第13話 話す女と話させる男
「山本くんが籠球部を選んだのは、川嶋さんが理由――ですか」
川嶋さんの言葉を復唱すると、彼女は笑みを崩さぬまま、首肯を返しました。
「ええ、そうよ。あたしがいなかったら、今のゴウくんは存在していなかったと言っても、過言ではないわ」
胸を張る川嶋さんですが、ぼくには新たな疑問が生じました。
「では、川嶋さんが籠球部を選んだのは、何故なのでしょうか。その競技に詳しく、助言をしやすかったため――などという理由でも」
ぼくの言葉に、彼女は首を左右に振りました。
「いいえ、特に詳しかったわけではないわ。でも、選んだことには、それなりの理由があるのよ」
川嶋さんは球を弾ませている山本くんに目を向けながら、
「人吉くんも知っていると思うけれど、ゴウくんが肉体改造を始めた頃は、からっきし運動能力が無かったでしょう」
「ええ、そうでしたね」
彼女に対して、ぼくは迷うことなく頷きました。
現在の山本くんだけしか知らない人間にとっては信じられないことでしょうが、彼は元々、運動とは無縁の人生を送っていました。
ゆえに、肉体改造を開始したばかりの頃は、あらゆる競技における技術が、お世辞にも良いと言うことができるほどのものではなかったのです。
野球では、ぼくが正面に立っているにも関わらず明後日の方向に球を投げ、球を打つことができたのは、十回中一回のことでした。
蹴球では、足が空を切るばかりで球が動くことはほとんどなく、たとい蹴ることができたとしても、球は場外へと転がっていきました。
庭球では、ぼくが打った球を打ち返すことができず、自身が最初に球を打つ場面においては、球は競技場の外へと飛んでいってしまいました。
排球では、顔面で球を受け続けていたために、球は常に赤く染まり、相手の陣地めがけて球を打ったつもりが、地面に叩きつけるばかりでした。
籠球では、視線を下に向けながら球を弾ませることだけを意識していたために、気が付いたときには網の真下に立つばかりで、勿論網を揺らすことは叶いませんでした。
他にも、水の中では歩いた方が速いのではないかと考えてしまうほどの金槌であるなど、素人だとしても程があると思ってしまうような有様だったのです。
「だからこそ、『部活動に入ろうと思う』と聞いたときは、耳を疑ったわ。確かに、肉体改造のためには、部活動に入った方が効率は良いでしょう。それに、誰がどのような選択をしようとも、それは本人の自由よ。でもね――」
川嶋さんは短く息を吐いてから、
「部活動に入って努力を続けたとしても、その競技が上手になるかどうかなんて、誰にも分からないわ。それに、技術が向上することなく下手のままだった場合、他の部員たちから邪魔者扱いをされて、時には虐げられてしまうことだって、考えられるのよ。だから、ゴウくんが再び同じような目に遭うことだけは、避けたかったわ」
確かに、戦力にならないのならば、その人間は雑用係か、あるいは憂さ晴らしの対象と化すことも考えられるでしょう。
現在通っている学校ではありませんが、野球部で使い物にならない人間が、腹部に円と点数を書かれ、そこをめがけて他の部員から投球されていた――という事件が起きたことを、今でも憶えています。
肉体改造が叶っていない当時の山本くんならば、そのような対象と化したとしても、不思議ではありません。
彼女がもしもの場合を考えてしまうことも、尤もでしょう。
川嶋さんは暗い表情を浮かべながら、
「そんなことを考えていたからこそ、あたしはそれとなく部活動については考え直すようにと言ったのだけれど――」
其処で彼女は、ぼくに目を向けると、
「『人吉くんを安心させるためには、俺は変わる必要がある。これは、そのための第一歩なんだよ』――って、ゴウくんが言ってきたのよ。真剣な眼差しでそのようなことを言われては、誰が何を言ったところで無駄だと思ったわ。これまでは、あんな表情を浮かべてそんなことを言ったことなんて、一度も無かったから、驚いたわよ」
川嶋さんは、寂しげな笑みを浮かべました。
おそらくは、山本くんが幼馴染である自分よりも、突然姿を現わしたぼくに対する想いの方が強いということを知ってしまったからなのでしょう。
彼女が疎外感を覚えてしまうような状況を作ることが分かっていたのならば、ぼくは山本くんを救うべきではなかったのでしょうか。
いいえ、たといそのような未来が待っていると分かっていたしても、ぼくは山本くんに手を差し伸べていたでしょう。
何故なら、虐げられている人間を見過ごすわけにはいかないからです。
