第2話
雨の匂いが薄くなったころ、ビールはとっくに空になっていた。空き缶と彼女の名残を公園のゴミ箱に投げ捨て、さてどうしたものかと空を仰ぐ。真っ暗で星ひとつ見えない空だった。星が好きなわけではない。が、何となく、星を見たい気分だったのだ。何光年も前の光を浴びて過去に浸れば、あるいはこの空も晴れやかに見えるのではないかという淡い期待もあった。腕時計を見るとまだ日付は超えていない。しかしどうにも家に帰る気分にはならずに、夜の公園から出ることにした。当てはない。むしろ当てを見つけるために、僕は夜道を歩いた。静けさで耳がうるさくて、奥で音がなっているような気がした。そうしてようやく、視界に一つの店が入ってきた。僕は少し前で止まって、時間を見て、仕方なくその店へと入った。営業時間を気にしたわけではない。僕があまり好きではない、というより好ましくない、というより苦手なマスターを思い浮かべたことで、少し足が止まったのだ。
ドアを開け、ベルの音と靴の音が重なって、薄暗い照明が僕を出迎えた。店内には名前も分からない洋楽が流れている。酒のせいか、客の声も大きい。雰囲気とは反対に賑やかな中、さして声が大きいわけではないのに一際目立つ男。それが僕の苦手なマスターだった。
「いらっしゃ~い……お、八神じゃん」
ただグラスを磨いているだけの彼の周りには女性客が沢山いて、何かを彼に話しているようだった。いつものことだ。この男、文樹の周りには沢山の女性がいて、いるだけ。文樹にとっては風景と同じなのである。にもかかわらず誰も離れようとしない。まるで一種の洗脳を見ているみたいで、僕は彼が苦手だった。桜の木は動かないしすぐに散るが、この男は動くし僕と同じだけの年月を生きている。ガンより怖い病気だと本気で思った。
「久しぶり、相変わらず辛気臭い顔してんな」
女たちを気に留めずに僕の方にあっさりとやってきた彼は、首を傾げて考えるふりをした。彼は昔から分かってないふりをするのが上手い男だった。いつかの彼女が『女は馬鹿な男が好きなんだよ』と言っていた。僕は意味が分からなくて首を傾げたが、多分、正解は今の文樹なのだろう。賢く馬鹿な男になるには僕には賢さが足りなかった。分かってないふりをする賢さは生まれもつものだから仕方ないと思う。
彼は拭きあげたばかりの十オンスのグラスを、しまうことなくそのままカウンターに置いた。棚をあけ、もう一つ同じグラスを並べる。目一杯入った氷をステアしながら、彼は目も向けずに僕に話しかけた。
「どうするよ? モヒート?」
「あ、や、別のがいい」
「珍し。いつもはモヒートしか飲まないくせに」
「何が良いかな、うーんと」
「えなに、決まってないのに言ったの?」
「いや決まってるだろ。モヒートは飲まないんだよ」
「あ、そう……じゃあやめた」
文樹は背の低いロックグラスを出すと、それに氷を移すことなく乱雑にシンクへと捨てた。シンクの上でカラカラと氷がなり転がっていく。無様な氷の行く末を、僕は何だか目を逸らせなくてじいっと見つめた。耳が氷の転がる音を拾う。次いで、グラスを置く音が聞こえた。
「オイこれ」
ストレートのウイスキーだった。僕はあまりウイスキーが得意でなかったから、目の前に置かれた酒瓶のラベルを見てもピンとは来なかった。抗議の声に彼は「シーバスリーガル。マジか、流石に知ってると思ったんだけど」と見当違いな返事をした。
「まずい酒はウチにはおいてねぇの。口に合わない美味い酒で我慢しな」
「……」
文樹の手元にあるグラスがカツンとぶつかり、そのまま彼は酒を一口飲んだ。片手で上から掴んで指輪を見せつけるように飲む男は随分と様になっている。味に浸るように目を細める姿なんてまるで映画から出てきたみたいに、嘘みたいに男前だった。悔しくて僕もグラスを底から持ち上げ、恐る恐る口にした。アルコール臭の強い、琥珀色の苦い液体が舌に広がった。思わず顔に皺を寄せると、またグラスを置く音が聞こえた。カラリと音がなるほど氷の入った、冷たい水だった。
「顔に出すぎ。そんなまずかった?」
「人間が飲むもんじゃない」
「俺は人間じゃないってか」
「ああ人間じゃないね」
「ひでー言い草。モテるから?」
「モテるから。と、ウイスキーが飲めるから」
「そりゃ困った、どっちも俺だ」
「どっちかでいいから僕に分けろ」
「ウイスキー飲めるようになったら八神、酒飲んでまずいって言えないじゃん。いいの?」
