カリカチュア

とまそぼろ

カリカチュア

「ハイ。夜を色づかせるものは、凡そ唸り続ける胎生の星々です。星が産む胎児は当然産声としてふたつみつ年が過ぎるまで、火で焼いたヤカンのように哭き続けるので、夜にはわずらいが絶えないのです。ヒにオオガイと書いて〝煩い〟と書くのにはそういう成り立ちがあります。座らない頭で哭き続ける胎児の、いかに醜いことか。それを徒然と飲み込むか狂躁と吐瀉するかで人の行く末は決まりますが、ぼくはそれに些か納得がいっておりません。ええ。仮にそう吐瀉すれば、磨かれた勉強机の綻びが私の硬く骨ばった指先を抉るのです。覚えのないほどに尖った鉛筆が、赤い手相をひとつ増やすのです。そうすると、せっかく白く綺麗に磨かれた、姉様のお古の勉強机に、拭いたくもない汚れが数滴跳ねて、鉄臭いそれは、姉様を殺した、錆びた鋭利な鉄棒を脳漿の水面へと浮かばせてしまって、つらいのです。こぼれて軽くなった姉様が、姉様の股ぐらから赤黒い額を出すわたくしと姉様の子供が、内側で繋がったままの水死体として蝿の舞う椅子の下に流れ着く様子がありありと浮かんで、気がおかしくなりそうなのです。私の割れてしまった親指の爪から、ベランダに投げ棄てた幼児が夜を越した時のような、生命とはほど遠い体温を感じて、酸い味が嘔気を誘って仕方がないのです。だから私は、いつも駆け足でやってきて退路を断つ煩わしい夜を、狂躁ではなく徒然として解釈せざるを得ない。これが、とても苦しいのです。聴覚に作用する金を切るような夜空を騙し騙し飲み込むのは、もう無理なのです。先生、温かい珈琲をいただけませんか。息のある人肌よりも、少し温かいもの。薬指が痒くて仕方ありません。喉の閊えが煩わしい。姉様はいつも私の膝元にいますよ、見えますでしょうか。先生は姉様のゆたかな舌をお褒めになってくれた記憶があります。姉様は今もわたくしの鼓膜の傍で羽音を立てていますが、聞こえますでしょうか」


 ギィギィと木製の古めかしい椅子で舟を漕ぎながら、戸崎とざきは鼻歌まじりに唾を飛ばす。その唾の先には当然話し相手がおり、それは秋暮れに相応しい洋服の上に白衣を着た養護教諭、白石しらいしであった。


「ええ、聞こえていますよ。なにぶん、心配が尽きないようですね。長子の矜恃というものでしょうか。私も下に妹が二人おりますから、少しばかりは心象が理解できると思われます」

「だから、ぼくは夜が嫌いなのです。星々から産み落とされた新生児の産声が、肉声が、嬌声が、気色が悪くて仕方ない。研がれた包丁が、胃酸と共に腹から飛び出しているようです。赤いはらわたがとめどなく溢れるものだから、先生、白衣が汚れないようにわたくしから五歩下がってください。決して私を忘れないでください。どうせ産声に、肉声に、嬌声に掻き消される私の断末魔ですが、それがあなたの古傷になって、それが膿を、熱を出してくれたら、きっと姉様も悦びます。ほら、笑っていますよ。肩から二本、股ぐらからも三本、確かに手が伸びています。アア、夢中になって喋ってしまいました。ありがとうございます、ありがとうございます。先生と話していると気が紛れる。炎の渦の中で、朝露を口に含んでいる気分です。これでまた、たくさん喋れる。叔父の死化粧みたい。死に体に充てがわれた梯子を降りて、今もこうしてあなたと喋っていられるのです。今日も遅くまで、ありがとうございました。ありがとうございました。明日のぼくが、あなたのことを確かに憶えていますように。明日のあなたが、変わらずぼくと会話をしてくれますように。姉様、姉様。姉様はどこですか? 戸の軋みも立てずに帰ってしまうなんて、薄情なこと。あの子の世話をしないといけないから、先生、私帰りますね。明日もまた来ます。少し厚着してこようかな、最近は冷えてきますから」

