十一月六日
@knjmyzw1106
十一月六日
白い靄の中、見知らぬ街の中を静かに揺られていく。
降ろされたのは山の麓のような空気の薄い、それでいて平地のように真っすぐ伸びた地平線だった。誰も彼もが迷いなくそれぞれ自分たちの道を行く。最初は同じ方向に進んでいたが、やがてそれぞれ違う方へと足早に去っていった。誰も一言も言葉を交わさない。ただ、行く方向は違っても心には同じ気持ちを抱いていた。
「はやく行かなきゃ。」
私は幼馴染二人と同じ方向に進んでいた。どれほど歩いただろうか。やがて街が見えてきて、住宅街を進んでいた。会話はほとんどなく、ただ「駅」を目指して見知らぬ道を何も確信のない中歩くのだ。
公園を通り過ぎ、穏やかなスロープを降りた先の一軒の家にたどり着いた。台所の換気扇から湯気が出ていて、今の気温の低さに気が付いた。辺りは夕日が指してきて容赦なく時間の経過を知らせていた。早く駅に向かねば。
ふと前を見るとその一軒家に三台の自転車があることに気が付いた。歩き続けた疲労と絶え間ない焦燥から三人の思うことは言葉を交わさずともお互いに感じ取ることできた。自転車はそれぞれ違う大きさで、子供用だった。この家庭には三人の子供がいるのか。台所からは野菜を煮ているような温かい香りがする。二人が隠れながら自転車へと飛びつく間、私はこの家庭のぬくもりと豊かさを確かめながら、窓から家の中をそっと覗いた。居間では女性が電話をしながら窓の外のこちらを見ていた。面長で長い髪をきれいに纏めた女性は電話の受話器を両手で持ちながら何かを話していた。その気品ある所作と朗らかな表情が、このせかせかとした気持ちを緩め、心にまで入り込もうとするようだった。女性はこちらのことなどまったく気が付く様子もなく、私はその、合いそうで合わない視線をただ眺めていた。自転車に乗った二人に気が付き、私は思い出したかのように追いかけ急いで残りの自転車に跨る。その自転車は私の身長にはかなり小さく、乗り始めにもたついた。「早く!」と言う二人の声の大きさに圧倒されながら自転車で追いかけていく。猛スピードで道を進む。見つからないようすべての角を乱暴に曲がっていき、呼吸が上がってきたころに長いトンネルの前まで来ていた。
トンネルの奥は暗く、先は見えない。目の前にはこの道しかないはずなのに、このまま行けば逃れられるはずなのに、足が止まった。トンネルを潜り抜けることなく、足はペダルを降り、元来た道につま先を向けていた。心臓は胸を強く打ち付けるような速さで動いていた。
「だめだ。返そう。」
女性の自宅へと向かう途中に、まさにあの女性が着の身着のままで白い息を吐きながら辺りを彷徨っていた。咄嗟に自転車を乗り捨て、近づいてくる女性の顔を初めてしっかりと見た。
「すみません。この辺りで自転車を三台ほど見ませんでしたか?子どもたちのものなんです。」
女性は日が沈む陰でも分かるほど真っすぐにこちらを見ていた。それは疑いというよりも助けを求める目だった。
「先ほど近くで見ましたよ。」
反射的にそう答えると、彼女はいたく安堵し、喜んだ。もしあのまま自転車でトンネルを進んでいたら、この女性は見当たらない自転車を探してどこまでも走っていたのだろうか。そしてあのまま進んでしまっていたら、私たちはもう戻ってこられないのではないか。そんなことを考えながらそのまま女性の自宅へと自転車を押しながら元来た道を戻る。あんなにも夢中で走った距離は、多く罪悪感と僅かな自己満足を味わう間に戻ってきた。
「ここまで運んでいただきありがとうございます。おかげで助かりました。せっかくなのでお茶でも飲んでいってください。外は寒いですから。」
通された居間には暖色の明かりが灯っており、手前には革のソファとテーブル、奥には洋式のテーブルと椅子があった。女性は手際よく紅茶とクッキーも運んできて、
「まだ、子供たちは帰ってきてないんです。」
と言った。
二人は今にも家を出たいと言うかのように、奥の椅子ではなく、手前のソファに腰かけ、紅茶を一気に飲み干して、がたがたと足を動かしている。
「本当にかわいい子たちなんです。」
と女性はぽつりぽつり話始める。テーブルに頬を付きながら嬉しそうに一点を見つめて話す女性の子供との思い出は、私の幼少期の記憶と徐々に重なっていった。探していたものがあっけなく見つかった時のように、手を伸ばす前にぶつかったものを大事に拾い上げた。私は三人兄弟ではないが、確かに今の私を形成したのはこの女性だと確信した。ふと顔を上げると、先ほどの女性は私の母親の姿に変わっていた。
