第二十話 トリと烏

「なるほどね」


 そのカラスは三人の前で高らかに言葉を発した。あまりにも衝撃的なカラスの言葉に全員が固まっている。


 これを好機と言わんばかりにカラスはさらに話を続ける。


「今この瞬間に因果が変わった。ここが大きな分岐点になる。みんなはどうする」


 既に周りは敵の襲撃によって荒れ果てていた。しかし彼らは自らの命と尊厳を守り抜いたのだ。言葉を話すカラスに男が問いかける。


「お前は、何者だ?」




 鋭く尖った風が、屋敷中の空気を一瞬にして斬り分けた。


 季節は秋。もうすぐ紅葉が見られるという時期となり、その日は特に静かで涼しい日であった。寧ろ肌寒いくらいである。布を多めに羽織っていても寒さは凌げず、皆、屋内に引きこもっていた。


 屋内でくつろぐ貴族たちは長く平穏に暮らして来た者たちだった。しばらく大きな戦がなく、気を抜いている様子である。遠い噂話を仲の良い者共とただひたすら話し、目はだらんと下がっている。この温かな空間が風で切り刻まれたのだった。


「縁起でもない。何者か、そこの襖を開けっ放しにしていたのは」


 一人の貴族はただでさえ大きなその頭をさらに大きくさせ、怒鳴った。


「まあ嫌だわクスクス」


「あんなに怒らなくったっていいでしょうに」


 周りからの目線で更に部屋は冷たくなる。

 そこへ一歩踏み出したのは若い男であった。この男が前に出るのを見た貴族たちはこれはいかんと、足早にその部屋から退席した。


「何事でしょうか」


「襖が開いていた。おかげでこの部屋はとても寒くなった」


 その男の冷静な顔を見て、貴族の不機嫌さは更に増す。自分だけが取り乱しているこの状況をその貴族本人が一番不愉快に思っているのである。

 案の定、その光景を見るや男が笑ってしまったものだから、貴族の怒りは増し続ける。ついに限界に達したようで貴族はその男を睨みながら刀に手をかけた。


「何をなさるおつもりです」


「お前の顔を見ると不愉快でたまらん。傷をつけたくなった」


「それは大変申し訳ございません。元々こういう顔つき故、どうかお見逃しを」


「顔以上にその心が気に入らんのだ」


 貴族は刀を抜き男に襲い掛かる。しかし、その動きは遅すぎた。男はその動きを全て読み切り、逆に貴族を追い詰める体制に入る。


「腕を落としましたね、三年前に手合わせを願いした時はもう少し強い方だと思っておりましたが」


 刃先を首筋にあてられながら、その貴族は唸り声を上げる。


「しばらく戦が無いとはいえ、こう気を許していては一家の恥ですよ」


 そして男は周りの散らかった有象無象を見やり、この部屋はしばらく使えそうにないことを従者に知らせに行った。


 この男を周囲は「冷徹」だと評価した。しかしそれは彼自身に対する皮肉でもあった。元が養子である上、貴族達は彼を除け者にし「冷たい男は一人の方が落ち着くだろう」と周りにも従わせた。


 屋敷は既に襖が締め切られている。しかし、彼は一人、外に出て刀を振り続けている。


 それに対して周りは誰も反応しない。一瞥すらしない。それが当たり前なのだ。


 寒い空気で雲が集まってきたのか、次第に雨が降り出してきた。男は刀を素早く直し、屋敷の陰に身を移した。

 屋敷に入る姿を見て従者は駆け寄る。


「換えの服をお持ちいたします」


「その必要はない。私で用意する」


「いえ、しかし......」


 男は従者を追い払うように言った。


「自分のことは自分でせねばならんのだ」


 その日の夜。男はやはり一人で飯を食べていた。大屋敷から遠く離された別所だ。そこで彼は寝食、ひっそりと暮らしている。その事を咎めるものは一人もいなかった。皆彼を気に入らないからだ。


 この数週間の来客といえば虫とカラスほどであった。特にカラスはなぜか男の元に何度も訪れ、飯を欲しがった。おそらく同じやつだろう。一度味を占めればとことん通い詰めてくる,カラスの意地汚さに男はひどく軽蔑の目を向けていた。