「この辺りは物騒です。夜道を歩く時はできるだけ人通りの多いところを歩いてくださいね。それでは、お気をつけて。さようなら」

「はい、さようなら」


 古ぼけた窓は隙間風で軋んでおり、その隙間風が室温を犯していた。秋風である。至って心地の良いそれを戸崎が知覚することは珍しくない。当然白石もそれを楽しみ、手作りのマグに注いだ珈琲の肴にしており、まだ湯気の立つ焦茶色をひと口啜るごとに、肌寒さと高揚感に心房の端の辺りを擽られ、どこか安堵に近しい錘が錨のように心象の海底に落とされるのであった。


~~~~~~


「戸崎さん、お疲れ様です」

「先生。お疲れ様です。今日もやはり天体のお勉強をしました。地球というものは、二つの軸で回っているそうですね」

「ええ。自転と公転ですね」

「星は生き物だと仰る人もいます。ぼくもそれを信じている。星は各々の意思で活動に努め、頃合いを見て華々しく生を終えるのです。仮に私が散弾銃を硬口蓋に放ったとして、私の顔に棲む何十億もの細菌は、赤色に染まって散り散りになるでしょう。それと星の終わりの、何が違うのでしょうか。それと、星々という生命が回る権利を持っているのなら、ぼくたちという意思ある有機体は、なぜ回ることを棄てたのでしょうか。みな一心に回ることだけに努めていれば、薪穂まきほちゃんや誠那せなくんは死ななくて良かったのではありませんか? 血が流れることがなければ、わたくしたちを流れる鮮明たる赤を知覚することもできないでしょうから、一長一短かと思われますが……」


 夜も深まる頃、戸崎は毎度のこと、年季の入った椅子をギィと鳴らしながら、養護教諭である白石に一方的な言葉をぶつけている。的を射ないような、返答を求めないような口調で話を続けるものだから、白石は時折困り眉を作っている様子であった。蝿の羽音は昨日よりも増している。少し厚着をしていた戸崎の額は汗ばんでいて、それでも瞳孔の開いた目は、饒舌な鼻声は、休むことなく焚べられている。注がれた一杯の珈琲が唾と共に数滴飛び、木製の勉強机に染み込んだ。話す間に戸崎は、指先を忙しなく机に叩きつけている。血豆のような赤黒い斑点が皮下に幾つか浮かんでおり、それを痛がる様子をおくびにも出さない戸崎は、やはり瞳孔が開いていた。


「先生には、弟が一人いらっしゃいましたよね」

「はい。歳が少し離れているものですから、特別可愛く見えてしまう弟がいますよ。二人兄弟ということも背を押していますね」

「先生の弟には、肝臓は幾つありましたか?」

「ひとつですね。肝芽腫を患って開腹手術が行われましたが、決して肝臓が幾つもありはしませんでした」

「なら、私からできるお話があります。泥地に横腹を付けて、水溜りに枕してください。少し深い水溜りですから、水鏡のようになったそれを使って、斜視のように本能的な恐怖を煽る相好を作ります。するといずれ額のところから波紋が広がって、アメンボのような生物が産声を上げるはずです。猿よりも親しい印象で、けれども象ほどは懐かない。私は彼の名前を知りません。仮称があるわけでもないので、ここでは一貫して彼と呼ばせていただきます。彼はぼくたちのように、自立した意思をもった有機体です。細くて小さな節々に、確かな意味を感じるのです。でも、水鏡に映る焦点の合わないわたくしを見つめているうち、些か気分が悪くなって、青空の先に生きる恒星と目が合ったのです。すると、その拍子に彼はぼくの中に入ってしまいました。以来彼の姿を見ていないのですが、私には二つの確信があります。一つは、肝臓が幾つか増えたこと。二つは、彼を殺してしまったこと。彼はもう戻りません。もっと肉声で話しておけばよかった。今鼓膜の渕に響いているあの声は、姉様のものとよく似ています。今際に渡ってしまうと、音がひずんでしまうようですね。アア、せめてもう少し話したかった。せめてもう少し、清々しい最期を迎えさせてあげたかった。無知を知った有機体の死後は明るいものではありませんから、私は今日も小松菜を食べました。姉様、角膜が濁っていますよ。うるさい、うるさい。許してください。先生、温かい珈琲をいただけますか。思考の糸が思うように紡げないのです。散乱した記憶の糸が、元よりどこと結ばれていたかを思い出せないのです」


 白石は事務室へと向かい、歪な形のマグに珈琲を注いで教室へと戻った。するとそこに戸崎の姿はなく、やはり隙間風だけが木製の窓枠を揺らし、抵抗虚しく輪姦された空気が力なく漂っていることを感じていた。