「一緒に旅行にも行ったよね。」
満面の笑顔で母親は語りかける。そうか、帰ってきたのは私の家だったのか。見知らぬ街からどのようにして実家にたどり着いたのだろう。母親の話に耳を傾けたまま何時間も経ったような気がしたが、まだ外は日が暮れかけたままだった。
母親はいつもの姿だったが、本当に嬉しそうだった。私はずっと顔を見せていなかったのだろうか。この世界に長い間母親を置いてきてしまったのか。話したいこと、伝えたいことはあるのになぜかやっと開いた口から出た言葉は「もうそろそろ行かないと。」だった。私は早く駅に行かねばならないのだ。二人は私の言葉を聞くや否や立ち上がり玄関へと向かっていた。
「そんな、まだいればいいのに。」
歩き出す私たちの後ろ姿に母親は言った。私もそうしたい。私だけはここに残っていたいが、そんなことはできない。
「寒くない?駅は遠いからこれを使って。」と母親は先ほどの自転車を差し出した。母親心に甘んじて乗っていこうとしたが、やめた。もうここには返しにいけないんだよ、だから歩いて帰るよ。
家を出ると二人は足早に先を歩いていた。振り返るとその家は私の実家だった。やはりここは私の地元だったのだ。私はただ実家の屋根を眺めていた。
「もう帰るの?また帰ってくる?」
玄関先の母親の声で視線を戻すと、母親は私が幼いころの若い姿になっていた。肩までの髪は毛先にそって軽く整えており、風に揺れながら若い快活な笑顔に寄りかかっていた。その若い姿からは似ても似つかない言葉に驚いたが、この人の中身は今の母親のままだと気が付く。母は寂しいのだ。
先に歩く二人に先ほどの女性が私の母親であることを知られないように、先に駅に行ってほしいと思った。気兼ねなく母親との時間を楽しみたかった。
行きたくない。まだここにいたい。ふと見たママの寂しい笑顔に胸が潰れそうになった。自転車を片付けるママの後ろ姿に子供の時のように無邪気に語り掛ける。
「ママ、一緒に行こうか。どこまで行く?」
「行けるとこまで。」
若い姿のママは軽やかに家から歩き出した。追いかけるように家のすぐ横の道を歩き出す。小さな頃に何度も歩いた道だ。夕日がまだ暮れかけている。通り抜ける風が心地よく、枯れ葉が焦げたような懐かしい匂いがした。
「あの子の鼻、特徴的になったね。」
ママは幼馴染の一人のことを突然話始めた。大人になってから久々に見たから驚いたのか、私の関心を引き付けておきたいから言ったのか、あるいはもう私たちのことを知っているのか。ただ、あまりにも無邪気に言うので、ただの感想なのであろう。
交差点にたどり着く。「もうここで。」と私から言う。信号を渡ってもずっと手を振り続けるママは泣いていた。私もそっちに行きたい、一人は嫌だと言うようだった。
信号が赤に変わり、横の信号が青になってから渡ると、ママも並行して信号を進んでいた。
このまま一人にしていいのだろうか。ふと直感的に危うさを感じた。
次の信号が変わるまで待っていると、やはりママはこちらに歩いてきた。いつも散歩や買い物に行くときに通った小さな交差点だ。
涙を隠そうと笑いながら歩いてくる。何か言わないと。ママはこっちには来られないのだと。
「ママ、寂しくても気を強く持たないといけないよ。」
ママの姿が小さな女の子になっていく。少女は顔をしかめながら泣きそうな、または泣くのをこらえた顔で頷いた。やせ型の小柄な少女が表情を見られないように顔を隠そうと、必死で髪を手で押さえている。覆われた横顔から涙がこぼれていた。
ふと、私にしては強い言葉を使ってしまったと思い、慌てて言い加える。
「でも会いたくなったらすぐに連絡してね。いつでも帰れるよ。」
そう、この街にママはいると分かったからいつでも帰れるという安心感が芽生えていた。どうしてだったか、今まで見失っていたのだ。
夕日が照り付ける中先ほど眺めた実家の屋根を思い出していた。
風が強い夕方だった。下を向く少女の頭をそっと撫でると、ふさふさと柔らかく、私と同じくせ毛が少し湿っていた。
少女に別れを告げて歩き出す。私は駅に向かわねばいけないのだ。
十一月六日 @knjmyzw1106
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます