第十九話 紙切れ
子供の好奇心はそのまま生きる活力となる。
だが志半ばでその好奇心を諦めざるを得なくなることはあるだろう。経済的な事情であったり技量不足であったり、不慮の事故や時代の波に流されたり、多くの試練が子供心に折りをつけろと言わんばかりに襲いかかってくる。
しかしそれを「何かと理由をつけて諦めた小心者」と評価するのは少々酷ではないだろうか。
己の道は道中数多く枝分かれができており、どこで曲がろうとそれは自由なのだから。曲がったほうが良い景色を拝めそうだと思えばいくらでも曲がればいい。それも一つの選択であり、間違ったものではない。そんな気もするのだ。
大きな分岐点に立たされた時、どれを選ぶかは本人次第。そこにどれほどの動力がかかっているのか。人生の中で最も奥深い要素の一つではないだろうか。
藁半紙に鉛筆を走らせ、大きく伸びをした男は退屈しのぎに過去へと旅に出た。これも論文を完成させねばならないという面倒ごとからの逃避行とするか、ネタ探しゆえの必要なことかは第三者には判断のしようがなかった。もちろんそのどちらも含まれている可能性もある。
結果として彼は旅立った。それを有意義なものにするか、ただの暇つぶしで終わらせるか。どちらになるかは本人次第、大きな分岐点に立たされている。
* * *
家の手伝いで買い出しに来ていた少年は立ち往生していた。市場は大変混雑しており、少年の小さな体躯では突き飛ばされてしまいそうなほど売り場は慌ただしくしていた。突っ込むにしてもどうせ突き飛ばされて怪我をするだけだ。そんな少年の隣に、ある男が並んだ。
「混んでるなぁ」
見知らぬ男と世間話をする気もなかった少年は最初こそ無言でその声かけを受け流していた。しかし数分ではこれらの混雑が解消されないのを判断するや、彼の声かけに応じることにした。
「早くしないと夕暮れになっちまう」
「何が欲しいんだ少年」
「長芋と塩を少し」
「わかった、ちょいと待ってな」
そう言うと混雑している塊に「わっしょい」という掛け声と共に突っ込んでいった。少年が目を丸くしているうちに男は列に割って入っていき、買い物を済ませていった。
「あんた!順番は守ってもらわないと!」
店主は当然カンカンに怒っている。男は涼しい顔をしながら長芋と塩袋を掴み、小銭を投げた。
「僕の用事は済んだから、次の人どうぞ?」
「おい!待てお前!」
男は素早く姿勢を屈め、人の群れをかき分けていった。そして少年の元へと戻っていった。
「お待たせ、これでいいの?」
「ありがとう。お礼をしたいけど今それを買うお金しか持たされてないんだ」
先程投げた小銭と同じ額のものを男に差し出す。それを男は「お礼か、そうだなぁ」と唸った。やはりただの慈善活動ではなかったらしい。少年は身構えたが、男は「そうだ」と懐から紙切れを差し出した。
「これをちょっと預かっててほしいんだ。ただの紙切れなんだけど」
「これは?」
差し出された「紙切れ」を眺める。複雑な模様が印字されており、右には知らない男が描かれていた。お金のようだが実際に見たことがない。
「いいけど、いつ取りにくるの?」
「昭和が終わる頃くらい」
「え?」
男は大声で笑った。通行人は迷惑そうに歩き去っていく。少年もこれ以上関わるのはやめた方が身のためだと、素直にその紙切れを受け取った。
「預かってるだけでいいんだよね」
「もちろん。でも返す時はちゃんと君自身の手で返してほしいね」
「どういうこと?」
「それまで君も生きてて欲しいってことさ」
そう言って男の方からその場を離れていった。陽が沈み、男の影が伸びていくのを見て自分も早く戻らねばと少年も元の生活に戻っていった。
少年にとってはなんてことはない日常の一部にすぎなかった。後に兄弟にこれは何かと尋ねられるまでは少年もその「紙切れ」を預かったことをすっかり忘れていた。
* * *
