第24話 認識が変わった男

「――おや」

 夜の市民体育館に足を踏み入れたぼくが目にしたのは、黙々と球を放っては網を揺らすという行為に及んでいる山本くんだけでした。

 常ならば、川嶋さんが彼の練習の手伝いをしているはずですが、周囲に目を向けても、その姿を確認することができません。

 手洗いにでも行っているのかと考えましたが、彼女の荷物が見当たらないことから、どうやら今日は来ていないようでした。

 その状況に、ぼくは驚かざるをえません。

 何故なら、川嶋さんは、山本くんに関することならば、何よりも優先するような人間だったからです。

 極端な例を挙げるとするならば、転んで膝を擦り剥いた山本くんと、自動車に轢かれて脚が異常な方向へと曲がってしまった見知らぬ人間の二人が眼前にいた場合、心配をして声をかける相手として、川嶋さんは迷うことなく山本くんを選ぶ――といった具合です。

 それほどまでに、山本くんに対する川嶋さんの想いが強いということを、ぼくは知っていました。

 ゆえに、彼女が山本くんの練習に協力していないことが、信じられなかったのです。

 一体、何があったのでしょうか。

 風邪でもひいたのか、それとも、よほどの用事でもあったのか。

 そのようなことを考えながら荷物をおろし、準備運動をしていると、

「やあ、来てくれてありがとう。今日も、よろしく頼むよ」

 ぼくの出現に気付いたのか、微笑を浮かべた山本くんが近付いてきました。

 ぼくが首肯を返すと、彼は準備運動をしているぼくの隣に座り、水分を補給し始めました。

 軽く息を吐き、額の汗を拭いている山本くんに向かって、ぼくは雑談でもするかのような調子で、

「珍しいことに、川嶋さんの姿が見えませんね。何か外すことができない用事でもあったのでしょうか」

「エミちゃんは、此処にはもう来ないよ」

 その言葉に、ぼくは思わず準備運動を止めてしまいました。

 何故なら、人当たりの良い彼からは想像することもできないほどに、その声には感情が籠もっていなかったからです。

 引き寄せられるかのように、山本くんに目を向けると、彼は寂しそうな笑みを浮かべながら、

「別に、喧嘩をしたとか、そういうわけじゃない。エミちゃんのことをよく考えた結果、俺が『此処には来ない方が良い』と言ったんだ」

 そのように告げられましたが、ぼくには川嶋さんがこの場所に来ない方が良い理由というものが、分かりませんでした。

 一体、山本くんはどのような理由で、彼女にそのようなことを告げたのでしょうか。

 その疑問が顔に出ていたのか、彼は体育館の出入り口に目を向けると、

「きみは、憶えているかい。エミちゃんが口説かれていたところを」

 そのように問われ、ぼくは先日の出来事を思い出しました。

 見知らぬ男性たちに口説かれていた川嶋さんは、持ち前の人見知りが災いし、相手を遠ざけようにもそれができず、ただ黙っていることしかできませんでした。

 それでも、彼女が困惑していることは目に見えていたために、ぼくは男性たちに近付くと、

「ぼくの恋人に、何かご用ですか」

 邪魔をされたことに腹を立てたのか、男性たちは顔を顰めながら、ぼくに目を向けました。

 しかし、ぼくの姿を認めた途端、敵わない相手だと考えたのでしょうか、男性たちは引きつった笑みを浮かべながら、その場から慌てて逃げていったのです。

 男性たちの姿が完全に消えてから、川嶋さんはぼくの脇腹を小突くと、

「あたしが、何時、人吉くんの恋人になったのかしら」

「この場を乗り切るための嘘ですよ。勘違いしないでください」

「言われなくても、分かっているわよ」

 そのようなやり取りを思い出した後、ぼくは山本くんに向かって、

「ええ、憶えています」

 その言葉を聞くと、彼は視線をぼくに戻しながら、

「――実は、きみに『川嶋エミという一人の女性に対して、どのような印象を持つのか』ということを訊いたのも、その件が影響していてね」

「どういう意味でしょうか」

 ぼくの疑問に対して、山本くんは飲み物を一口飲んでから、

「俺とエミちゃんは昔からの仲で、毎日のように顔を合わせているんだ。それこそ、家族のようにね。だから、他の人と違って、外見の変化には鈍感ともいえるんだ」

 彼は自身の肉体に目を落としながら、

「きみが俺と再会したとき、昔と違って体型があまりにも変化していたから、俺が俺であるということに気が付かなかっただろう。それは、しばらくの間、俺の姿を見ていなかったことが確実に影響している。だけど、外見なんてものは、一日や二日で大きく変化することはない。俺が徐々に痩せていく経過を見ていれば、きみも驚くことはなかっただろうね」

