兎よ 我を導きたまえ
輿水葉
(前編)
気づくと、私は森の中で倒れていた。
透き通るような鳥の声が遠くで響いている。頬には、柔らかな下草の感触。
ゆっくりと体を起こす。手に触れた落ち葉が、かさりと鳴る。
私はあたりを見渡した。
森といっても、完全に樹木に囲まれているわけではない。前方では、豊かに葉を茂らせた木々が手を取り合い、陽の光の届かない薄暗い空間を作り上げているけれど、後方は視界が開けていた。
そちらに体を向ける。
青い空。なだらかに隆起している平原。
そして少し離れたところには、石積みの立派なお城……。
あの……。
ここ、どこですか?
思わず、口元に苦笑いが浮かぶ。
私はお城が普通に建っているような国――というか市に住んでないし、知らないうちにどこか知らない場所へ歩いていっちゃうような二重人格者でもないし……そもそもなんだこの服!?
私は両手を伸ばし、自分が着ている服の袖や裾を調べた。
赤と黒の縞模様。襞のついた袖口。腿のあたりがぼわりと膨らんだズボン……。
恐る恐る頭に手をやると、なにか奇妙な突起のついた帽子がそこにはあった。
なんというか……宮廷道化師的な格好を私はしているようだ。
……理解不能な状況に陥ったとき、漫画や小説ではこういう台詞がよく出てくる。
これは夢に違いない、と。
もちろん、それがお約束であることは知っている。主人公の困惑、そしてその状況が本当に危機的なものではないことを読者に伝える、スムーズな導入の役割を担っていることは重々承知している。
しかし、自分が実際にそんなシチュエーションに放り込まれてみると、そういった台詞は浮かんでこないことがわかった。
明らかに、これは夢ではない。
意識というか感覚というか、なんだかわからないけれど、この環境に置かれている自分の体は、はっきりとこう告げていた。これは夢ではないのだと。
とはいえ、私はこの状況になんの覚えもない。
何故、森の入口で倒れているのか。
あの城はなんなのか。
……というか、女の宮廷道化師っているの?
「マリエ殿ぉぉ」
突然自分の名前を呼ばれ、私はびっくりした。
声のしたほうを見ると、黒と白を基調とした、落ち着いた服装の老紳士がこちらに駆けてきていた。
「マリエ殿、こんなところにいらしたので」老紳士が立ち止まる。
「は、はぁ……」
「さあ、お早く。王がお待ちかねですぞ。婚姻の儀における出し物は、是非ともマリエ殿にお任せしたいとのお達しでしょう」
「え? お、王?」いったい、何がなにやら。「あの、どうして……」
「ん?」
「その……私、何かしましたっけ……?」
「ふむ……」髭に半ば隠れた口元が緩む。「さすがマリエ殿、私めにもそのような戯れをご披露なさるとは」
「はい……」全然違うけど。
「よろしいでしょう」咳払いを一つ。「我々パリン国は、長らくベルンギ国と敵対の状態にございました。しかし、王の長年のご尽力によりついに、お互いの王子と王女が晩餐会で顔合わせをする機会がやってまいりました。まこと、喜ばしいこと」うんうんと頷く。「けれど、そこには問題が一つございました。ベルンギ国の女王は大の娯楽好き。そして同時に、大陸随一の冷血者。彼女はパリン国に要望を出しました。それは、晩餐会における出し物は、パリン国が担うこと……」眉を顰める。「晩餐会を沸かせることができなければどうなるか。それは説明しなくともご理解いただけるでしょう。家臣たちは悩みました。いったい誰が適任か。すぐに国の名立たる芸人が集められました。そして、その中にはマリエど……。マリエ殿!?」
私は全速力で森の中へ逃げた。
何一つ、あのお爺さんの言うことは理解できなかった。
パリン国? 晩餐会? 出し物?
いったい、何がどうなっているのか、さっぱりわからない。
恐ろしいのは、あのお爺さんが嘘をついているようには見えなかったことだ。いや、演技力抜群の俳優という可能性もあるけれど……。
じゃあ、あの立派な城も作り物? ハリボテ?
