第二十一話 生写し
あけぼのの薄明りが次第に昼の明るさに移っていったのを見るに、あれからだいぶ時間が経ったらしい。
眠っていれば古都に着くというのも便利になったとはいえなんとも無失礼なものだと、かつての父はかんかんであった。しかしそんな父も今年で六七になる。老いたことを理由にこれら文明の力に頼る他ないのであった。長い旅路になるのだから、その方が気が楽であることは明白で、既に我々は流行の波に乗って束の間の仮眠をとれるほど身も心も順応されていたのである。
かつて大坂は人と人がうねりを見せ、それはもう炎のように煌めいていた。活気のある舞台で代々私たちの家系は商いに勤しみ、巨額の富を得た。しかしその反動は激しかった。栄えていた街は一瞬にして火の海に沈み、多くのものは灰となった。一時は経営が苦しくなるも、それまで栄えていた商いを再起させるのにはそこまで時間がかからなかったのである。これが一世代の間に起こったことだったのが不幸中の幸いだったと言えるだろう。
私たちが奈良の地に降り立ったのはそれから数時間後、日の光も西に傾き、赤みがかったころだった。大坂とは比べ物にならないほど辺りは平穏で、人々の表情にも落ち着きがある。父が裾を払い大きめの帽子を被ったところで私もその横についた。
「良いところだ」
父が何かを褒めるのは珍しい。どんなに売れ行きが良く軌道に乗っていた時期でも喜びの表情一つ見せず調子を乗るな、浮かれるなと捲し立て、周りをピリつかせていたというのに。かといって相手方の家に行くのにその土地を貶すこともしないだろうが。
迎えの者がやってくるまで私と父は近くにある茶屋でくつろぐことにした。父は話し上手で売り子ともすぐに打ち解け合っている。私はただ黙々と団子を頬張るだけである。その団子は今の私にとって喉を詰まらせてしまいそうなほど食べにくい。苦しんでる様を隠すように右脇に置かれてあった茶で流し込んだ。
「奈良へは何をしに?」
売り子は楽しそうに尋ねる。
「せがれの見合いがてら、観光に来たのだ」
我々の退店と同時に背の高い将校らが店へ入ってきた。頭を下げながら先に彼らを通しつつ、我々はその頭を売り子の方へ向ける。既に将校らへの対応に向かっていたが、形式的なものであったがゆえ特に気に留めなかった。静かに店を出ていくとものの数秒で父が車を捕まえていた。
「行くぞ」
まるで何かから逃げるように、足早に車に乗り込む父は負い目を感じているように見えた。開口一番私に「気にする必要はない」と言ったのだ。
「気にしているのは父上の方では」
「私が何を気にする必要がある」
「子の見合い話です」
父は私と目を合わすことなく、外の景色に目をやり頭をかく。森の中を掻き分ける車の中、鹿の群れが遠くで私たちをじっと見つめていた。
「私はただ奈良に来る口実が欲しかっただけだ。見合いはお前が勝手にすればいい」
「言われなくとも、そのつもりです」
父は既に子を三人失っている。
私は末っ子ながら丈夫に育ち、将来は立派な軍人となれると期待されていた。それが今では軍人の道を諦めろと言わんばかりに見合いを急かされている。理由は言わずもがな、上の理由があってのことだ。
父は急いでいたのだ。口には出さずとも、私には伝わっていた。
「万四郎殿、お待ちしておりました」
森を抜け、これまた豪奢な屋敷の前で車が停まった。既に門前には手伝いのものが六名ほどこちらに頭を下げていた。私も釣られて頭を下げる。
「遠方遥々、ようこそいらっしゃいました」
そう言って背中を曲げる彼女らに、父は手を振った。あとはお前が一人でやれということらしい。父は手伝いに通され、待合室で一服でもすると離れていった。
対する私は奥の対面室で話し相手が来るのをひたすら待っていた。そこから呼ばれたのは一時間近く経ってから、着付けに時間がかかったのか、試されていたのか、随分と時間がかかったことに相手は詫びの一つも入れなかった。
