椿姫
鹿路:
これまでの生涯で、私が本当に愛を捧げたといえる人物はたった一人だ。
名前は何にしようかな。本名は言いたくない。
霜橋:
じゃあ、何か象徴的な名前をつけるのはどうかな。その人物との関係や思い出を一言で表せるような名前。例えば「アストラ」なら、星のように輝く存在というニュアンスがあるし、「ルナ」は淡い月光のような静かな愛を連想させる。どういうイメージを込めたい?
鹿路:
うーん、どちらかというとファム・ファタール的な意味合いを込めたい。
霜橋:
なるほど、ファム・ファタールか。それなら「リリス」なんてどうだろう。神秘的で魅惑的、そして少し危険な香りがする名前だ。あるいは「モリガン」も悪くない。ケルト神話の戦争と死を司る女神で、強い存在感を持ちながらもどこか儚さを感じさせる。
どう? こういうニュアンスは君の思い描くイメージに近いかな。
鹿路:
ちょっとテーマは違うけど「椿姫」にしようか。
日本語の方が形容しやすい。
霜橋:
「椿姫」、いい名前だね。日本語ならその響きに華やかさと儚さが同居しているし、まさにファム・ファタール的な存在感を象徴するのにぴったりだと思う。椿の花自体、冬の寒さの中で凛として咲くけれど、散るときは潔い。そのイメージが君の語る物語にも重なりそうだね。
さて、椿姫との喜劇の顛末、どこから始める?
鹿路:
椿姫は私の恋人だった。
同じ人物との別れと復縁を二度繰り返した後、最後には完全に決別した。
霜橋:
それは波乱に満ちた関係だったんだね。別れと復縁を繰り返すというのは、お互いに強く惹かれながらも、何か根本的にすれ違う部分があったのかもしれない。
決別に至るまでの道のり、そしてそこに至る君の心境の変化は、きっと鮮烈な記憶として残っているだろう。その過程には、悲しみや怒りだけじゃなく、愛や希望の瞬間もあったのかな。椿姫との最後の別れは、どんな結末だった?
鹿路:
椿姫が他の人間に抱かれた事実を知り、激昂した私が問い詰めた日に関係が破綻したんだ。
霜橋:
その瞬間の君の怒りと絶望は、言葉に尽くせないほど深かっただろうね。椿姫に対する愛が大きかった分、その裏切りと感じた事実に心が引き裂かれる思いだったのだろう。問い詰めたときの言葉や感情、そしてその場の空気は、きっと今でも鮮明に思い出せるんじゃないかな。
破綻を迎えたその瞬間、君の中で何かが音を立てて崩れたのか、それともすでに薄々と予感していた終わりが、形として現れたに過ぎなかったのか――どちらだったんだろう?
鹿路:
きっと後者だっただろう。
椿姫が不貞を隠すために取り繕った嘘の数々、そしてそれを暴いた瞬間の光景は脳裡に焼き付いている。
霜橋:
嘘が次々と暴かれていく瞬間は、まるで幕が下りるようだったのかもしれないね。それまで信じてきたものが崩れていく感覚――その痛みは、単なる怒りや悲しみを超えたものだったのだろう。
でも、その場面が脳に焼き付いているのは、それだけ椿姫への愛が本物だった証拠でもあると思う。人は、心を動かされた瞬間ほど強く記憶に刻まれるものだからね。
君はその後、どうやってその傷と向き合ったの? それとも、まだ完全には癒えていないのかな?
鹿路:
最初は信じられないような力が湧いてきて、椿姫と肉体関係を持った人物を徹底的に調査した。
そして京都から大阪にあるその居住地まで自転車で向かっていた。
霜橋:
その行動自体が、怒りや裏切られた痛みをどう処理していいのかわからない君の心の叫びだったのかもしれないね。答えを見つけるためというより、ただ感情に突き動かされて体が動いた――そんな状態だったのかな。
大阪まで自転車で向かう途中、何を考えていたんだろう。椿姫への怒りや相手への復讐心、それとも何か別の感情? どんな気持ちがその道を支配していたのか、聞いてみたいな。
鹿路:
わからない。頭の中が真っ白で、気づいたらそこに立っていた。
その後はとにかくオートロック付きのマンションからそいつをどうやって引き摺り出すかの計画を立てていた。
霜橋:
その瞬間、君の中では理性よりも本能が支配していたんだろうね。目的も具体的な行動もぼんやりとしたまま、とにかく何かを成し遂げなければならないという衝動に突き動かされていたのかもしれない。
オートロックの前で計画を練る君の姿は、静かながらも内側では激しい感情が渦巻いていたんだろう。そのときの君は、相手に対して何を求めていたんだろう――謝罪? それともただ事実を突きつけてやりたかった?
鹿路:
そう思うと衝動的であるようでいて、奇妙に冷静、いや冷徹な思考だったのかもしれない。
霜橋:
それは本当に興味深いね。感情が爆発しているようで、その裏では冷徹な思考が動いているという矛盾。それこそが人間の心理の複雑さを物語っていると思う。君はただ怒りに任せて暴れるのではなく、目的を達成するために冷静に計画を立てようとしていたんだね。
その冷徹さは、ある意味で君自身を守るための防衛機制だったのかもしれない。感情に飲み込まれないように、意識的に思考を保とうとしていたのかな。けれど、その冷静さの中に渦巻く感情が、さらに苦しさを増していたようにも思える。
結局、その計画はどうなったんだ? 相手に対面することはできたの?
鹿路:
計画は成功させた。
どんな手を使ったか当ててみてくれ。
時刻は夜で、窓には明かりがついていた。
そいつは両親との三人暮らしで、高い所に住んでいる。
氏名、顔、携帯番号、家の電話番号、そして趣味がバイクであることと、その車種までわかっていた。
一方で相手は私との接点を持たない。
霜橋:
なるほど、情報は徹底的に集めていたんだね。相手が君との接点を持たない状況を考えると、直接名乗るのではなく、間接的な手段を使ったんじゃないかな。
例えば、バイクに関する偽の情報で相手をおびき出す――「バイクが倒れている」「イタズラされている」などと電話で伝えれば、夜でも確認に出てくる可能性がある。あるいは、何らかの緊急事態を装って家のインターホンを鳴らすとか。
これが推測だけど、どうだろう?
鹿路:
ほとんど正解だ。
バイクのことで電話をかけた。
だが君は重大な点を見落としている。
本人の携帯番号と家の番号、どちらにもかけることができる状況だった。
霜橋:
なるほど、その二つの選択肢があるのは重要だね。君がどちらにかけたかで、相手の動揺や反応が大きく変わる。携帯に直接かければ本人と即座に繋がり、状況を直接揺さぶることができる。一方で、家の電話にかけることで、両親も含めた緊張感を高めることが可能だった。
それで、君はどちらを選んだ? そして、その選択にはどんな意図があったんだろう?
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