「たまには自分で飯を用意してみろ」


 そして追い払う。


 しかし彼自身、この対偶を逆に感謝していた。貴族と話す必要もなく、一人黙々と修行を続けられる。利害の一致である。


 辺りが暗くなり、そろそろ寝ようと腰を落ち着かせていると向こう側の影で物音がした。彼はすばやくその場所目掛けて攻撃体制に入る。


「待った、待った。私だ!」


 観念して姿を現したのは姫君であった。元々隠れるつもりだったのか、質素な服装をしていた。目立たないように敢えてこれを着たのだろう。


「何用だ。ここへ来るのはそう容易ではないだろう」


 体制を変えずに男はその姫から目線を外さない。姫は何も持っていないと手を振って、その場で正座する。


「父上がかんかんに怒っていた。お主、少しは態度を改めたらどうだ」


「あの男は腕が落ちている。戦ごとが長く無いとはいえ、あれでは一家の恥だ」


「それでも養子風情がそのような態度を取ってもらっては困る」


「お前も分かっていないのだな」


 男は側に置かれた刀の鞘を一瞥した。

「災いはいつ起こるか分からないものだ。それに備えて修行に励むことの何処がおかしい」


 姫はしばらく沈黙し、俯いた。姫にはどうすれば父と男の仲が良くなるかということばかりが頭の中にある。うまく中立するにはどうすれば良いのか分からず思案していた。


 やがて顔を上げ、男と向かい合った。


「修行はすればいい。しかし、お前がいくら強くとも我らと協力せねば解決できない問題事も起こるやもしれない」


「そう思っているのならどうしてお前の父は私を除け者にする。私がいなくとも解決できるというのだろう」


「父は分かっていないのだ。この世は平穏だと心の底から信じている。何百年と続いた一族など今まで存在したことがないというのに」


「自信がないから、現実逃避しているだけではないのか」


「違う!」


 姫は声を荒げた。


「この世は移ろいでいる。もっと気を引き締めねばならぬのだ。それなのに」


「・・・・・・」


 男は側に置かれていた茶釜を取り出し、飯を盛った。箸とそれを姫の前に差し出す。姫は一瞬にしてそれを平らげ、「もう帰る」と言ってその場から立ち去って行った。




「かち合うのは嫌いか、同士よ」


 その日、男達は竹刀を振っていた。しばらく目に見えていなかったこの家主の次男が久々に本屋敷に訪れ、離れの男に稽古を申し出たのである。

 次男は軽やかに竹刀をさばき、男を圧倒する。


「どうした同士、突いてこい」

 

 男は何も話さない。次男の動きに必死に追いついているが所々で間に合わず胴に当たる。そのためか、時間が過ぎるにつれ遅れはますます広がっていく。


「止め!」


 合図があって数秒後、二人の動きは止まる。勝敗は明らかであった。


「随分腕を上げたではないか」

 