私たちが二人きりになったところで向こうは「こんにちは」と聞き馴染みのある口調で話しかけてきた。途端景色が色付いた。
「お初にお目にかかります。月村万四郎と申します」
「これはこれは、弥尋と申します。今後ともどうぞよろしく・・・・・・」
そしてお互いふっと気が抜けるのだ。初めて顔を合わせるのにまるで幼馴染との再会のような安心感が生まれた。
奈良は京の都と同様盆地が広がっており、農業が盛んな土地である。つまりは自給自足ができ、他の仕入れなどなくともこの土地だけで食糧の確保は充分できているのだろう。
そのおかげか人々の暮らしにも幾許かの余裕が感じられる。そこには物乞いもいなければ薄汚い衣を纏った浮浪人の姿も見当たらず、生気を放っていた。
食糧不足はここから冬にかけて恐らくより深刻になってくるだろう。他所からここまでやってくるものもしだいに増えてくるのではないかと予測がついた。
弥尋は茶を私に振る舞った。召物こそ質素なものであったが、その立ち居振る舞い、色艶やかな見た目は大坂の女とは違う雰囲気があった。その表情は一貫して穏やかである。まるでこの見合いがうまくいくと確信しているような、そんな余裕すら感じられる。対する私は慣れない土地で慣れない上品なものを馳走され、まるで竜宮城にいるような落ち着かない心持ちだった。
私が茶を飲んで一息をつくと、彼女の方から話を切り出してきた。
「話は伺っております。大坂はかなり深刻な状況とか」
「ええ、それでも一時よりは良くなっております。商魂逞しい連中が集う町ですから、彼らもちょっとやそっとじゃへこたれません。どこよりも早く店を再開して、儲けてやろうと躍起になっております」
「それはとても頼もしいことですわね・・・・・・」
しばらくの沈黙の後、弥尋はふっと気が抜けたかのように微笑んだ。
「やっぱし違いますか。こちらとあちらでは」
「ああ、いや確かに。こちらはとても良いところだと思っております。畑が広がって・・・・・・皆さんも穏やかで」
「ふふ、無理に褒めようとしなくてもよろしいんですよ」
風が戸から吹き抜けてくる。風鈴の音もどこかで鳴っていた。そういえば気温も大坂と比べればとても涼しいことに気づいた。これだけ緊張しているというのに汗があまり流れていない。
部屋に篭るのもあれだからと、中庭へ案内された。屋敷内を歩いていると多くの老婆とすれ違った。手伝いのものだろう、曲がった腰を更に曲げながら私にお辞儀をするので、その度に私も立ち止まって挨拶をした。
「みんな、あなた様がどんな人なのか一目見ようとすすんで来られてるんですよ」
「ははは・・・・・・」
中庭はさっきいた場所よりもしんと静かで荘厳としていた。座布団が置かれており、そこに座って西瓜でもどうですかと聞かれた。先程団子を食べたばかりで腹は一杯だったが、これを断るわけにもいかず頂くことにした。
「家のものが云うには、これは互いの長所と短所を補い合う婚約だということです。戦争が終わった今、私たちが提供できるのはこの広い土地と食糧。あなた様が提供できるのはお金、そして大坂や都心への流通路の確保。互いに持ち合わせていないものを欲している状態です」
「そうですね・・・・・・」
「しかし私はそんなことはどうでも良いのです。もちろんお金も食糧もあるに越したことはありませんが。彼らの云うことは良い意味で不自由のない安定した生活ができる。悪い意味で変わりばえのしない古くさい生活をしなければならない。戦争が終わった今こそ、過去の財に縋り付くべきではないと思っているのです」
「あなたは家の方針に反対されておるというわけですか」
「ええそうですね。しかし私は従えと命じられれば従う覚悟はできております。この家に生まれてきた以上は従わねばなりません。あなた様はどうお考えですか」
西瓜を切って渡され、受け取ろうとした瞬間。顔を近づけてこられた。流石に一歩引いた。
