第6話 微笑みと野心

 模擬戦を終えて廊下を歩いていると、今度はルブラの娘――長女ウィンクルムの姿が目に入った。フラウスやティグリスとはまた違って、華やかで余裕を感じさせる雰囲気の女性だ。世話焼きだという噂を聞いていたが、実際に見ると背筋の伸びた姿は自信の表れか、どこか頼もしそうに見える。


「アーテル、大丈夫? 顔色が悪いようだけど」


 ウィンクルムは侍女から受け取った手拭いをさっと差し出す。汗を拭くよう促され、俺は恐縮しながらそれを受け取った。こういう細かい気配りを見る限り、確かに世話焼きなのだろう。


「ありがとうございます。少し剣を振り回して疲れただけで、体調はそれほど悪くない……はずです」

「そう、ならいいんだけど。あなた、まだ寝込んだ影響が抜けきっていないんじゃない? あまり無理しちゃダメよ。ネーヴェだって心配するでしょ?」


 そう言ってウィンクルムは優しげに微笑む。俺は内心で「確かにネーヴェをこれ以上心配させたくはない」と思いつつ、頭を下げた。


(ウィンクルム姉上は面倒見がいいんだ。だけど……)


 アーテルが意味ありげに言葉を濁したところで、ウィンクルムは続けて話し始める。


「そうそう、母様がまたいろいろ動いてるみたいね。あなたの母方のルーナエ家が財政難だっていう噂、わたしも耳にしたわ。もしかして派閥に引き込もうとしてるんじゃないかしら?」


 予想通り、彼女はすでにルブラの策動を把握しているらしい。そして俺がどうするのかを探っているようにも見える。


「ええ……それをちらつかせるような提案を受けました。まだ返事は保留にしてますけど」

「賢い選択だと思うわ。簡単に飛びついてしまうと、条件次第では逆に自分の首を絞めかねないからね」


 ウィンクルムがため息交じりに言う姿は、姉が弟の将来を案じているようでもあり、一方で自分自身の計算も巡らせているように見える。彼女自身、辺境伯家の長女という立場を活かし、強い上昇志向を持っている――とアーテルから聞いたことがある。


「でも、家のためにはお金が必要だし、宮廷貴族であるルーナエ家が立ち行かなくなっても困るでしょう? あなたとネーヴェが大変になるかもしれないじゃない。どこかで誰かと協力しないといけないのよ。……まあ、フルーム母様やルブラ母様、それとも別の手を探すのか……よく考えなさい」


 ウィンクルムが選択肢を挙げてくれるのは親切だが、その裏には「あなたがどこに付くかで私も対応を変える」という思惑があるのかもしれない。彼女は彼女で上昇志向が強く、婚約者を決めずにいるのも、辺境伯家の立場を最大限利用するつもりなのだろう。


「……ありがとうございます。ネーヴェのことを考えると、軽々しく動くわけにもいきませんけど」

「そうでしょうね。あの子もあなたを心配してるわ。だから私も、できる範囲で協力するわよ。何かあったら相談してちょうだい」


 にこやかな笑みを残し、ウィンクルムは颯爽と立ち去った。彼女の口調は親身そのものだが、アーテルが脳内で「姉上の親切は嬉しいが、信用しすぎるのも危険だ……」と呟くのが聞こえる。


 結局のところ、第一夫人フルームや第二夫人ルブラ、長女ウィンクルム、長男フラウス、そして次男ティグリス――みんな何らかの形で辺境伯家を支えたり、あるいは利用したりしようとしているのだ。アーテルが安全に生き抜き、ネーヴェを守るには、どの陣営とどう折り合いをつけるかが鍵になる。


 ***


 第二夫人ルブラがちらつかせた資金援助の話は魅力的に見えるが、その対価として派閥への参加を求められれば、簡単には踏み切れない。味方に取り込もうとする行動は、暗殺という短絡的な手段とは対照的だ。だからといって第一夫人フルームが裏で糸を引いている確たる証拠があるわけでもない。毒殺未遂の真犯人を示す有力な手がかりは、今のところ見つかっていない。


 ――だいたい、ルーナエ家って本当に俺たちを助けてくれるんか?


