第2話 悪魔との契約
ランタンの淡い光に照らされた部屋で俺はアーテルとの奇妙な会話を続けていた。依然としてベッドに伏したままの体は重く、思考も靄がかかったようだ。しかし、アーテルの声だけは頭の中で鮮明に響き続けていた。
(若には僕がこの状況にどれほど追い詰められていたかわかるまい)
アーテルの声には、幼いながらも痛切な疲れと焦りが滲んでいた。彼が直面してきた苦悩は、記憶を共有していない俺には想像するしかない。重荷を代わりに背負うには、もつれた糸を一本ずつ解きほぐしていくしかないだろう。俺は腰を落ち着けて、彼の事情をもう少し詳しく聞き出そうとした。
――それでアーテルは何で死んでしまってたんや?
(おそらく食事に毒が入れられていたのだと思う。夕食後に部屋に戻ってベッドで横になるのが精一杯だった……)
確かに短時間で発熱、湿疹、呼吸困難との症状は毒物によるものかもしれない。だからといって拙い医療知識では原因を特定するまでには至らなかった。暗殺するにしても館の中となると醜聞にもつながるだろう。そんな強硬策に出るほど状況は切迫しているのか。
――アーテルにはなんか毒殺される心当たりがあるってことやな?
(継承権争いだ)
吐き捨てるように放たれたアーテルの言葉が、まだ微熱の残る俺の胸に重くのしかかる。サラリーマンとして働いていた頃、社内では足の引っ張り合いや派閥争いも多少はあったが、命を奪うところまで踏み込むことはなかった。ここでは人生そのものが権力や地位を巡る修羅場になっているのだ。
一人暮らしの孤独な社会人生活だったが、実家に帰れば両親がいたし、愛情をもって育ててもらった。家庭内の不和には鈍感、いや人間関係の機微には鈍感だという謎の自負もある。
――ということは、犯人はグラキエス家の誰かってことか……。
(ああ、僕はグラキエス家の第三夫人の子供で、継承権は第三位だ。しかし、父には他に二人の夫人と妾から生まれた子供たちがいる)
俺は思わず眉をひそめた。血の繋がりが円滑な人間関係を作り出すわけではないが、利害関係の対立は容易に摩擦を起こす。四六時中、職場にいるような緊張感では、家の中でも気が休まらないだろう。これからの人生に思いを馳せるとテンションは大暴落中だ。誰かに買収してもらいたい。
――腹違いの兄弟と継承権で争ってるちゅうわけか。せやけど継承権は第三位なんやろ? そんな下の方から潰していくか?
(若の言う通りだ。だが兄弟の話は後回しにしよう。重要なのは、僕が命を狙われたという事実だ)
アーテルは淡々と語ったが、その声には微かな警戒心が滲んでいた。家族のことも信用できないのに、身体を乗っ取った悪魔と現状について語り合っている。傍から見ればおかしな状況だ。
――家内の問題を父親は知らへんのやろうな。明らかな証拠はあらへんけど、協力を取り付けられへんのか?
(父は辺境伯の責務として国境の砦で魔族の襲来を防いでいる。もう半年以上、砦に詰めっ放しだ。負けることはないだろうが、魔族との争いがいつ終わるかも予想がつかないな。父の目が届かない内に後継者としての地位を盤石なものにしようとしているのかもしれん)
予想以上に周りを取り巻く状況は悪い。そうでなければアーテルが辺境伯家を乗っ取って黒幕に育つわけがない。まあ、何の因果か今は死んで身体を乗っ取られているわけだが。
――周りに信頼できる味方は誰かおらへんのか? 調べるにしても戦うにしても人出は欲しいやろ。十二歳の子供やとやれることも限られとるしな。
(亡くなった母が実家から連れてきた女中が一人いる。名はレーニス。彼女は僕と妹の専属だ。他家の紐付きを心配する必要はないだろう)
食事に毒を盛られたとしたら厨房の調査はレーニスに頼むしかないが、妹が看病している以外、大事になっているような騒がしい雰囲気でもない。死にかけで放置されるほど家内での扱いは酷いのかと心配になる。
――アーテル、家の扱いが酷ないか? 死にかけとるのに見舞いに来るのは妹だけやなんて。使用人たちにまでそっぽ向かれとるんやないか?
(母が亡くなった段階で、僕はもう後ろ盾を失った。第三夫人という立場はそれほど弱い。使用人もほとんどは第一夫人か第二夫人の派閥につくから、僕に仕える者は少ないんだ)
アーテルの声に一瞬、幼さが戻ったような気がした。十二歳という少年にしては酷な境遇。家族に見限られ、母を失い、それでも妹を守るために必死だったのかと思うと、胸が痛む。
死ぬような目に……、いや手遅れだった。自分が死んでいたら俺だって冷静でいられる自信はない。いや俺も死んでいたな。身体は大切にしないといけない。生きているうちに。
――それで、この身体にも毒を盛られたってわけか?