いやいや。
何がどうであろうと、大きな問題が一つある。
どうして、私は何も覚えていないのか。
何故、記憶がないのか。
息が切れてきた。
膝に手をつき、呼吸を整える。
周囲は木ばかり。とはいえ、不気味な感じはない。ところどころ、陽の光が差し込んでいる場所があって、どことなく暖かな雰囲気も感じられた。
一息つくと、なんとなく、自分の行動を省みる余裕も出てきた。
……逃げて良かったのだろうか。
そういえば、お爺さんは婚姻の儀と言っていた。
つまり、その晩餐会とやらは上手くいったということだろうか。
誰のおかげで?
……私?
「わけわかんない」
そう一言ぽつりと呟いたとき、何か音が聞こえた。
草を踏みしめる音……。
さっきのお爺さん?
私は音の聞こえるほうに顔を向けた。
そこには……白い兎がいた。
二足歩行の。
結構な大きさの。
兎はこちらに近づいてきていた。
姿がより詳しく見えてくる。ほわほわとした毛並み。つややかな瞳。耳は柔らかに垂れていて、歩行に合わせて気怠げに揺れている。
ここまでは兎の持つよくある特徴だけれど、一点、変わったところがあった。耳の間、頭の上に、赤い苺を一つ乗せている。兎そのものの大きさと比較すると、かなり巨大な苺だ。
……いやいや。
苺なんてどうでもいい。
この生き物はいったい何なんだ?
着ぐるみ?
それにしては精巧だ。
「こんにちは」兎が軽やかな声で言った。喋るのか……。
「こ、こんにちは」
「お困りのようだね」
「ええ、まぁ……正直、かなり困って、ます」敬語は使うべきだろうか。「あの、ここはどこでしょう?」
「僕もわからないよ」
「あ、そうですか……」
それはそうだろう。
兎が地名を知っているとは思えない。
「ええと、近くに交番はありませんか? というか、役所的な……」
「わからないよ」首を振る。
「うん……そうですよね」
「どこに行きたいの?」
「どこ? いえ、どこというか、帰りたいんですが」
「違う世界になら、行けるよ」
「違う世界……」意味がわからない。でも……。「ええ、もう、それでいいです。ここではない場所へお願いします」
「わかった。じゃあ、ご一緒に」
「え?」
「ほっぷ」
そう言って、兎は片方の腰をくいっと前に出した。
……そのまま止まっている。
「ご一緒に、だよ」
「え、あの……」繰り返せ、ということだろうか。「そのポーズもですか?」
「じゃあ、掛け声だけでいいよ」恐らく、むっとした表情をしている。
「ホップ」「ホップ……」
「ステップ」「ステップ」
「ジャングルジム!」
瞬間、私は白い光に包まれた。
どういうわけか、眩しいとは思わなかった。驚きもそれほどではない。
そして、これはなんだろうと呑気に考えたときには、視界に広がる白色は既に淡くなり始めていた。
私は周囲を見渡した。
木々がなくなっている。どこまでも続く平原。さきほどとの違いは、ススキや猫じゃらしなど、よく知っている雑草が目につくところだ。ん……?