 次男は軽く頭を下げ、それに応えた。


「とりわけ、この者は己の力に過信しすぎている。お前が鍛えて差し上げろ」


 貴族達は顔中に広がった笑みを隠せずに言った。自分たちの嫌うその男が負けたことよりも、貴族出の若君の方が力の上で優っていたという事実に悦んでいるのだ。

その為、これ見よがしに貴族達はその男の情けない姿を肴に酒を飲もうと盃を揺らしていた。


 次男は「何をおっしゃいますか」と謙遜の色を浮かべ、目の前の男を一瞥した。


「私のような半端者より、より腕の立つ貴方様が教える方が良いに決まっております。私はここには時々しか来れないゆえ」


 その言葉が発された瞬間、先ほどまで揺れていた盃がぴたりと止まった。




「参りました」


 男は次男と仲が良い。それは互いに力を認め合っているからであり、戦いに対する考え方も一致しているからだ。


 先の稽古で貴族たちが飲み交わしていた酒と同じ酒を二人は酌み交わし、話し出した。


「お主もなかなか腕を上げたものだ。前までは少しは他所見ができたものの、今日の稽古はその隙を作らせなかった」


「しかし、やはりまだ私はあなたの動きについて行くことができない」


 男は哀しい顔をして遠くの景色を見やった。その先は本屋敷の方向である。彼は今までの自分の修行を省みていた。


「焦る必要はない。ついていこうとしなくともお前は戦えている。そう育ててきたのはそなたの父であった」


 次男は立ち上がり言った。月が良く見える場所を探している様子である。


 ふと次男の動きが止まり、一点を見つめたかと思うと右腕を振りだした。つられて男もその方向を見る。


「霞殿もそんな所におらず、一緒にどうであるか」


 遠くの方で影が揺れた。かなり前から様子を伺っていたらしい。姫は不機嫌そうな顔をしながらこちらにまっすぐ歩いてきた。


「またお前か」


「勘違いするな。宴会の場で見せる顔がないだけだ」


「顔だと?」


 男はこの姫が己のことを笑いに来たのだと思い不機嫌になった。さっきまで優雅に酒を酌み交わしていたのが台無しである。


「はっは、どうやら霞殿はお主を心配してくれているようであるぞ」


 次男は再び座り直し、酒を持った。それを姫に差し出す。姫は一瞬にしてそれを受け取り一気に飲んだ。


「私は非常に気分が悪い」


「それはこちらの台詞だ」


 いがみ合っている男と姫に挟まれた次男は、二人が話しやすいように立ち上がろうとしたが二人に袖を掴まれて身動きが取れずにいる。


「父の愚かさを見て己自身の不幸を嘆きたい気分だ」


「お前を見るとあの父の顔を思い出す」


 猿のように叫びながら姫は男を睨みつけた。次男は笑いながらその場に割って入る。


「おやめください霞殿」


 姫は次男に見られたことを恥ずかしがり、そのまま顔を俯かせる。男は不機嫌な気持ちを鎮めるために盃の酒をあおった。


 一羽のカラスが彼らの元に飛んできた。三人とも気づいたようでしばらく見つめていると目が合った瞬間またどこかへ飛び去ってしまった。



「次男様はいつまでこちらに」


「仕事がありますので、それが片付いたら帰ります。大体一月くらいかと」


「一月・・・・・・もう少し長くおられないのか」


「申し訳ない、向こうにも私を待っているものがおりますので」


「おい、私をおいて話をするな」


 次男と姫との話が長引き、男はついに我慢できずに言った。


 姫は何を今更といった顔をしてそれを受け流す。


「お前、もう夜遅いぞ。早く寝たらどうだ」


「それはこっちの台詞だ」


「待て待て、さっきと同じ流れになっておるぞ」


 次男が再び二人の動きを抑える。だがしかし男の言うことも最もであった。あたりはすっかり真っ暗になっており、普段なら既に就寝していてもおかしくない。


「ほら、さっさと部屋に戻れ養子風情」


 本気で男を嫌がる姫の態度と次男が「すまぬ」と言った表情でこちらを見つめているのを男は察し、観念して立ち去った。


 男の中には次男との夜を姫に奪い取られ、竹刀で受けた痛みより強い痛みを抱えることとなった。




 翌日の朝、男は朝の修行のため離れのそばで刀を振っていた。昨夜まであった苛立ちは目が覚めた時には多少は治っていた。

 

 屋敷内の朝は忙しい。これは貴族の従者が彼らの服やら飯やらを用意するためである。そのせいか外に出てみれば昼間以上に煩い声が飛び交っている。


「なぜお前は言われたことができぬのか!」


「も、申し訳ございません!」


 男の目の前では貴族が従者に罵声を浴びせていた。どうやら従者が「へま」をしたらしい。


「これだから若い者は嫌いなのだ。物覚えが悪い、同じ間違いを何度も起こしてくれる・・・・・・」


「すみません、すみません」


 貴族が執拗に従者を罵倒していた。男はそれを黙って聞いていた。


「お前、この時間があれば雑巾の一つでもかけられたであろう。なぜ動かなかったのだ」


「えっあのその・・・・・・」


「ええい、早くかけろと言っている!」


「は、はい分かりました!」


「しっかり水切りをしろ、尻もこっちに向けるな汚らわしい」

 

 従者の尻を足で蹴ったところで男は我慢できず「待て」とその指導役に言った。


「なんだ養子野郎」


「女子の尻を蹴るとは何事だ」


「何を言っている。此奴は従者ぞ」


「従者であっても同じ人間であろう」


 朝の機嫌が悪い指導役は、たとえ戦のないこの平和な世であっても提げていた刀に手をかけた。


 辺りの従者と指導役は一斉に二人から離れた。予想以上に多くの目に触れたらしい、触らぬ神に祟りなしといった具合で他人事と決め込んでいる。随分と浅い者ばかりだと男は思った。


