第7話 知っている男

「ごめんなさいね。放課後なのに、学校の中に引き留めてしまって」

 謝罪の言葉を口にしてはいますが、隣に立っているその女子生徒の視線は、ぼくではなく、体育館で籠球部の活動に励んでいる男子生徒たちに向けられていました。

 ぼくもまた、彼女に倣うように男子生徒たちの姿を見ながら、

「問題ありません。夜に人と会う約束をしているのですが、それまでの時間は何をしようかと考えていたところですから」

 ぼくがそのように告げると同時に、動き回っていた男子生徒の一人である山本くんが投げた球が輪を通り、網を揺らしました。

 拍手をしましたが、黄色い歓声によって、その音は掻き消されました。

 視線を転ずると、両手の指の数以上の女子生徒たちが、山本くんの一挙手一投足に興奮する姿を目にすることができました。

 ぼくは自分と同じように拍手をしている隣の女子生徒に向かって、

「ところで、彼女たちは、いつもあのように部活動を見守っているのですか」

 その問いに、女子生徒は小さく頷きました。

「酷い話よね。ゴウくん以外にも活躍している選手がいるというのにね」

 山本くんのことを『ゴウくん』と親しげに呼ぶこの女子生徒は、ぼくや彼と同じ学級に所属している川嶋エミさんです。

 山本くんとは幼少の時分からの知り合いで、現在までずっと同じ学校に通っていることもあり、その親しさは家族にも引けを取らないほどであると、山本くんが語っていました。

 休日には、川嶋さんが山本くんの練習の手伝いもしているとのことなので、彼の表現は大げさではないでしょう。

「それで、どのような用件でしょうか。大事な話ならば、場所を移動した方が良いのではないかと思いますが」

 ぼくの言葉に、川嶋さんは首を横に振りました。

「別に、人生を左右するような話でもないから」

「では、どのような」

 其処で川嶋さんは、体育館に来てから初めてぼくの顔を見つめると、

「人吉くんって、佐倉さんと恋人関係なのよね」

 ぼくを見る彼女の目に怯えの色が存在していないのは、山本くんと同じように川嶋さんもまた、ぼくとは小学校時代からの知り合いだということが影響しているのでしょう。

 再会したときには他の人間たちと同じようにぼくと目を合わせることも出来なかったのですが、山本くんが様々な助言をしてくれたおかげで、こうして普通に会話をすることが可能となったのです。

 その問いに、ぼくは首肯を返しました。

「関係が始まってから日は浅いですが、間違いありません」

「こんなことを訊くのはどうかと思うけど――」

 彼女は少しばかり顔を赤らめながら、

「佐倉さんって、未だに他の男性たちと遊んでいるのかしら」

「わたしのことで疑問があるのなら、わたしに訊けば良いじゃない」

 突如として聞こえてきた声に驚いたのか、川嶋さんは身体を大きく跳ねさせました。

 振り返ると、其処には口元を緩めた佐倉さんが立っていました。

 驚きのあまり言葉を失っている川嶋さんに代わって、ぼくは佐倉さんに声をかけました。

「今日は用事があるから先に帰ると言っていませんでしたか」

 昼休みの会話を思い出しながら訊ねると、佐倉さんは頷きました。

「その用事に備えて、午後の授業は欠席して、図書室で昼寝をして疲れを取っておこうと思ったのよ。さっき起きて帰ろうとしていたら、あなたの姿が見えたから、帰る前に声をかけたってわけ」