~~~~~~


「こんばんは、先生」

「はい、こんばんは。今日は元気がありませんね」

「元気とは、何を以て定義するものなのでしょうか。水洟を垂らす幼児は、その全てが元気のないものとは言えません。幼児とはみな須らく稚く無知で蒙昧で愚かで綺麗で純朴であるのですから、私はそれがひどく尊く見えます。ぼくが持ち合わせていた無垢に生きる資格というものは、落陽の時に二つ手前の電柱から伸びる影が持ち去ってしまいましたから、伽藍堂なのです。その影は上半身が異様に長く、下卑た嘲笑で象られたものでした。若しくは、満足に生を受けられなかったわたくしと姉様の子が、怨恨を糧に粛々と力をつけていたのでしょうか。どこにいても足先に触れるものです。蹴ることはできませんでした。ただ割れて剥がれた爪の下の肉が、息のない冷たさを噛み締めています。愛し子よ、鬱屈の末に羊を食み、醜く膨れた愛し子よ。せめて世界ではなく、愛ある世界ではなく、ぼくを恨んでくれたまえ」


 戸崎は少しの間舟を漕ぐのを止め、焦点の合わない双眸でどこか一点を見つめているようだった。


「時に先生。先生と私の間に、血の繋がりはありますか?」

「恐らくありませんよ。私は田舎の限界集落の生まれですから、都会に生まれて都会で育った戸崎さんと親戚であることは、恐らく有り得ないでしょう。親戚もきょうだいもいませんから、きっと遠縁の親戚であることも、新しく親戚になることもありません」

「そうですか。いえ、鏡を見る度に、右上の端にある黒いカビがぼくの顔を侵食して、先生の顔に矯正するものですから、少しばかり気になってしまって。笑うと剥き出しになる歯の異様な白さが、御扉の奥にある人肌と同じ色使いをしていて、少し気が滅入ってしまって。口角は柔らかいほうですが、本当にわたくしを流れる血は赤色なのでしょうか? そう思っていつも頬の内側を抉るように噛むのですが、そこから滴る血の色を憶えていないのです。ただ、姉様のこめかみから流れ出たものと匂いも味もそっくりで、だから、私は姉様と同じ生き物でした。似た顔をしているから、先生も恐らく同じ生き物ですね。先生は血を流したことがありますか?」

「私はあまりないです。怪我をしにいくようなことが好きな質ではないので。ただ、養護教諭という職業の性質上、仕方なく目に入ったり触ったりすることはありますから、身近なものだと認識していますよ」


 湯気の立たなくなった、すっかり温い珈琲を啜る白石。コクンと喉仏を上下させて、喉越しのいいタールを胃の中へと放り込む。戸崎は相も変わらず開いた瞳孔を白石のほうへ向け、椅子をギィと軋ませていた。


「エエ、エエ。安心しました。先生も私と同じだ。姉様も、姉様の身篭ったぼくとの子も、彼も、みんなみんな同じだ。よかった。よかった。すっかり溶けた大脳が、頭蓋を揺蕩う音がします。そこいらに転がる骸の中にも、こんなに清かで華やかで騒がしい瞬間があったんですね。此処に珈琲を注いでください。先生との思い出で、唯一味覚と嗅覚に作用するものですから。いずれ腐り落ちた後の眼窩や、軟骨の取れた鼻や、閉じなくなった口からこぼれてしまうのだから、世に常はありませんね。変わりゆくことこそ、わたくしたちの艶麗えんれいなのでしょうね。アア、ありがとうございます、先生。楽しかったです。嬉しかったです。また会える日を楽しみにしていますが、きっと会えないでしょうから、せめて、せめて──」


 白石は意味もなく瞬きをした。カラン、という音がしたと共に目を開けば、そこに戸崎の姿はなかった。ただ、人を刺殺するに足る鋭利な先端を携えた鉄パイプと、それにまとわりつく赤黒い肉片、未熟児の頭蓋骨。たくさんのそれらがただ、木製の勉強机の上に乱雑に積まれていた。隙間風が陳腐な音を立てて窓枠を揺らしている。やはり空気は陰険だったものの、白石は鼻から吸うそれを、どこか清々しいものだと感じていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

カリカチュア とまそぼろ @Tomasovoro

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