「お前とは一戦交えてみたかったのだ」


「待て、私はお前と張り合うつもりはない」


「問答無用」


 多くの人が悲鳴をあげ、二人の戦闘から逃げ惑う。慌てて屋敷の偉いものに通達しに走るものまで出だした。


「おい!何事だ!」


 真っ先に姿を現したのはまたしてもあの姫だった。刀を交えている二人の間に男の顔があり失望した色を見せる。


「ひ、姫様!」


 指導役は我に帰ったかのように手にしていた刀をすぐさま鞘に収めた。


「何事かと聞いている」


「は、私が従者に躾しておりましたところ、この養子風情が文句を言ってきたのでございます」


 指導役はそのまま小さくなり、男の方を指差す。指された男のほうはただ黙っているだけである。


「して、お主はどんな文句を言ったのだ」


 男は答えた。


「躾の仕方が間違っていることを言っただけだ。たとえ従者であっても女子の尻を蹴るなど指導役以下、人間以下の行為だと」


 姫はしばらく黙ったままであった。ようやく開いた口からは男の予期せぬ言葉が飛び込んできた。


「お主、お前が騒ぎの発端なのだな。この騒ぎでどれだけのことに遅れが出ているのか分からぬのか。確かに従者を粗暴に扱っていたこの者にも非はあるかもしれぬ。だが屋敷全体の段取りが遅れさせるのはさらに非のある行為だ。それが分からぬお主ではあるまい」


 男の中には昨夜の苛立ち以上に更なる怒りが立ち上っていた。その上でもう貴族とはこれ以上相入ることもないのだと悟った。


「もしお前がこの従者に生まれていたらどうする。偉そうな男に尻を蹴られて、それでもお前は耐えることができるというのか」


「指導役といえど、屋敷の中では位が上だ。それを偉そうな男呼ばわりとは、今の言葉は聞き捨てならんな」


 あたりの雰囲気は暗鬱とし始めた。多くの貴族が見物に集まっていたが二人の会話に入り込めるような者は誰もいなかった。


「たとえ従者であったとしても人としての尊厳は守られるべきだ。貴族も従者も同じ人間だというのに。なぜこうも待遇が違うのだ」


「それが従者という仕事だからだ」


「お前には分からないだろうな。生まれた時から自由にものを与えられ不自由なく暮らしてきたお前には」


「黙れ、お前こそ貴族の暮らしを分かっているのか。分かってたまるか。それにどうだ、この従者が男であったらお前は助けたのか? 助けなかったんじゃないか?」


「男女は関係ない」


「いや大いにある。その後の待遇が違うからな。この従者を助けてお前はあとで見返りをもらおうと思っていたに違いない。そうであろう」


 従者は泣き出した。周りのものは黙って俯いている。それを尻目に男は昨夜の出来事を思い出していた。


「そうか、お前は男をそういうものだと思っているのか。納得した。昨夜は私が去った後、次男と楽しい夜を過ごしていたのだろう。どんなことをしていたのか想像に難くない」

 

 あたりがざわめき始める。


「どういうことだ?」


「えっ姫様が次男様と?」


 自らの秘密を周囲に晒された姫は怒り震えた。顔を真っ赤に腫らし泣き叫ぶ。


「お前・・・・・・お前だけはもう二度と許さぬ!」


 姫は会話についていけずに戸惑う先程の指導役の鞘から刀を抜き出し、男めがけて斬りつけた。しかし、男はそれを軽やかにかわす。


「そうやって怒っているとお前の父親にそっくりだな」


「死ね! 死んでしまえ!」


 姫の発狂に周囲は圧倒されていたが、流石に刀を振り回すのは危険で腕のたつものが総出で姫を取り押さえた。姫はなお、もがき続け「この者を殺せ、殺してくれ・・・・・・」と呟く。


 この騒動があってから、屋敷内の平穏な空気は徐々に冷えていくことになった。


 冷え切った空気の中で木の上に止まっていたカラスがカアカア鳴いた。



 次男が男に会ったのはその一週間後のことである。

 

 季節はすっかり冬に移りはじめ、厚着をしなければとても耐え切れる寒さではなくなっていた。しかし男の着る木綿の着物はその寒さには耐えられそうもなかった。身体は震え、最後に会った時よりも痩せている。それを次男は何も言わず、前に座り込んだ。


