらいか、あるいは一つ下に見える。

「あ、えっと、隣に住んでる者なんですけど……。もしかして、そちらで黒猫を見ませんでしたか?」

 突然の訪問に驚きつつも、俺はドキッとした。まさか飼い猫が逃げ出したパターンだろうか。ならば早く返さなきゃいけないのかもしれない。

「はい、黒猫なら、今うちの中に……」

 そう言いかけたところで、女性はパッと表情を輝かせた。「やっぱり! ありがとうございます!」と言うと、ずかずかとドアの中へ入ってこようとする。

「ちょ、どうぞって言ってない……」

 俺が慌てる間もなく、彼女は室内に踏み込み、台所方面を目で探す。そして、そこにいた黒猫を見つけると、「あ、よかった!」と安心した表情でしゃがみ込んだ。

「ずいぶん探したんだよ。どこ行ったのかと思ったら……。本当にありがとうございます。私、ここの隣に住んでる笹原サヨって言います。あなたは?」

 まくし立てるように話す彼女に押されながら、俺は戸惑いつつも名乗る。

「あ、俺は今月から入居したばかりの二階の奥村リクっていいます。ていうか、もしかして、この猫……笹原さんが飼ってるんですか?」

 すると彼女はちょっと表情を曇らせて首を振った。

「ううん。私も飼ってはいないの。時々ご飯あげちゃってたんだよね。そのせいで私の部屋を行き来してたんだけど……」

 ただの「世話をしていた人」という感じらしい。猫はサヨの姿を見ても嬉しそうに寄っていくわけでもなく、相変わらずマイペースな雰囲気だ。

「そっか……。だけどうちはペット禁止だからさすがにまずくて。追い出すのもかわいそうだなあと思ってたところなんですよ」

 するとサヨは急に眉根を寄せ、「ああ、やっぱりここもペット不可物件か……。私の部屋も、ホントはペット不可なんですよね。だから飼うってのは無理で……。このコ、どこかにちゃんとした飼い主がいるのかもって思ってたんですけど、そういう人の話は全然聞かないし……」とため息交じりにつぶやく。

 俺としても、正式に飼っているわけでないならここで終わりにしたいところだが、猫は本人(猫)を前にしてのんびり毛づくろいをしている。サヨも苦笑いしながら、猫の頭をそっと撫でた。

「でもまあ、野良猫だったら自分の好きな場所を見つけて過ごすんでしょうね。あ、このコの仮の名前、‘クロ’って呼んでるんです。安直だけど」

「クロ……確かにまっ黒ですね。耳が欠けてるし、結構傷もあるみたいですけど」

「うん、やんちゃなコなんですよ。ところで奥村さん、猫アレルギーとかはないんですか?」

 俺は大きく首を横に振る。「大丈夫です。アレルギーはないけど、飼い続けるのは……お願い、できますか?」

 こうして俺は、隣人の笹原サヨと一緒に、クロの世話をすることになってしまった。最初は一時的な協力のつもりだったのに、この日から俺の生活は思わぬ方向へ転がっていく。



 翌日から、サヨは頻繁に俺の部屋を訪れるようになった。もちろん猫がいるかどうかを確認するためだ。クロは相変わらずマイペースで、勝手に出入りしてはちょっと外をうろつき、気が向けば俺の部屋やサヨの部屋に戻ってくる。

「クロ、まだいる?」

 夜の七時くらいにサヨが尋ねてきた。俺は夕飯の支度をする気力もなく、インスタントラーメンの湯を注いだところだった。

「あ、いますよ。どこかで寝てるみたいです」

「そっか。じゃあちょっと顔見て行くね」

 そう言うや否や、またずかずかと部屋に入り、ちょうど段ボールの上で丸くなっていたクロを見つける。「あ、いたいた。クロ、元気?」と声をかけると、クロはじろっとだけこっちを見るが、すぐに目を閉じる。眠いらしい。