 体力を使うような用事とはどのような内容なのか、訊かなくとも分かることです。

 佐倉さんは其処で意識をぼくから転じ、川嶋さんの肩に手を回すと、

「それで、わたしが今も他の男たちと関係を持っているのかって話だったわよね。どうしてあなたがそのようなことを気にするのかしら」

「あ、あの、その、ええと――」

 川嶋さんの態度は、先ほどまでのものとは一変していました。

 ぼくと会話をしていた際は特段の支えもありませんでしたが、今では佐倉さんに対してどのような言葉を口にするべきか、悩んでいる様子です。

 ぼくだけではなく、山本くんに対しても同様の態度を見せていたことを考えると、おそらく川嶋さんは人見知りなのでしょう。

 実際、彼女がぼくや山本くん以外の人間と親しくしている姿を見たことがありませんでした。

 それに加えて、佐倉さんのような人間と関わる人生を送っていなかったであろうことを考えると、緊張することも無理はありません。

 川嶋さんが口ごもっているためになかなか話が進みませんが、佐倉さんはその態度を別段不快に思っていないのか、笑みを浮かべながら相手の言葉を待っています。

 やがて、川嶋さんは俯きながらも、佐倉さんには聞こえるような声量で、

「さ、佐倉さんって、人吉くんと交際していますよね」

「そうだけど、それが何か問題でも」

「ほ、本当に訊きたいのは、そのことじゃなくてですね」

「何かしら」

「こ、恋人が出来た今でも――他の男性たちと関係を持ち続けているのかな、と」

 その疑問に、佐倉さんは首を傾げました。

「どうして、あなたがそんなことを気にするのかしら」

「え、ええと、その――」

 再び口ごもりながらも、川嶋さんは山本くんたちに目を向けました。

 休憩時間に入ったのか、山本くんたちは談笑しながら水分補給をしています。

 そこで、ぼくたちの存在に気が付いたのか、此方に向かって手を振りました。

 ぼくたちも同じように手を振りましたが、このときの川嶋さんの表情は、それまで見たことがないほどに、幸福そうなものを含んでいるように見えました。

 そのことに気が付いたのはぼくだけではないようで、佐倉さんは、山本くんと川嶋さんを交互に見やってから、

「ははあん」

 笑みを浮かべながら、そのような言葉を漏らしました。

 佐倉さんは川嶋さんの肩を軽く叩きながら、

「今のわたしは、ジロくん一筋だから、もうそんなことはしていないわ」

 それは、ぼくと佐倉さんが決めた方針の一つです。

 これまで多くの異性と関係を持っていた佐倉さんが、そのような行為から距離を置いたとなれば、作られた関係であるとはいえ、ぼくとの交際が真剣だということが周囲の人間に伝わると考えたからです。

 実際には、ぼくたちと接する機会が多い学校関係者との行為を控えただけで、学校の外の世界で生きている人間たちに対しては、これまで通りという話ではありますが。

 佐倉さんは川嶋さんに対して微笑を浮かべたまま、

「たとえ続けていたとしても、山本くんには手を出さないから、安心してね」

 その発言を耳にした川嶋さんは嬉しそうな表情を浮かべましたが、即座に佐倉さんから目をそらすと、

「ど、どうしてゴウくんの名前が出てくるのですか。い、今はそんな話はしていないはずですけど」

「ちょっとジロくん、こんなに分かりやすい子って、今まで見たことがないわ。山の中で偶然、天然記念物に出会った気分はこんな感じなのかしら」

 川嶋さんが山本くんに対して好意を抱いていることなど、小学校時代から気が付いていたことです。

 その好意を言葉にしていたわけではありませんが、態度を見れば一目瞭然でした。

 ぼくと二人のときよりも山本くんと二人のときの方が明らかに表情が豊かだったことや、山本くんが自分以外の異性と会話をしているときに不安や嫉妬にも似た様子を見せていたことから、親しい人間ならば誰でも分かることです。

 自分をからかう佐倉さんをどうにかしてほしいのか、川嶋さんは顔を赤く染めながらぼくを見つめていました。

 ぼくは軽く息を吐くと、

「そのように行動しろとは言いませんが、何故、山本くんには手を出さないのですか」

 ぼくの問いを耳にすると、佐倉さんは意識を此方に向けました。

「わたしが相手をするのは、目の前の欲望だけを見て生きている人間だけだからよ。そうね、例えば――」

 佐倉さんは再び動き始めた籠球部の男子生徒たちの一人を指差すと、

「あの人とは関係を持ったけれど、他の人たちと何が異なっているか、分かるかしら」

 そのように告げられたため、ぼくは男子生徒たちを見比べました。

「外見で判断するべきではありませんが、異性には人気が無さそうな容姿といったところでしょうか」

「その通り」

 佐倉さんは指を鳴らしました。

「実際、わたしのところに来る人間は、ああいった外見の人間ばかりなのよ。性欲に支配されながらも、自分の容姿では異性に相手にされるわけがないと分かっているために、自分で自分を慰めることしかできない。そんなとき、金銭さえ渡せば自分の欲望を満たしてくれるという人間が存在すると分かれば、喜んで会いに行くというわけよ」

 彼女は山本くんを一瞥してから、

「それに比べて、山本くんのような顔が良い人間は、たとえ相手を愛していなかったとしても、そのような言葉を使うだけで、簡単に相手を自分のものとすることができる。だから、異性を求めるときにわたしに声をかけてくることもないし、わたしもまた、異性に不自由にしていない人間が相手となれば優位に立つこともできないから、関係を持とうと思うことはないということなのよ。まあ、中にはあまりにも変態的な願望を持っているからと言って、わたしに声をかけてくる顔の良い人間も存在しているけどね」

 見ようによっては、佐倉さんもまた、ぼくと同じような考えで行動しているということなのでしょうか。

 救いを求める人間が近付いてきたとき、金銭が絡んでいるとはいえ、相手を無下にすることなく、その欲望を満たすという姿は、ある意味ではぼくの行動と一致しているのかもしれません。

 佐倉さんに対して親近感のようなものを覚えていると、彼女は体育館の壁に設置されている時計を見て短く声を出しました。

「そろそろ出るわね。じゃあ、また明日」

 手を振った後、体育館から出て行く佐倉さんを、ぼくと川嶋さんは無言で見送りました。

 佐倉さんの姿が完全に消えた後、ぼくが口を開こうとすると、川嶋さんは頬を朱に染めながら、それを手で制しました。

「違うから」

「何の話でしょうか」

 それからしばらくの間、再び無言の時間が訪れましたが、やがてぼくは告げました。

「やらずに後悔するよりも、やって後悔する方が良いと思いますよ」

「何の話よ」

「何でしょうね」

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