自分の姿を見下ろす。服装が変わっていた。麻なのかなんなのか、ごわごわとした素材のシンプルなもの。帽子もどこかになくなり、私の中途半端な長さの髪は、何かの紐で後ろに纏められていた。
農民……だろうか。そんな感じの姿になっている。
「ここは……どこですか?」私は隣にいる兎に尋ねた。
「わからないよ」
「あの、あなたは……どこのかたでしょう?」
「兎だよ」
「はい……」そうでしょうとも。「お名前は?」
「うーん」首を小さく傾ける。「思い出せないんだ」
「そう……」
私は溜め息をついた。
状況はあまり変わっていない。二重の意味で。
ここはどこなのか。そして、この奇妙奇天烈な状況は何なのか。
夢であるとしか説明はつきそうにない。しかし、夢であるとは感じられない。
…………。
とりあえずのところ、さきほど居た場所よりは親しみのある風景が周りに広がっていることは間違いない。ちょっと歩けば、道路くらいには行き着くのではないか。
少し移動してみよう。そう思ったときだった。
何か、重々しい音が遠くから聞こえてきた。
平原の向こうに目を向ける。
茶色の
その中から現れたのは……武者だった。
馬に乗った武者が、大軍が、こちらに迫ってきている。
凄まじい地響き。
その轟音を作り上げている様々な音をかろうじて聞き分けられるくらいに彼らが近づいてきたとき、私はもう一つのことに気づいた。
彼らが向かう先、平原のもう一方からも、こちらに近づいてくる軍勢がいた。同じような鎧。しかしデザインが微妙に違う。
私はただ、その場に立っていた。
この状況を飲み込むのに精いっぱいだった。
二つの軍勢、両者が横並びのまま止まった。
突然に舞い込む静寂。
空にゆったりと昇り、そして消えていく土煙。
何が起きるのか、私は首を振りつつ両軍をじっと見つめた。
音はしない。何も起こらない。
……いや。
両軍の後方、その頭上で、何かが動いている。
たくさんの、細い……。
違う。
あれは矢だ。
矢が、空に向かって放たれている。
……かなりまずい。
「ちょ、ちょちょちょ、兎さん!」
「うん?」
「べ、別! 別の場所!」
「まだあるよ」
「すぐすぐすぐ、すぐに行って! ホップ!」
「合図は僕からだよ」
「わわわかったからっ」
「ホップ」「ホップ!」
「ステップ」「ステップ!」
「ジャージャー麺!」
視界が白に染まり、そして、その光が弱まり始めると、まったく異なる風景が目の前に広がっていた。
室内。窓。木の机……。
良かった。
なんとか、脱出できた。
私は椅子に座っている。硬い木の椅子だ。
あたりを見回そうと思ったものの、どきどきしている心臓が煩すぎて、状況確認に集中できなかった。とりあえず、胸に手を当てて深呼吸。
「大丈夫?」兎が訊いてくる。やはり隣にいた。
「は、はい……大丈夫です。ありがとう……」とりあえず礼を言う。「あの、さっき、ジャージャー麺と言いました?」
「うん」つぶらな瞳。
「好きなんですか?」
「食べたことないよ」
「そうですか……」ジャージャー麺は母の好物だ。だからなんだと言われても困るけれど。「さっきの世界は……何なんですか?」
「知らないよ」
もちろん、私も知らない。
ただ……。
あの光景、矢が雨のように降りしきるなかで合戦を繰り広げようとする武者たちの姿を、私はどこかで見たことがあるような気がする。
もちろん、いままで生きてきて、戦国ものの映像作品はいくつか見たことがある。そもそも、馬に乗った軍勢が激突するところなんて、ありふれたシーンではないか。
しかし……。
「すみませーん」
突然、誰かの声がした。
壁の向こうから聞こえたような気がする。
私は椅子から立ち上がり、周囲を見回した。古びた本の並ぶ棚。壁に接した机がいくつか。その上には、小さな陶器やガラス製の容器が並び、中には、怪しげな色の液体に満たされたものもある。なんというか、実験室、のような雰囲気だ。
自分の服装も一応チェックする。絹のような、肌触りの良いワンピース……というか、ローブだろうか。首元には滑らかな小石のネックレス。どことなく、魔女のコスチュームといった感じだ。
あれ、これって……。
「すみませーん。ごめんくださーい」
私は慌てて部屋の入口へ向かった。
扉を開けるとそこには木製のカウンターがあり、その向かいには……猫が二匹いた。二足歩行の。結構な大きさの。きちんと服を着た。
「マリエさん。こんにちは」背の高いほうの猫が言う。
「あ、あら、どうも……」
「急にごめんなさい」頭を下げる。縮こまる耳。「でも、どうしても訊きたいことがあって」
「な、何かしら?」
「ワフラサ草がどうしても欲しいんだけど、どこにあるか知らないかな?」
ワフラサ草。
もちろん、そんな名前の草を知っている人はいないだろう。
……私以外には。
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