「あなた様の本心をお聞かせください」
冷たいものを食べているというのになぜか先程よりも暑さが増したような気がしていた。私がこの見合いに意気込んでいたのと同様に、彼女も真剣なのだ。
西瓜の断面にあった黒い種を見つめながら、必死に声を出した。
「私は己の考えを持ったことがございません」
「というと」
「必死だったのです。兄は旅立ち、父は老い、一家を支えねばならないという圧力が日に日に増している感覚。生活の中に私情を挟めるほどの余裕がなかったのです。戦争が終わっても暮らしがすぐに回復するわけもなく、食糧は不足している状態。父が生きている間に身を固めて安心させてやりたい。そんな気持ちでいっぱいでした」
「そうでしたか」
「しかし今、ここにきて少し違う考えも持ちました。家として見るのではなく、個人として見る。菊陽様の存在です」
「わたくしのような人はこれまで出会ったことがないと」
「ええ、そうですね。少なくとも大坂ではおりません。『家と個人は別だ』という考えはこれからとても必要になると考えています」
弥尋は居住まいを正し、足をぶらんと下げて西瓜を食べ出した。見ると先ほどまで側にいた手伝いの姿が見当たらない。いつのまに下げさせたのだろう。
私が目を丸くしていると彼女は「ふふ」と笑った。さっきまでの大人しい彼女はすでに消え失せていた。
その時、黒々としたカラスが我々の前に降り立った。翼を伸ばせば畳一畳分くらいある大きなカラスを見たのは初めてで驚いていると、彼女は「おかえり」と言うのが聞こえた。
「このカラスはラウムといいます。長く姿を見せていなかったのですが、久しぶりに降りてきてくれました」
「らうむ?カラスを飼っているのですか?」
「飼うとは少し違います。時々こうして様子を見に来てくれるだけの存在です。餌も与えなければ彼から何かを貰うこともありません」
カラスは「ガアガア」と鳴くと、私のほうを一瞥して飛び去っていった。よくわからないが興味がなくなったらしい。
「見守ってくれる存在というのはこの歳になるととてもありがたく感じるものです」
弥尋はカラスが飛び去った方向を惜しむように見上げた。瞬間彼女から年相応の生気が失われたような感じがした。
「弥尋様?」
そう呼びかけると、はっと振り向いた彼女は「あ、いえ!」と慌てて付け足した。
「ところで万四郎様、夜のご予定はありますか?この時期になるとささやかながら祭りをやっているのですが、よければご一緒に寄ってみませんか」
「あ、ああ。祭り!良いですね是非行きましょう」
手伝いを呼び、下駄に履き替えると私は父を呼び祭りへ行く支度をすると報告した。父は「ああ、行って参れ」と見栄を張ったが、私らが父も同行して欲しい旨を話すと「まあ観光がてら、悪い誘いではない」と受け入れた。お手伝いの老婆はくすくす笑っていた。
弥尋と私はその後紆余曲折ありながらも交際を重ね、やがて婚姻を結んだ。父は私たちの出立を祝福した後、使命を全うしたと言わんばかりに病に倒れ亡くなった。
しかしその後、私たちの間に娘を授かった後、今度は弥尋まで亡くなってしまった。原因は不明だったが、赤子を産むというのは女にとってとてつもなく大変なものなのだと手伝いの者らが涙ながらに語ってくれた。
幸い、娘は健康であった。私や手伝いの者が献身的に育て上げ、立派な幼子へと成長した。しかし私たちの中にはある疑念があった。それは赤子にも関わらずこれまで全く泣かなかったのである。最初は「泣かねば呼吸ができない」と無理に泣かせようとした老婆たちも、問題なく呼吸をしている娘の様子に「あれま」と驚きを隠せなかった。
そして娘の最初に発した言葉が私たちを戦慄させた。
「皆さん、いつもありがとうございます」
そう言って笑う娘の表情はかつての弥尋とそっくり同じだったのだ。
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