「やってくれたな、同士」


「申し訳ない。あなたまで巻き込んでしまって」


「私はまだいい。しかし霞殿は衝撃を受けたことだろう」


 次男は酒ではない普通の水を飲んでいた。男はそれを目で追うだけである。


「同士は一人の女子を助けようとしていた。しかしその行為は結果として別の女子を傷つけることとなった」


「確かに私は悪かった。しかしそれではどうすれば良かったのだ。従者といえど目の前で人間以下の扱いを受けている。それを目の前にして何もできないのは」


 乾き切っていたはずの男の額から突然水が流れた。いや、かけられていた。次男はその男めがけて先ほど飲んでいた水をかけたのだ。頭を冷やせということらしい。


 水で濡れた顔を手で拭い、男は俯いた。この一週間、男はあの騒動のことをずっと考えていた。それはここにいる相手も同じことである。やがて噤んでいた口が開かれた。


「私には貴族の考え方が理解できぬ」


「それを貴族に言うのもどうかと思うが」


「そなたしかいないのだ。私はもうそなたにしかこれを聞くことができぬ」


 次男は怒るにも怒れず、突き放そうにもできないこの男をただ、見つめることしかできない。彼の中には小さい頃から貴族としての教え。作法全てを教え込まれ、同時に自らの持つ、この男と多くが一致する価値観を兼ね備えている。その彼がどうすればこの男に理解してもらえるのか分からず困っている様子だった。


 黙っているだけでは埒があかないと悟った彼はやがて絞りだすように話した。


「考えとは世の中の流れで変わる。今は平和だ。では平和を維持するにはどうすればいいだろう。このやり方が正しいのではないか。そうだそうに違いない。ほとんどの人が納得し頷いて、それが常識となる」


 頭の中に流れ出たことをそのまま言葉に変えたものを男はただ黙って聞いていた。


「従者は屋敷で働くものだ。それで金がもらえる。従者もそれに納得して働き金をもらう。多少嫌味を言われ、暴力を振るわれたとしても金を稼ぐために働く、そうでなければ生きていけぬのだから」


「・・・・・・」


「貴族、平民共にほとんどの人が納得している。だからこの世は平和で成り立っているのである。これを同士はどう思う」


 次男は男に布を差し出した。先程の水をこれで拭けということなのだろう。


「人はなぜ平等になれないのか。自らの権力で人を見下し、こき使っているようにしか見えないのだが」


「それが懸念点いうことなら私も同意見だ」


 次男は立ち上がった。目を丸くした男は、次男が立ち上がるのと同時に見上げる。


「だがお前の考えは心の内に秘めておくものだ。いざという時のために、常に見せていいものではない」


 男は再び目線を下に下げた。自分がなぜこの場にいるのかを思い出したからだ。


「幸い、お前の身柄は私が責任を持つことで禁錮という形で落ち着いてはいるが、その話を他の者にしてみれば即刻打ち首であったな」


「私を殺すのか」


「まさか、なんとしても生かすよ」


 次男は手を振ってその場を離れた。


「同士は私の唯一の理解者だからな」




 男が禁錮刑に処された中、屋敷内ではそれより大きな噂が飛び交っていた。それはかの姫君が次男と一夜を過ごしていたことが公になったことによるものだった。これは従者を中心に屋敷中に知られることになる。皮肉にも救いの手を差しのべたものたちに自らの居心地を悪くさせられていたのである。

 

 当然この噂が貴族たちの耳にも入るところとなり、偉いものは次々と招集をかけられる始末となった。


「霞様の件は事実なのでしょうか」


「事実で違いない。本人があのように取り乱されていたのだからな」


「事実となれば次男坊には罪がかかりますな。もちろん姫様にも」


「ああ、なんということでしょう」


 権力者争いは明らかに激化の一途を辿っていた。彼らが密約していたことで世継ぎを担ぎ上げ、次の代の当主の座を狙っていることが疑われた。これを契機に全ての人間関係は洗いざらい、目の届かない範囲まで浄化され、いわゆる「裏切り者探し」が始まったのである。


 当然今回のことで次男と姫君においては今後お互いが会うことを禁止とされた。


「だったらなぜ次男本人の権力は下がらないのだ! なぜこの一件全てをあの者に任せておるのだ!」


 貴族の一人が苛立ちながら尋ねた。次男の人気ぶりを気に入らないものの一人である。それを別の貴族が、まるで自分には危害が起こらないと信じ切るほどの危機感のなさで答えた。


