第七話 動物と話せる世界
慣れとは恐ろしいものである。
僕らが子供の頃に経験してきたことはその新鮮さから時間がゆっくり流れていたように思う。情報量の多さに打ちのめされ、それらを消化する時間に追われる。そして決められた時間通りに行動させられる学校生活も相まって、僕らの時間は均等に流れていた。
しかし大人になってからはこの枠組みから外されて、自立的に行動することが求められる。時間も学校など外部から管理されることはなくなり無制限に使うことができる。「新たな体験」はみるみる減っていき、当たり前で埋め尽くされていく。
僕は教師になってそれを実感した。最初の頃は一時間とかけていた作業も慣れてくればその半分の時間で終わらせることができた。そしてこの余った時間は何もしないに徹するわけにもいかず、別の何かをしなければならないという焦燥感に駆られる。そうして徐々に狭まっていく時間によって僕らの生活はみるみる加速し続けるのである。
当たり前、というのはそれが僕らにとって異質じゃなくなったということである。異質ではないと体で順応するには、それを繰り返して経験させる必要がある。それがおかしいと気づいて別のレールに乗り移ろうとしても「今までだってそうしてきただろう」という考え方が邪魔をしてくる。たとえそれが間違っていようといまいと、当たり前が覆らない限りそれらは続くのである。
弥尋は定刻に家を出たはずだった。学校に行くとはそういうことだと言わんばかりに、行動だけは立派にこなせていると思っていた。
しかし教室に着くのは早くとも二時限が終わった頃である。クラスメイトは最初こそ気にしていたけれど、それが続くと当たり前のように気に留めなくなった。そういうものなのだろう、と。
同様に弥尋の席の後ろに座る久我拓実は木原に呼び出されるまで、彼女のことなど気にも留めていなかった。しかし彼が弥尋の名前を聞いて初めて前の席が朝必ず空いているのが異質だと気付いたようだった。
「朝に弱いのかもしれない」
彼らはそう結論づけただろう。しかし朝早くに家を出ているという事実を知っている僕はそれが間違っていると分かるのである。
どこかで道草を食っている。それ以外ありえないのだ。
ある昼のこと、弥尋はやはり遅れて登校してきた。しかしその日は珍しく大きな黒いカラスを肩に乗せていた。クラスメイトもまさか教室にカラスを連れ込んでくるとは思いもせず、彼女の奇行に注目していた。
「私は遠慮したんですが」
カラスはまるで他人事のようにその異様な空気を受け流している。弥尋はオーバーなリアクションをとるということもなく、自らの席についた。
物理の先生である大西はクラスを代表してその違和感を指摘した。弥尋は目を丸くしていた。
「なぜ教室にカラスを連れてきた」
クラスがシンと静まり返る中、彼女は一呼吸置いてから口を開いた。
「はなそうとしたんですけど、はなしてくれなくて」
するとクラスの雰囲気が次第にふんわりと柔らかくなっていった。
「もう先生、カラスも教室に入りたくなることくらいありますよ」
「すっごい大きなカラス!どうしてこんなに大きくなったの?」
カラスは満更でもなさそうな様子で答えた。
「真面目にやってきたからじゃないですかね」
クラスの雰囲気に飲み込まれた教師は観念したのか、早く席につけと一蹴して授業を再開した。弥尋は目を瞬かせ、カラスを鞄の中に入れた。その様子を後ろの席の久我はぼんやりと眺めていた。
彼の頭の中は「なんでカラスをカバンに入れた?」ということではなく「このカラス、やけにおとなしいな」ということだけであった。
その日の放課後、僕は弥尋を呼び出した。なぜカラスを持ってきたのか、そもそもお前とカラスはどう関係あるのかということだった。毎日登校中に道草を食って遅刻をすることにも言及した。
弥尋は僕の様子に臆することなく答えた。
「・・・・・・そういうものだから」
「は?」
「この子はとても礼儀正しいから。いつも話相手になってもらってるの」
「カラスと話をするのはいいが、学校にはちゃんと時間通りに来てほしい」
「どうして」
「そういうルールだからだ」
「それを守らなくても誰も気にしてないよ」
「僕が困る。一応君の保護者だから」
「・・・・・・なんで困ってるの?」