 サヨは苦笑いしながら猫の頭を優しく撫で、ぽんぽんと段ボールを叩くようにする。クロは気持ちよさそうにそのままうとうとし始める。

「ごめんね、部屋にお邪魔ばっかりして。ほんとは私のほうで預かれればいいんだけど……。うちは母が頻繁に来て、猫が入ってると絶対バレるから……」

「いや、別にいいですよ。俺も暇なときはクロを構ってやれるし……まあ、飼えない以上、本当はあんまり愛着湧かせちゃいけないんだろうけどね」

 そう言いつつも、実際かわいいものはかわいい。警戒心ゼロのクロが俺の足元にまとわりつくときなんか、心がくすぐったくなる。

「そうだ。リクさん、今度の週末、動物病院に連れて行きませんか? あんまり先延ばしにしてると、ノミとか病気とか心配だし」

「そうですね……。行ったほうがいいかもしれないです。何かあったらかわいそうだし」

「私が調べておくから、土曜日に一緒に連れて行きましょう。車はないですよね?」

「うん、俺はないです。こっち来るときにバイクは持ってきたけど、猫をバイクに乗せるのは無理だろうなあ」

「ふふ。じゃあ電車かバスで行ける範囲で探してみる。キャリーバッグを用意して、そっと連れて行く感じで」

「了解です」

 そんな風に打ち合わせをしているうちに、俺のインスタントラーメンは当然のように伸びてしまっている。仕方なくふやけた麺をすすり、「あー……最悪だ」とつぶやくと、サヨが申し訳なさそうに「ごめん!」と笑った。



 週末、サヨが調べてくれた動物病院に、俺たちは一緒にクロを連れていくことになった。電車で二駅ほど先の場所で、土曜日もやっている個人病院だという。サヨがキャリーバッグを実家から拝借してきたらしく、そこにクロを入れるのだが、クロは慣れないバッグに不満げに「ニャッ、ニャッ」と鳴く。

「ごめんねー、ちょっとだけ我慢してね……」

 サヨはクロをあやしながらバッグを抱える。俺はというと、特に猫の扱い方に慣れているわけでもないので、ただ後ろをついて歩くだけだ。

 到着した動物病院は駅前の大通りを少し入ったところにあった。こじんまりとした建物だが、休日とあってかそれなりに人とペットで賑わっている。犬が多い印象だ。猫はちらほら見かける程度。

「猫ちゃんはこっちでお待ちください」と看護師さんに案内され、俺たちは狭い待合室のベンチに腰を下ろす。周囲を見渡すと、吠え続ける小型犬や、他の猫の存在にうなり声をあげる猫など、それぞれが飼い主と一緒に少し緊張している雰囲気だ。

 俺とサヨは、交互にバッグの中のクロを覗き込み、「大丈夫?」と声をかける。クロはまだ落ち着かないようだが、大きな声で鳴くわけではない。ただバッグの中でじっとこちらを見る。

「でも、こうやって診てもらえれば安心だね。リクさんのお部屋にノミとか湧いたら大変だし」

「うん……それは勘弁してほしい」

 そんな会話をしていると、「笹原さーん、奥村さーん、どうぞ」という声がかかる。二人まとめて呼ばれたのか、それとも名前を両方伝えていたせいかはわからないが、ともかく診察室へ。

 獣医は優しそうな中年男性で、クロをバッグから出して体重を測ったり、怪我の有無を調べたりしてくれた。耳の欠けはやはりケンカや事故の痕のようだ。ノミ取りの薬を投与し、必要なワクチンを打つ。

「まだ若いですね。この子はオスか……。栄養状態はあまり良くないけど、病気は特に見当たらないですよ。このままちゃんと餌を与えれば元気になるでしょう。去勢手術は、飼い主さんが決めることなので……」

 言いにくそうに獣医が口を濁す。飼い主がいないとわかると、獣医側も対応に困るのだろう。サヨは少し申し訳なさそうに、「実は今はまだ飼えない状態で……」と説明する。

「そうですか。でもまあ、完全な野良だと事故に遭ったり、発情期にケンカしたり、いろいろとリスクはありますから。できれば保護してくださる人がいるといいんですが……。もし飼い主が見つからないようなら、ウチにも連絡をくだされば、里親募集の協力はできますよ」

 獣医の言葉に、俺もサヨも「ありがとうございます」と頭を下げる。やはり最終的には里親探しが妥当なんだろう。アパートに入れておくわけにもいかないし、ずっと見守るわけにもいかない。

「とりあえず、しばらくは様子を見ましょう。何かあったらすぐ来てくださいね」

 会計を済ませ、クロを再びバッグに入れて病院を後にする。診察代やワクチン代はそこそこかかったが、必要経費だろう。サヨと折半した。

 帰り道、サヨは少し口をへの字にしている。何か考えているようだ。俺も似たような気分だ。里親を探すといっても、そう簡単には見つからないのではないか。クロが元気になったら、また外へふらりと行ってしまうかもしれない。

「……でも、よかったよね。大きい病気はないみたいで」

 サヨが不意にそう口を開いた。俺も「うん、まあ安心した」と答える。

「とりあえず、あと一ヶ月くらいはリクさんのところと私のところを行ったり来たりで面倒見て、それまでに里親探しを進めてみようか。ネットとか、病院の掲示板とかでさ」

「そうだね。それしかないよね」

「もし見つからなかったら……うーん、それはそのとき考えよう」

 サヨは苦笑いを浮かべた。あまり考えたくないのだろう。俺だってそうだ。里親が見つからないなら、野良に逆戻りさせるのか? でもこの街には危険も多いし、放置すれば事故に遭う可能性もある。