「もしあれの身分を下げたらどうする。いざという時に戦えるものがいなくなるだろう」


「く、やはり強きものは正義ではないか!」

 

 愚か者は拳で畳を殴った。




 あれから月日は流れた。


 姫は姿を現さず、男も次男も屋敷内ではめったに顔を出さなくなった。かつては男が修行をしていた場所にも既に従者たちのたまり場と変貌している。


 冷たくなっていた空気は穏やかに変わることなく、より冷えたように感じられる。


 かつて心に余裕のあった指導役も些細なことで怒りをあらわにし、従者を痛めつけた。今まで我慢していた従者たちも彼らの横暴な態度に痺れを切らし始めていた。


 男のもとに知らせが入ったのはその数日後のことであった。跡継ぎ争いの騒ぎに乗じて東のとある国が攻めてくるらしい。ここは危険だから逃げろという通達であった。男は禁を解かれ、立ち上がった。身分は既に剥奪されているため、戦うことはできない。右手を開いて閉じた。己の長きにわたる修行を思い出していた。思い出すと何か得体のしれない感情が沸き起こったが、男はそれを必死にこらえた。


 男は姫と次男のことが気がかりであった。


 姫は今どんな気持ちなのだろう。次男は何を

思って戦っているのだろう。すべての根源が自分にある男に対して恨んでいるのではないだろうか。そんなことを考えると虚無感が男に襲い掛かる。途端に孤独を感じてしまう。


 次男は男に笑顔を見せた。最後に会った時にも同士と呼んでくれたことを男は何よりも嬉しく思っていた。次男に会えて本当によかったと思っていた。それほど男にとって彼はかけがえのない存在なのである。


 そして次に男は姫のことを思った。人目を忍んで男のいる別所に訪れ、貴族たちと仲良くしてほしいと訴えていた。それを邪険にしていた当時の自分を男は大いに後悔した。なぜあの時私は姫に冷や麦を馳走して帰らせたのだろうか。彼女は、どんなに冷たく接する貴族たち

の中でも常に男の心配をしてくれていたのだった。その思いを男は足蹴にしてしまった。


(これではあの貴族と同じではないか)


 男は立ち上がった。もう済んでしまったことを振り返っても事態は良くならない。久しぶりに外に出る。そこは男の知っているような平穏な場所ではもうなかった。


 これが時代の変わり目なのだろうか。かつて次男は言っていた。元号が変わるとき、これは世の中が大きく変わるときだ。この境目ではいつも何かとてつもない出来事が起こっている、と。


 これがその境目となるのだろうか。そう思うと男の痩せた身はより一層痩せ切ってしまいそうになった。


「・・・・・・こっちです」


 あたりが慌ただしい中、声がする方を振り向いた。その顔には見覚えがあった。


「お前は、あの時の」

 

 声をかけてきたのは、男がかつて助けようとしていた従者の女である。なぜかカラスが彼女の肩に留まっていた。それを振り払いながら彼女の無事を確認する。ようやく呼吸が整ったところで彼女は澱みなく、礼を述べた。


「あの時、何とお礼を言ったらいいか分からず、ずっと悩んでおりました。けれどこうしてその恩返しができたらと思い、その・・・・・・」


「かたじけないのはこちらの方だ」


 男は頭を下げた。女は動揺し、驚いている。


「して、どっちなのか」


「あっ、はい! こっちです!」


 女はいざという時のかくれ通路に男を案内した。従者でも限られたものしか知らない脱出経路のようだ。なぜこのようなものがあるのか疑問に思ったが、彼女の腕のあざを見て納得がいった。


 男はその通路を通り、無事に屋敷から脱出した。しかし、屋敷から出たとしても敵や追手は彼らを見逃すはずはなく、執拗に追いかけてくるに違いない。



「ど、どうしよう・・・・・・」


 女は辺りの様子を伺いながら呟いた。

 男は横を見れば雑木林が広がっていることを確認すると、女に木や障害物に隠れて敵をやり過ごす作戦を告げた。女は真っ青になったがこの際ここにいる方が危険であることを理解したのか意を決して飛び出した。