(お爺様と直接顔を合わせたことはないな。王都から辺境伯領まで来るには二ヶ月以上かかる。母上が亡くなったときも、手紙が届いたきりだ)


 ――縁が薄いわりに、資金繰りが悪いことだけは知られとるわけか。


(社交界とはそういうものだ。悪い噂ほど早く広まるからね。とはいえ、僕とネーヴェの後ろ盾になってくれそうなのは、いまのところルーナエ家くらいしか思い当たらない)


 ――父親には頼れんの? 家庭内で蔑ろにされとったんか?


(父上は武人として名を馳せ、為政者としての手腕も決して低くはない。だが、奥向きのことはほぼ任せきりで、積極的に関与しようとはしない。要するに、兄弟の誰に対してもいい顔をするんだ)


 ――それじゃ、もしアーテルが死んでも気づかんままってことか……。


(父上とて完璧ではないよ。ともかく明確に味方と言えそうなのは、やはりルーナエ家だろう。家族はみな、何らかの思惑を抱いているし……」)


 とはいえ、ルーナエ家がそもそも十分な余力を持っているのかもわからない。母の実家を救うには資金が必要だし、ネーヴェを守るにはいずれ金が物を言う場面も出てくるかもしれない。だが、次男ティグリスは「熱血漢」で継承権には興味がないと公言している一方で、母親がルブラである以上、いつどう利用されるかわからない。本人の意図とは無関係に、親の戦略に取り込まれることはよくある話だからだ。


 さらに、長女ウィンクルムはお姉さん気質で面倒見がいいものの、自分の将来に対するこだわりを見せるあたり、上昇志向が強い。彼女が辺境伯家の名前をどこまで利用するかによって、アーテルの将来にも大きな影響が及ぶだろう。


(これで家族全員と顔を合わせたわけじゃないが、すでに胃が痛いだろう?)


 ――ほんま、ネーヴェを守るだけでも大変なのに、金やら派閥やら……振り回されるのはごめんやで。


 脳内でひととおり相談を終え、俺は大きく息を吐いた。父親である辺境伯は国境の砦に詰め、魔族の襲来を防いでいるため、いつ戻ってくるかはわからない。つまり、夫人たちや兄弟姉妹が好きなように動きやすい状況が続くというわけだ。こんな嵐の前の静けさの中、どんな陰謀が隠されているかもわからない。


 今できることは限られているが、俺とアーテルは次の動きに備え、準備を整えねばならない。毒殺から身を守り、継承権争いにも巻き込まれないようにするには、情報をさらに集め、自衛手段を確保するしかない。


 ――よし、とりあえず魔法と剣術の修行をもう少し頑張ろうや。金もコネもないし……最後に頼れるんは自分の力やろ。


(同感だ。フルームやルブラの誘いを断るにしても受けるにしても、僕らに実力がなければただの駒として転がされるだけだ)


 こうして俺たちは、第二夫人ルブラの実利主義、ティグリスの熱血剣術、そしてウィンクルムの上昇志向を見せつけられながら、ますます複雑化していく辺境伯家の人間関係を前に、改めて決意を固めるのだった。次に動き出すとき、この厄介な継承争いの渦中で、どう立ち回れるか――それを考えると頭が痛い一方、不思議な高揚感もわいてくる自分が怖い。


(若、今はまだ継承権争いにどっぷり足を突っ込んでいるわけじゃない。これは別の道を切り開くための準備期間だよ)


 ――せやな。そんじゃ、やったろうやないか。ネーヴェを守るためにも、俺らが頑張らんとあかんしな」


 脳裏に浮かぶネーヴェの笑顔を思いながら、俺はそっと首を回し、固くなった肩をほぐした。館の廊下をわずかに吹き抜ける冷たい風が、新たな覚悟を後押ししてくれるかのように思えた。

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