食卓には少年の持って帰ってきた長芋が蒸した状態で並べられていた。たちまちのうちに腹の中に収まり、束の間の休息に例の「紙切れ」が話題に上った。兄弟は目を丸くしてそれを眺めている。親に内緒で話すのはそれが面倒ごとを引き起こすことを知っていたからだ。
「異国の金ではないか」
「でもこれは漢字ではないか。日本銀行券と書かれておりますし」
「こんな金見たことないぞ。兌換銀行券なら分かるが、一萬とはいくらだ」
「十の千倍?」
「なら偽モンだ。捨ててこい」
「でも預かってくれと言われた。男として約束は守らんといけん」
「何がお前をそうさせるのだ。これは金として使うことはできん、ただの落書き紙だ。贋札ならそれこそ牢獄行きじゃ。下手すりゃ死罪。お前分かってるのか」
「しかし兄ちゃん」
兄弟は目を合わせた。そばかすだらけの顔に彼らの目は輝いていた。
「これは面白いではないか」
「確かに、面白い。珍しいものを見た」
そう言って彼らはニヤリと笑った。父や母に内緒で秘密を共有する少年心をくすぐられるやり取りだった。
* * *
最初は活気づいていた国も次第に元気を無くしていた。自国が劣勢であることは庶民の目にも明らかだったからだ。それでも盛んに吉報を届けるラジオはそんな彼らを励ますために必至だった。
少年は青年になっていた。母は腰が曲がり、父は老け、毎晩語らった兄は徴兵に駆り出された。今では一家の大黒柱として背負う立場となっていた。
酒豪だった父は昔こそ横暴な性格であったがそれも酒が無くなってからはおとなしくなった。母は口数が減った。義姉とは仲が良かったが、兄が徴兵に行ってからはあまり会う機会が無くなった。
彼は孤独だった。しかし彼は寂しくはなかった。人並み以上に彼の芯の根は強かったのだ。仲間が次々と戦場へ行くのを見送るのはとても辛かったが、それを耐えられるだけの心は持ち合わせていた。今が苦しくともなんとかなる、そんな強さはこの数年で鍛え上げられていた。
しかしそんな彼を嘲笑うかのように数々の苦難が襲いかかってくる。毎晩降りかかる空襲警報の音と火の粉。逃げ遅れた母の死。父の気狂いに兄の戦死通達が重なり大黒柱は折れかかっていた。
「もうだめかもしれない」
そんな負の感情が本人の胸の内で広がっていた最中、燃え尽きた家の瓦礫の中から奇跡的にあの一枚の紙切れが見つかった。秘密の共有だとかつて兄と語らい楽しんでいた頃を思い出す。そしてあの謎の男との約束も思い出していた。
昭和はまだ終わっていない。約束はまだ果たされていない。それに気づいたのである。
* * *
青年は大人になり結婚した。二人の子を設け、戦後の荒れた国の中をがむしゃらに生き抜いた。
時々思い出したかのようにあの「紙切れ」を取り出し、紙幣に描かれた福沢諭吉を眺めていた。彼が「学問のすゝめ」を書いた著名人であることは既に知っていた。確かに紙幣に描かれていても異存はない。ただその写真があまりにも精巧で目を疑っていた。今活躍している著名人でも潰れかけた白黒の新聞の写真でしか拝むことはできないのだから。その気味の悪いくらい複雑な絵に少年時代はすっかり魅了されていた。この紙幣を持っているただ一人の人間かもしれない、それだけに誰かにこの秘密を共有することもできず、もどかしい気持ちにさせられる。そしてこのことは妻にすら打ち明けられなかった。
そして時が経ち、物価も変わっていく中でこの「10000」の意味も分かってくるようになってくると、彼は恐ろしくなっていくのであった。当時は贋札だと馬鹿にしていたのが次第に現実味を帯び始めたからだ。もしかすればこれは本当の紙幣なのかもしれない、未来の紙幣なのではないかと思うようになった。
「だとすればいつのものだ?」
あの男とはあれから一度も出会えていない。あの年だろうから五体満足であればまず間違いなく徴兵に行ったはずである。彼の兄のように戦死した可能性も大いにあるが、不思議と生きているのではないかと勘が訴えかけていた。
もし再び会えたら・・・・・・聞きたいことが山のようにある。
これを一体どこで手に入れたのか。
なぜ自分に渡したのか。
なぜ昭和が終わる頃まで預かってほしかったのか。