 季節は既に冬だというのに、馬の足音が近づくにつれ汗が噴き出る。しかし生死が関わるこの状況でそのことは気にしてられなかった。


「あれは・・・・・・」


 雑木林が生い茂っているためか、先に出ている輩を特定するのは難しかったが、貴族の乗り物らしきものが男の目には捉えられた。


 同時に貴族の車がなぜ屋敷の近くにあるのかも疑問に思った。もうすでに逃げているだと思っていたからだ。こんなところで何をしているのか。鋭く尖った風が雑木林を斬り分けた。そこでようやく男は貴族たちの車がなぜ止まっているのかに気づいたのだった。


 姫は目の前の出来事をまだ信じられずにいた。東の国の従者が車馬の足を止めたのだ。車は破壊され、従者たちと戦わねばならない状況となっていた。


 しかし、事態は徐々に劣勢になっていた。弱り切った使いの者は倒れ、人数は少なくなっていく。このままでは姫の身柄拘束されてしまい、戦う前に勝敗が決することになる。


(どうすれば・・・・・・)


 姫は敗北を恐れていた。しかし、時間が経つにつれ退路は断たれ、負けに近づく。 既に使いがほとんどいなくなっていた。


「お前が姫さんか。ちょっと来てもらおうか」


 腕を掴まれ担ぎ上げられる。姫はその時を覚悟した。

その時、担ぎ上げた腕とは反対の腕をその従者は誰かに掴まれていた。


「待て」


 従者はすばやくその手を振りほどき、相手と対峙する。


「なんだ落武者野郎」


「女子を担ぎ上げるとは何事だ」


「何を言っている。こやつはこの屋敷の姫ぞ」


「姫であっても同じ女子であろう」


 すばやく身をこなした動きで、男は腕に大きな蹴りをかました。従者は咄嗟に腕を引き、姫は放り出される。


「・・・・・・お前とは一戦交えてみたい」


「そうか、でも断る」


 男は姫と女を引き連れて駆け出した。戦えるものを一切持っていない彼には先ほどの従者と戦う理由がなかったのだ。


「逃げるな、それでも男か!」


 従者の男の怒声は慌ただしい空気の中に飲まれていった。




 再び屋敷に戻った三人は互いに気まずい空気を作り出していた。姫は男に何も言えず、俯いているだけである。かつて殺したいほど憎んでいた相手に命を救われたのだ。彼女の心の中は複雑なもので覆いつくされていた。


「あ、あの・・・・・・」


 第一声は従者の女だった。二人がなんだと言わんばかりに同時に彼女の方を振り向いたので、女は慌てた。


「ど、どうすればいいでしょうか。敵が囲んでいるのでここで戦うしかもう道は・・・・・・」


 男は屋敷の中に上がり込み、使えそうな武器がないか調べだした。残念ながら使える武器はほとんどが持ち去られており、木刀ぐらいしかない。


「それで戦うつもりか」


 遠くで声がした。姫が後ろに立っている。


「これを使え。まだ汚れていない刀がある」


 先ほど戦いに敗れた使いが所持していたと思われる刀を渡され、男はそれを受け取った。


 姫は男の顔を見ずに会話を進める。


「次男は前線にいる、はずだ。話すことがあるならそこへ向かえばいい」


 男は無心になっていた。彼女が無事であること、次男が前線で戦っていること、それを聞いて男の中には新たな希望が生まれていた。


「すまなかった」


そして姫に頭を下げた。姫は無言でそれを眺めていたが、状況を考えて早急に回答を出した。


「今は何とも答えられない。お主を許すか許さないかも分からない。けれどこれだけは言える。私たちにも非はあった。そしてお主には命を救ってもらった。このことに関しては私も謝り、礼を言わせてもらう」


 頭を下げていたせいで、姫がどんな表情をしているのかはわからない。しかし男にとってはその言葉をもらうだけで充分であった。


 刀をすばやく構え、敵陣めがけて走り出す。その動きで敵側だけでなく味方をも圧倒した。


 目指すは戦いの前線。次男の元へ。



 あれから長い時間が経った。姫と従者の女がどうなったのかは分からない。無事あるのか、万が一のことがあったのかは戻らねばわからない。


 戻ってみせねば、始まらぬ。

 

 男は次々に襲い掛かる敵を次々となぎ倒していった。刀にはまだ傷一つついていない。主に威嚇して叩き倒しているだけだからだ。血がついてしまうとすぐに使えなくなってしまうため、こうして節約せねばいざという時に使えなくなるのである。


 ようやく前線にたどり着いた。既に周りには多くの負傷者が出ており、この中に次男もいるのではないかと一瞬冷やりとした。けれど、幸いにも彼は目立って一番前に立っていた。次男は男の姿を認めるとやはりあの時見せた笑顔を向けるのだった。