 いろいろな思いを抱えながら、俺たちは再び電車に乗ってアパートへ帰る。クロは行きと同じく静かにバッグの中で丸くなり、目だけを時折こちらに向けていた。



 さらに数週間が過ぎた。クロは相変わらず自由にアパートの中を闊歩している。俺の部屋で寝ていることもあれば、サヨの部屋に入り込んでのんびり過ごすこともあるらしい。大家さんにバレたら怒られるだろうが、不思議とまだ発覚していない。

 そんなある夜、サヨが急にインターホン(壊れているはずのものをドンドン叩いた)で呼び出してきた。

「リクさん、大変……クロが血を流してる!」

 俺は飛び起きるように玄関に向かい、サヨの顔を見る。サヨは半分泣きそうになっている。どうやらクロが外に出て、何かとケンカしたのか怪我をして戻ってきたらしい。

 急いでサヨの部屋に行くと、クロがカーペットの上で息を荒げている。前足に血がにじみ、痛そうに鳴いていた。

「うわ……結構ひどいかも……」

 サヨがパニック気味なので、俺は落ち着かねばと自分に言い聞かせる。夜遅いが、近場の動物病院の夜間診療はまだやっているはずだ。以前行った病院は少し遠いが、近所にも急患対応してくれる病院があると聞いたことがある。

「とにかく病院連れていこう。キャリーバッグ……」

「うん、ある。すぐ用意する」

 痛むのかクロは抵抗するが、なんとかバッグに入れ、俺たちはタクシーを拾って病院へ向かった。受付で説明すると、すぐに獣医が診てくれた。

「外傷は深くないですが、化膿しないように消毒しておきますね。大したことはないと思いますよ」

 診断を聞いてホッとする。大怪我ではなかったらしい。それでもクロは怖かったのか、不安げな声を出している。

「よかった……ホントによかった……」

 サヨは涙を流さんばかりにクロの名前を呼んでいる。俺も安堵して肩の力が抜ける。血こそ出ていたが、命に関わるような怪我ではないようだ。

 手当てを終えたクロをキャリーバッグに戻して病院を出たのは、すでに夜中の一時過ぎだった。タクシーで戻る車内、サヨは静かにクロのバッグを抱えながら、ずっと撫でている。

 アパートに着き、サヨの部屋でクロをバッグから出すと、クロはまだ痛むのか、おとなしく丸くなってしまう。

「今日はうちで看病するから、リクさんは休んで。こんな遅くまで付き合わせちゃってごめんね」

「いや……俺はいいけど、クロは大丈夫かな? 明日、また病院行ったほうがいいのかな?」

「うん、また明日連れていくよ。ちゃんと消毒してもらわないと」

 サヨは目を赤くして、クロの頭を優しく撫で続けている。その姿を見ていると、なんとも言えない感情が込み上げる。

「サヨさん、あんなに嫌がってたお母さんに言ったらどうなる?」

「うん……でも、言わなきゃいけないよね。病院代がかさむし、私のバイト代だけだと厳しいし……。いい加減、お母さんに頭下げるしかないかも」

 そうつぶやく彼女の横顔は苦しそうだが、決意も感じられた。もしかすると、彼女は本当にクロを自分で飼う道を模索するのかもしれない。

 猫が傷ついて帰ってきたその夜、俺たちは初めて、どうしてこんなに心配になるのか、どうして放っておけないのか――そんな理由を考え始める。結局、クロはもう「ただの野良猫」じゃないんだ。俺たちにとって、いつの間にか大切な存在になっていた。



 そして、さらに数日が過ぎ――ある日、サヨが再び俺の部屋を訪れた。今度は笑顔を浮かべている。

「実は……私、もう少し先になるけど、今のアパートを出て、ペット可の物件に引っ越すことにしたの。まだ契約はこれからだけど、母にも話して、最初は大反対されたけど、今は納得してくれた。自分のバイト代と奨学金でなんとかやっていくって」

 思い切った決断だ。彼女がそこまでしてクロを飼おうと思ったのは、やはりクロが怪我をして帰ってきた夜のことが大きかったのだろう。

「そっか……。それはよかった。じゃあクロも一緒に行けるね」

「うん。ちょっと先になるし、引っ越しまでは完全に保護ってわけにもいかないけど、私が責任を持ってクロを連れて行くつもり。それまでリクさんには、もう少しだけ迷惑かけちゃうかも……」