お前は一体何者なのか。
彼は孤独にも密かに未来に期待していた。
* * *
その後、新紙幣が発表された。ついにこの時が来たと心を踊らせた彼だったがその紙幣に描かれていたのは福沢諭吉ではなく聖徳太子であった。
つまり来たる「未来」はまだ先だということである。
* * *
そして壮年だった彼は老いぼれとなった。
激動の時代を生き抜いた成果か、日本の国内総生産が世界で二位となった。しかしそれに反比例するかのように彼の身体はガタがきていた。身を粉にして働いた弊害である。父も母も身体が丈夫な人間ではなかったから元から無理できる身体でもなかったのだ。
幸い家族は円満であった。妻の働きのおかげで二人の子供は立派に成長し、彼が倒れた時にはそれを支えた。
そして彼が倒れたことに呼応するかのように昭和の時代も突然終わったのである。
* * *
病室で彼は寝たきりであった。
年号は平成になり数ヶ月が経っていた。しかしあの男は彼の前に現れない。それでも彼はその「紙切れ」をまだ肌身離さずに持っていた。執念が彼をそうさせたのである。
彼は夢の中で走馬灯を見ていた。思い返せば生きる原動力はこの紙切れの存在があったからではないか。空襲で全てを失ったあの時、瓦礫からこの「紙切れ」を見つけられてなければ全てを諦めていた。
彼の道、大きな分岐点を変えたのはあの男である。
医者からもう長くはないことは知らされていた。しかし自らの人生には満足していた。自分を支える家庭を再び持てた。そしてこの「紙切れ」を自分の手で次の時代まで持って来れた。だからもう未練はない。
深い眠りにつくたびに迎えはいつになるのかと考えながら余生を過ごしていた。
「ごめんお待たせ。だいぶ待ったでしょ」
そう言ってあの男が現れるまでは。
* * *
「あら、あんたは・・・・・・」
記憶の奥底を探り、目の前に現れたその男の顔と照らし合わせる。彼の目に生気が戻った瞬間だった。
「あらら、すっかりおじいちゃんだ。そりゃそっか。もう50年近く経ってるもんな。にしても老けたねえ」
そう言って男は大声で笑った。病室だから静かにしろと看護婦に叱られる。しかしこの笑い声は当時のあの男完全に同じ笑い方であった。つまり本物だと。
「・・・・・・預かっていた『紙切れ』だ」
最後の力を振り絞って彼は隣に置いてあったそれを指差した。男は「おお、本当にあの時のだ」とそれを受け取る。
「確かに渡したぞ」
目を閉じる彼に男は「お疲れ様」と言った。
深い眠りについた彼の顔は安らかだった。
* * *
論文の完成を祝うため、男は焼肉屋を訪れた。出迎える店員に「三人で」と言う。
座敷を通され、最初に奥に座った男が食べ放題を注文する。向かい側に青年と少女が座った。
「お前が馳走するなんて珍しいな」
飲み物の注文を終え、青年は男の顔色を窺う。やましいことは何もないという風に彼は涼しい顔で答えた。
「昔貸してたお金が戻ってきたんだ」
「高利貸でもしてたのか」
「いや協力してもらってた。論文作成に」
焼かれた肉を口に運び、三人は束の間のボーナスタイムを楽しんだ。一時間後、それらの肉はすっかり彼らの胃袋に収められた。
「そろそろ出るか」
青年と少女は先に退店をする。しかし数分経っても男が出てこないのを見て、青年は痺れを切らした。
「奢ってもらう身だが、我慢ならん」
そして店内に戻ると男が会計の前で「ちょうどよかった」と青年を呼ぶ。
「一万円貸してくれ」
「返してもらったんじゃねえのかよ」
すっかり奢ってもらう気でいた青年は取り乱す。男の財布をぶんどり、中にあった一万円札を見つけて「あるじゃねえか一万円」とそれを取り出す。
しかしその一万円札を奪い返し、自らのポケットに捩じ込んだ。
「やーこれはなんか勿体なくてさ」
「はあ?」
「すまない、貸してくれ。利子付けで返すから」
「意味が分からん!」
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