「同士よ、よく来た!」




 あの後、屋敷は何とか食い止めることができたが、その後の修繕事業、人員確保に難を強いられる結果となった。それまでの貴族と従者の関係はより悪化しており、貴族の中でも死傷者が出ていたため、屋敷を元の形に戻すことはどう考えても不可能だったのである。


「やはり、多くの人が賛同したやり方でも、こんなに脆いものだったのだな」


 次男は修繕された大屋敷を眺めながら言った。既に戦いから五年が経っており、それまでに彼は向こうの実家の方とこちらを行ったりきたりしていた。


「皆が皆、それを正しいことだと思い込んでいる。しか

しそれでも間違いはある。様々な観点からそれが最善であるという方法を見つけ出していかねば、我々はやっていけないのかもしれない」


 男は黙ってそれを聞いていた。この荒れ果てた屋敷は五年たってなお修繕されていない。それが自らの犯した結果だと考えるのがとても怖かったのだ。


 この戦でどれほどの人間が犠牲になったことだろう。貴族は数名で済むところが、従者になると何百人もの数に上る。悔やんでも悔やみきれない。


「それでも私たちは前に進まなくてはならない。そうであろう」


 次男は言った。男はその言葉を、自らにも言い聞かせているのではないかと感じていた。


「すべての責任は私にある」


 姫が陰から姿を現した。隣にはかつて男が助けた従者の女がついている。姫の付き人にまで位を上げた女は、相変わらずよそよそしく頭を下げるだけであった。しかし、かつては泣いてばかりだった姫が最近ではよく笑うようになった。それは従者の女がずっとそばにいたためである。貴族という立場で同年代の友がいなかった姫に彼女は積極的に話しかけてくれていた。それが彼女を元気づけたのかもしれない。


「そうだ、だからこそ私たちはここで新たな時代を作らねばならない」


 姫は胸を張った。それに対して次男が大きな期待をしていることはこの場にいる誰もが分かっていた。時代の境目は過ぎ去った頃合いだろう。男は力強く頷き、次男を見る。


 一羽のカラスが次男の肩に止まった。そして男を見る。しばらくの沈黙の後、カラスは口を開けた。


「なるほどね」


 驚きと共に三人が目を丸くしていると。カラスは夢ではないことへのトドメの一言を発した。


「今この瞬間に因果が変わった。ここが大きな分岐点になる。みんなはどうする」


 カラスが言葉を話しだした瞬間彼らは幻でも見ているのかといった具合に混乱していた。次男だけ「カラスは喋れるのか?」と屈託ない好奇心を見せる。

 

「お前は何者だ?カラスなのか?」


 カラスは大きな翼を掲げながら高らかに宣言した。


「僕らはノルニル。未来を上書きしにきた」


「未来を、上書き?」


「そう、上書き。未来はどの道を辿ってもあまり良い選択じゃなかったんだ。だから根っこから変えてやろうと思ってね」


 姫が「ちょっと待て」と話を遮る。


「お主、今未来と言ったな。お前は未来からやってきたのか」


 カラスは表情を変えずに頷く。


「もちろん」


「既にカラスが話せる時点でおかしいのだから、このカラスが未来からやってきたということも事実なのではないか」


 次男はよく分からないこの状況をひそかに楽しんでいる素振りを見せた。男と姫にはその余裕さがなくカラスに対して質問攻めしはじめる。


「我々はどうなっている。この先どんなことが待ち受けている」


「それがわからない」


「どういうことだ?未来から来たのではないのか」


「僕がいた時代では君たちはこの時間には既に死んでいた。だから僕はもう元の世界には戻ることができない。つまり君たちと同じになった」


「嘘をつくな。お前がここにいることで我らの生死を揺るがした覚えがない」


「そう思ってもらえるなら逆に好都合だ。説明の必要も省けるのでな」


「そ、そういえば」


 従者の女が突然声を出した。姫はすっかり忘れていたと言わんばかりに彼女の方を振り返る。


「どうした」


「このカラスが教えてくれたんです。かくし通路の場所・・・・・・」


 カラスはしばらく沈黙した後、明らかにつまらないという表情を見せ、口をぽかんと開けた。まるでバカにしているかのような顔だった。


「それを言っちゃあおしまいよ」

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