 山本くんはぼくに視線を戻すと、

「それと同じで、エミちゃんが今の姿になるまでの経過も、俺は見ている。だから、正直に言えば、彼女が何時、多くの人間が口説きたいと思うほどの外見に変化したのか、俺には分からない。今のエミちゃんしか知らない人間は、彼女を口説いて自分のものにしたいと思うだろうけど、俺の中でのエミちゃんに対する認識は、何も変わっていないんだ。どれだけ外見が変化しようとも、俺の中で川嶋エミという人間が別の存在に変化することはないんだよ。そう、ないんだが――」

 彼は複雑な笑みを浮かべながら、

「告白の件や、口説かれていたりしているところをこの目で見たことで――『実はエミちゃんは、異性に人気があるのではないか』と考えるようになってね。だけど、昔からの付き合いを続けている俺には、彼女を客観視することは難しい。其処で、きみにエミちゃんの印象を訊ねたんだ。きみの言葉なら、俺は信ずることができるからね。その結果――『川嶋エミが異性に言い寄られたとしても不思議なことはない』ということを、理解したというわけなんだ」

 その言葉を聞いて、ぼくもまた、山本くんの質問の意図を理解することができました。

 確かに、何らかの事件でも起きない限りは、自分の中における他者に対する認識が変化することは難しいことでしょう。

 山本くんの中の川嶋さんは、かつての彼女の姿から察するに、異性から言い寄られるような存在ではないという認識のままだったに違いありません。

 しかし、告白や口説かれていた一件から、『そのような認識は間違っているのではないか』と思いながらも、凝り固まってしまった認識を変えることは、難儀なことだったのでしょう。

 其処で、ぼくという第三者の視点を知ることで、認識を変化させるための一助としようと考えたのかもしれません。

 そして、彼の言葉通り、それは成功したようです。

 ぼくがそのようなことを考えていることを余所に、山本くんは言葉を続けました。

「エミちゃんに対する認識を変化させたからこそ、これからも知らない相手から言い寄られるのではないかという可能性に気が付いたんだ。この間の口説かれていた件は、たまたま俺たちが外に出たからなんとかすることができたけど、今後もその偶然に助けられるかどうかは、分からない。エミちゃんは人見知りだから、知らない相手に対して、嫌なことは嫌だと伝えられる可能性は低いだろう」

 彼は真剣な眼差しで、ぼくを見つめながら、

「エミちゃんが心に傷を負うような事態に発展する可能性があったとしても、俺たちが気付いていなければ、それに対処することができない。だから、彼女の身の安全を考え、あらゆる危険から逃れるためには、此処には来ない方が良い――そういう結論に至ったから、本人にそう伝えたんだよ」

 それが心からの言葉だということは、訊かずとも分かることでした。

 山本くんの心配は、至極ごもっともです。

 先日の出来事から分かるように、親しい人間以外とは真面に喋ることができない川嶋さんにとって、押しが強い相手から口説かれた際に断りの言葉を吐くことは、至難の業です。

 そして、押しが強い人間の中には、相手が『拒絶しない』ということが、『受け入れている』という意味だと考える者も、存在していることでしょう。

 ゆえに、拒絶の言葉を明確に口にすることができない川嶋さんを、そのような人間たちから守るための山本くんの方法は、正しいということができます。

 一方で、そのような心配をするのならば、単独行動をさせないようにすれば良いのではという意見もあるでしょう。

 ですが、自動販売機に飲み物を買いに行くのならばともかく、手洗いに行くとなった際に、異性であるぼくたちが付き添うということは、互いに気まずい思いを抱いてしまいます。

 そのために、例外的に単独行動をさせることになる場合が存在しているのです。

 そして、そのときを狙っている人間が存在していないとは、言い切れません。

 だからこそ、あらゆる危険性を考える必要があるのならば、そもそもその危険と遭遇することがないように『外出をさせない』という選択をすることは、英断と言うことができるでしょう。

 山本くんがそのように考えたのは、川嶋さんに対して特別な感情を抱いているということもあるでしょうが、それよりも大きいのは、幼少の時分から親しい相手が危険な目に遭うことがないようにという心配によるものなのでしょう。

 川嶋さんは、幼馴染のそのような気遣いを理解していたからこそ、市民体育館での練習に参加することを控えたのかもしれません。

 これほどまでに美しい関係を見て、ぼくは思わず、涙を流しそうになりました。

 だからこそ、二人には幸福な道を歩んでほしいのですが、そのためにはぼくに何ができるのでしょうか。

 色々と考えようとしましたが、何よりも今優先するべきなのは――川嶋さんの分までぼくが働くということでしょう。

 もしも山本くんが、大会で思うように活躍することができなかった際に、

「自分が練習に協力することを止めたから、練習量が不足して、このような結果になってしまったのではないか」

 川嶋さんがそのように考え、永遠に後悔してしまう可能性は、否定することはできません。

 ゆえに、手を抜いたことはありませんが、ぼくはこれまで以上に、練習に力を注がなければならないでしょう。

 ぼくは山本くんに向かって頷くと、

「事情はよく分かりました。では、大会で全ての人間をあっといわせるほどの実力を発揮することができるように、今まで以上に張り切って練習をしましょうか」

 その言葉に、彼もまた首肯を返すと、立ち上がりました。

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