眼前の困っている人間を救うことができる力を自分が持っているのならば、それを迷うことなく使うと、ぼくは決めていたのです。
ですが、そのことによって救われた人間が多い中で、川嶋さんのような存在は、ぼくにとっては数少ない『救うことができない人間』なのでしょう。
ぼくという人間が存在し続ける限り、ぼくに対する山本くんの意識が変化することはありません。
勿論、彼の中には川嶋さんに対する特別な想いも存在していたことでしょうが、それまで彼女で独占されていた心の内が、ぼくによって分割されたということになります。
それを思えば、川嶋さんが心から幸福を感ずることができる時間が訪れる可能性は、低いでしょう。
山本くんの脳からぼくに関する記憶を奪うことは出来ないために、ぼくが彼女に出来ることといえば、山本くんに関して自分の方がぼくよりも優位であるということを自覚させることに限られます。
そのためには、川嶋さんにとって避けたい話題で立ち止まることなく、話を進める必要があるでしょう。
だからこそ、次にぼくが口にするべき言葉は、
「其処から、どのようにして籠球部を選んだのでしょうか」
「――ああ、そういう話だったわね」
彼女は一人で動き回る山本くんに目を向けながら、
「ゴウくんは、どの部活動が良いのかどうか、迷っていたわ。どれが好きかとか、どれが得意かとか、そういうものが無かったから。確かに、どの競技も等しく苦手なら、どこに加入しても同じだから、迷うのも無理はないわよね」
その言葉通り、得手不得手が特定されていないのならば、どの部活動を選んだとしても良いでしょうが、それは裏を返せば、選択肢があまりにも多いということにもなります。
ぼくが頷いていると、川嶋さんは言葉を続けました。
「だから、ゴウくんの肉体改造に着目したのよ。自分の体型を変えようと思うのなら、運動量が多い部活動にした方が良いのではと思ったわ」
彼女は人差し指を立てると、
「あたしたちが進学した中学校の部活動の中では、籠球部が最も厳しい練習をしているということで有名だったわ。其処で、自分を変えようと思っているゴウくんが心身共に鍛えることができるから、籠球部を推薦した――というわけなのよ」
どの競技にも言うことができるでしょうが、その中でも特に籠球部は、めまぐるしく攻守が入れ替わり、足を止めることがほとんどないことを思えば、基礎的な体力が重要でしょう。
そのことを籠球部の顧問が理解しているゆえに練習が厳しいものと化すことは、当然といえば当然といったところです。
ぼくは川嶋さんに頷きながら、
「そういうことでしたか。よく分かりました。今の山本くんの技術を思えば、川嶋さんの選択は正しかったといえるでしょうね」
ぼくが持ち上げると、彼女は誇らしそうな笑みを浮かべました。
「あたしには、先見の明があるということね。まあ、実際のところは、ゴウくんが始めたばかりの頃は、あまりの下手さに先輩たちから怒鳴られてばかりで、本当にあたしの選択が正しかったのかと心配になることもあったけれど――」
山本くんが投げた球が輪を通り、網を揺らしたところを見て、川嶋さんは拍手をしながら、
「腐ることなく、誰よりも早く練習を始めて、誰よりも遅くまで練習をすることを繰り返していった結果、先輩を差し置いて試合に参加することができた姿を見たときの感動は、筆舌に尽くしがたいものがあったわね。高校に進学しても、順調に技術を磨いているから、本人の努力は勿論のことだけれど、そのような素晴らしい選手を誕生させるきっかけとなったあたしもまた、褒められるべきだと思わないかしら」
他の部活動に所属した場合にどのような結果を迎えていたのかどうかは不明ですが、結果を見れば、確かに彼女の言葉通りでしょう。
数多の試合で活躍し、優秀な成績を残したことで山本くんが称讃された場合、それは同時に、そのような選手を生み出した川嶋さんもまた、称讃されるということになるでしょう。
そのような状況は、ぼくが目指している生き方そのものだったために、彼女に対して、これまで抱いていなかった親近感のようなものが芽生えました。
内容においては佐倉さんとは異なっていますが、それでも、身近に自分と同じような人間が存在していることが新たに分かったということは、ぼくにとっては喜ばしいことでした。
気のせいか、川嶋さんが輝いているような――
「急にあたしのことを凝視して、どうかしたの」
彼女のその言葉で、ぼくは我に返ると、何でもありませんと答えました。
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