(それが僕の推測だ。母も似たような症状で亡くなった。発熱、湿疹、呼吸困難――僕が今感じているものとそっくりだ)
俺は嫌な汗が背中を流れるのを感じた。母と同じ症状で死んだということは、計画的に行われている可能性が高い。次のターゲットが妹にならない保証はない。
――それやったら、妹も危ないんとちゃうか? 継承権がないわけでもないんやろ?
(そうだ。それが一番恐ろしい。僕が死んでも、妹、ネーヴェを守るために僕がやってきたことが無駄になる。だからこそ、今こうしてお前と契約したんだ)
声がわずかに震えている。黒幕と呼ばれた少年が、たったひとりで必死に家の闇と戦ってきたと思うと、俺も助けてやりたい気持ちが不思議と湧いてくる。
――ま、任せとき。契約やったよな? 妹を幸せにするんが、あんさんの望みやろ?
(頼む。若にはすべてを託す。それが今の僕にできる最善の賭けだ)
アーテルの言葉が思いのほか重く、背筋が伸びる思いがした。かつては生きる気力を失っていた俺だが、今このときは不思議と生きる意欲がわいてくる。俺は深呼吸し、こんがらがった現実をひとつひとつ解き明かそうと腹を括った。
***
暗闇に沈む天蓋を見上げながら、俺はさらに考えを巡らせていた。熱も峠を越えたらしく、息苦しさも随分と軽くなった。頭がクリアになると、「妹を幸せにする」という目標がリアルに感じられる。
――アーテルの死因を突き止めなきゃ、何も始まらへんよな……。
部屋の中は静寂に包まれ、かすかなランタンの光が壁に影を落としている。ベッドの上に横たわりながらも、心は落ち着かなかった。
――優先順位を決める必要がありそうや。先ず、妹と生き残ること。次に命を狙われているなら、その原因の排除。黒幕になることを回避するのは後回しやな。今、考えたところでなんもできへんし。
そんな自問を繰り返すうち、微かな衣擦れの音が耳に届いた。ふと視線を向けると、ベッド脇で目をこすりながら立っている少女がいた。
「兄様……?」
銀髪に淡い夜着の少女――アーテルの妹、ネーヴェだ。彼女の大きな瞳にはまだ眠気が残っているものの、不安の色が透けて見える。俺は思わず身を起こして声をかけた。
「ネ、ネーヴェ? 起きたのか? なんで俺、僕の部屋に?」
「兄様のことが心配で……眠れなかったの」
小さな肩を震わせる姿に、胸の奥がちくりと痛む。夜着姿でここまで来るなんて、よほど心配していたのだろう。以前は他人事だと思っていたが、こうして目の前で純粋な愛情を向けられると、情が移らないわけがない。
「大丈夫。こうしてちゃんと休んでるから、ネーヴェも無理をしないで休むんだよ」
俺は自分の小さくなった手を持ち上げ、妹の肩にそっと触れる。するとネーヴェは安心したように息をついたものの、未練がましくベッドの端を握りしめている。
「本当にもう平気なの? 何かあったら、私が……」
頼りない声に、俺は苦笑しながら首を横に振った。こんな幼い子が必死に兄を守ろうとしている。その気持ちが痛いほど伝わってきて、同時に責任も感じる。俺はアーテルとして、彼女に安心を与えなくてはならない。
「聞き分けのないこと言わないでくれ。ネーヴェが倒れたら、逆に僕が困るよ」
そっと頭を撫でてやると、彼女は小さく微笑んだ。しかし、その笑顔の裏にはまだ不安が残っているのがわかる。
「でも……兄様がまた倒れたりしたら、私……どうしたらいいの?」
「心配し過ぎだよ。絶対大丈夫だから、ネーヴェも安心して休んでくれないか」
「うん……でも、もし何かあったらすぐに知らせてね? 私にもできることがあるかもしれないから」
「そうだな、帰り際にレーニスに声をかけてくれないか。部屋に来るよう伝えて欲しい」
ネーヴェは少し考え込むようにしてから、小さく頷いた。まだ不安そうな瞳は完全には晴れていないが、彼女なりの決意があるのだろう。
「わかった。じゃあ、レーニスを呼んでくるから……」
そう言って、ネーヴェは何度も振り返りながら部屋を出ていった。その小さな背中を見送りながら、俺は深いため息をつく。契約したからには、絶対に守ってやらなければいけない存在。そう心の中で改めて誓った。
――ホンマ、しっかりせなアカンな、俺……いや、アーテルとして。
夜の静寂の中、小さくつぶやいた言葉は、自分への叱咤であり、決意の表れでもあった。
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