弥尋は頑なに僕の言うことを聞かなくなった。彼女が精神的に元に戻りつつあり、管理者含め彼女に催眠能力を使う機会が減ってきた頃のことだ。遅刻を正すためだけに能力を使いたくない。なら彼女に直接頼むしかない。
「私の行動、変に思ってるってこと?」
「そうだな。カラスじゃなくてもクラスメイトと話をすればいいし・・・・・・そもそもカラスと話してるっていうのもよく分からない」
「私のことでしょうか」
カラスが弥尋のカバンの中から姿を現した。驚くべきことはカラスがカバンの中にいたことよりもカラスが喋ったことのほうが大きかった。
「カラスが喋ってる・・・・・・?」
異様な雰囲気は他にもあった。僕だけが驚いてるだけであったからだ。隣に座る先生は、さもそれが僕が生徒指導しているだけといった風に落ち着き払っていたからだ。つまりこの光景に驚いてるのは僕一人だけだった。
「なにこれ腹話術?」
「正真正銘私の声ですが、なぜあなたはこんなにも驚いているのでしょうか」
カラスは僕の机の上に乗り。折りたたんでいた羽を開いた。カバンの中は窮屈だったらしい。
『β-316の洗脳だ』
頭の中で声がした。管理者は僕の中から弥尋やその周りの環境の様子を窺っている。長らく何もメッセージをよこさないから、休んでいるのかとすら思っていた。
『動物と話をすることができる、とかそんな感じの能力を世間一体にかけたのだろう』
「なんのために」
「そのほうが楽しいから」
弥尋は僕らの話に入り込んできた。どうやら僕らの中の話が筒抜けになっているようだ。なんてことだ、つまり僕らの思惑も全部彼女に知られてしまっているんじゃないか。管理者も予想外だったらしく、それから何も返事が来ない。
「だとしたらなんていうか、その・・・・・・」
絶望していたのを他所に、僕はつい本音をポロッとこぼしていた。
「しょうもなくないか?」
「・・・・・・」
動物と喋りたいから能力を使う?なんだそれ。世の誰もをコントロールできるような力を持ってるのに、私利私欲に使える能力によってできあがったのが「動物と喋ることができる世界」って。
「イツキは動物と喋れたら楽しいと思わない?」
「そりゃあ、僕も昔は猫を飼っていたし。会話できたらいいなと考えなかったこともないけど」
「じゃあ良かったね。今なら話せるよ」
「いやいや、能力の使い方!」
「・・・・・・何をそんなに焦っておられるのかは分かりませんが」
カラスは弥尋の肩に飛び乗った。弥尋は微動だにせずそれを眺めている。
「あなたも私たちも、同様にこの世界に取り残されてしまっているのかもしれません」
「というと?」
「この娘が何をしたのかは私たちもおおよそ認識しているということです」
『それはそうだろう』
先程まで沈黙していた管理者が僕の頭の中から話しかけてきた。喋る相手が特殊すぎるこの異様な生徒指導の場はいよいよ僕の手に負えないところまで来てしまっている。
『能力を使えるのは「人間限定」だからな。その他の動物に使おうとしても何にもできない。そのままだ』
「つ、つまり「僕ら側」が動物の言葉を聞けるようになって、話せるようになったっていうことか?」
「『そういうこと』」
頭の中とカラスの声がシンクロした。
『それだけじゃない、「動物と話せることが当たり前のこと」だと周囲に洗脳させた』
「楽しむためだけに、そんな膨大な能力を使ったっていうのか?」
弥尋は一呼吸してからかぶりを振った。
「話してみたかったから。動物と。「私の思い通りにできない」動物と。対等になれる話し相手が欲しかったから。でも」
そう言って弥尋は僕の顔色を伺うそぶりをした。体制を崩したカラスは羽を広げて今度は彼女の頭の上に乗った。
「対等になれるのはイツキもそうなのかもしれないね」
着信音が鳴り響いた。その音は弥尋の持っている携帯からだったらしく、弥尋は周囲の目を憚ることなく取り出す。もちろん職員室にいる先生は誰一人として注意しない。
「もしもし・・・・・・うん、分かった。すぐ行くね」
見たこともない表情で喋る弥尋は数回相槌を打って電源を切った。僕の方を見て「そろそろ行ってもいい?」と聞いてくる。
「トモダチ。待たせてるから」
電話している時にはあったその表情はすっと消えていた。
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