「いや、いいよ。俺は全然構わない。むしろ、クロの様子が見られなくなるのは寂しいくらいだから」

 そう言うと、サヨはホッとした表情で、「ありがとう」と微笑んだ。猫を飼うという大きな決断――そのためには引っ越しや費用、人間関係の調整など、乗り越える壁が多いはずだ。だが彼女はやると決めた。

 その後、サヨの引っ越しの段取りが着々と進み、荷造りも始まった。クロはもう怪我も治りかけており、再びアパートのあちこちを巡回している。俺の部屋にも相変わらずやってきて、餌をねだったり寝床にしたりする。

「もうすぐサヨさんと一緒に引っ越すんだぞ?」

 そうクロに言い聞かせても、クロはわけがわからないのか「ニャッ」と鳴くだけだ。だが、その声にはどこか安心感が漂っているように思える。ここに来た当初は痩せて、怪我も多くて、不安げな目をしていたのに。

 サヨの引っ越しが決まった夜、俺はクロの頭を撫でながら、ずっと考えていた。「あいつはようやく帰る場所を手に入れられるんだな」と。いや、正確には‘帰る’というより‘新しく見つける’なのかもしれない。

 だけど、俺にとっては少し切ない。クロがいなくなったら、俺の部屋はまた静かになってしまう。と同時に、サヨとの接点も今ほど頻繁にはならないだろう。

 それでも、これが正しい形なんだろう――そう自分に言い聞かせる。クロにとって必要な安心を与えてくれるのは、確かにサヨのような人間なんだろうし、そのために環境を整えようとしている彼女の決断は本物だ。俺が口を挟む余地なんて、正直ない。



 それから一ヶ月後。サヨの引っ越し当日。業者が来て荷物をトラックに積み、残った荷物をサヨと一緒に運ぶ。クロはキャリーバッグの中で鳴き声を上げている。今はあまり広くないバッグの中だけど、新居に行けば走り回る広さもあるんだろう。

 アパートの前でサヨと最後の挨拶をする。

「お世話になりました、リクさん。私が引っ越しても、たまには会いに来てよ。クロも喜ぶと思うし」

「……うん。そうするよ。落ち着いたら新居に遊びに行っていい?」

「もちろん。ごはん作って待ってるよ、なんてね」

 サヨはそう言って笑った。そして、クロの入ったバッグを少し揺らし、「じゃあ、行こうね」と声をかける。

 最後に俺はバッグ越しにクロの頭をそっと撫でた。クロは「ニャッ」と短く鳴く。その声が「またね」と言っているように聞こえるのは、俺の思い込みだろうか。

 トラックが走り去ると、アパートの周りは急に静かになった。いつもの古い外廊下、汚れた壁、そして鍵のかかった俺の部屋。猫のにおいがうっすらと残っている気もするが、その主はもういない。

 部屋に戻ると、がらんとした空間がさらに広く感じられる。もう、そこにクロは居ない。「帰ってこないんだな……」そう思うと胸が少し痛む。それでも、あの猫にはちゃんとした‘帰る家’ができた。サヨにとっても、ひとつ大きな挑戦が始まる。

「じゃあ、俺もそろそろ本格的に大学生活を頑張るか。いつまでも猫とイチャイチャしてるわけにもいかないし」

 そう一人つぶやいて、苦笑いする。クロがいなくなった寂しさはあるけど、これでいいんだ。俺も自分の道をしっかり歩かなきゃ。



 それからしばらくして、サヨが新居での暮らしに慣れた頃、俺は彼女から連絡をもらい、家を訪ねることになった。行ってみると、こぎれいなマンションで、以前より少し家賃は高そうだが、その分しっかりペット可の設備になっている。

 部屋に入ると、クロがパタパタと尻尾を振りながら出迎えてくれた。もう毛並みは見違えるほどきれいになっている。耳が欠けているのも相変わらずだが、元気そうに走り回っていた。

「リクさん、いらっしゃい。クロ、ちゃんとお出迎えしてね」

 サヨが笑顔でクロを拾い上げる。昔は抱っこを嫌がっていたのに、今はおとなしく抱かれている。ちょっと重くなったかもしれない。


 “帰る場所”を見つけるというのは、きっと人も猫も同じなのだ。ここでサヨとクロが共に暮らす道を選んだのは、俺から見ても正解だと思うし、その未来はまだまだ広がっていくだろう。

 そして俺も、ここではない別の場所へ帰る日が来るのかもしれない。でもそのときは、きっと自分の意志で帰れるような気がする。――そんなことをぼんやり考えながら、俺はクロを撫でる手に少し力を込めた。

 クロは相変わらずマイペースだけど、もう安心しきった表情で喉を鳴らしている。そこにただいま、という言葉はいらないのかもしれない。ただ、帰る場所があるというだけで、生き物はこんなにも穏やかになれるんだ――改めてそう感じた。


―了―

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