確信をつくような台詞に、グラスを傾けた。痴話喧嘩が聞こえる時と返答に困る時ほど酒が良く進むものだ。まずい酒が脳を支配する。思考を追いやるのには丁度良い道具だった。
遠巻きに文樹を見る女の熱い視線は、あまりいいつまみにはならなかった。甘いつまみは好きではない。どちらかと言うともっとスパイスのきいたものが好みだが、そんなもの僕の視線以外に置いてなかった。チョコレートを一つつまみ、口に含む。文樹も僕の皿から一つチョコレートを奪った。彼の好物なはずだ。羨ましいようで、しかし彼ほど幸福を幸福と感じれない人間もいないので、腹立たしさだけが残る。グラスがやけに重たく感じた。
「……好きな人にさ、あと一度しか会えないってわかったらどうする?」
「そんな急に。ドラゴンがペットになったらどうする? みたいな質問されても」
「ドラゴンほど希少価値はないと思うけど」
「あるね。俺にとっちゃユニコーンよりレア。姿分かんねーし」
ウイスキーをあおりながら、男は長く垂れた前髪を横へと撫でつけた。まるで何処かの恋愛小説の主人公のようである。これで初恋もまだだと言うのだから、世の中は何処かが可笑しい。恋人がいなかったわけではない。むしろ四季より早く移り変わるものだから名前が覚えられなくて困ったものだ。曰く、恋が分からないのだと言う。自信家に見えて存外、彼は自己評価の低い人間なのだ。
以前、恋人の事を好きにはならないのかと聞いた時。彼は「俺の事好きになるってさ、多分なんも見てないか、イカレてるかどっちかだと思うんだよね」と目を糸にして言った。この呪いと付き合っていく限り、彼は一生まともな恋愛は出来ないだろう。選び放題だと言うのに、彼は選択肢外から答えを探そうとする。人は何処かで無茶をしてでも曲げられないことがあるのだと思う。それがきっと恋なのだ。だからつまり、まともな選択肢を選んでいるうちは恋じゃないのだと思う。なぜなら、今の僕がそうだからだ。
「そりゃ大変だな、文樹も」
「まあでも、幸せらしいよ俺。皆に幸せだなお前はって言われるしさ」
「そういうものか?」
「そういうモン。幸せって、幸せだなって人から言われるモンだろ」
「……じゃあ僕は今、幸せじゃないのかな。幸せなのに」
死んでもいいと思えるほどの美しい人に出会える人間は、この世に一体いくらいるだろうか。離婚率や生涯独身率を見る限りそれは限りなく少ないだろう。グラスから零れ落ちる結露を見て、彼女の涙を思い出した。雨粒より小さく結露より暖かく、何だかいい香りすらした。
グラスを見つめていると、文樹は気付いたのか「あ、ごめん渡すの忘れてた」とおしぼりを渡してきた。これで拭えということだろう。僕はありがとうと言い、手でグラスを拭き、おしぼりで手を拭いた。こうしたら彼女が僕の中から消える気がしたからだ。
「なあ、侑桜さんって覚えてる? 中学の同級生の」
「ええ? んー、いたようないないような」
「三吉侑桜だよ、三年の時同じクラスの」
「あ~~学級委員の?」
「違う違う、侑桜さんは図書委員。僕が隣の席の時、多分話してたよお前。というか僕より話してた」
僕の知らない彼女に触れたくて聞いたけど、文樹にこの質問は間違いだったかもしれない。学ランを着て学校に通っていた時から彼は女の子に囲まれていたのだ。きっと、侑桜さんも背景の一部だったのだろう。
「そうだっけ、うわぜんっぜん覚えてない。えてかなに、そんな時から惚れてたわけ?」
「は? 違うよ、最近仲良くなったんだ。帰り道にばったり会ってから」
「いやいや、好きってさ、何でもないことが思い出になることだろ」
なぜだか、その時強く心臓が締め付けられたような気がした。好きから避けているくせに、文樹にはその輪郭がはっきりと見えているのだろう。中学の僕の小さな感情の輪郭が縁どられていく。境界線がぼやけていただけで、随分とはっきり色を付けていたらしい。
どうやら僕は、何年も前から彼女を焦がれていたようで。そこには気付かないうちに散ってしまった小さな感情や、大きく育ち見せつけるように散った感情があって。さらにはこれから大きく魅せるだろう蕾と共に、気付けば僕は立っていた。多分それは桜のようなそうでないような、この世に存在しないのではないかと思うくらいの美しい、不気味な花だ。僕の嫌いな花だった。多分、文樹の焦がれる花だった。侑桜さんには、きっと見飽きた花だった。
「お前ってさ、たまにマジで余計な事いうよな」
「余計なことなんてこの世に存在しねぇよ。あるのは都合の良いことか、悪いこと。今のお前の表情を見る限り、前者かな」
「前者に見えるならお前は大したもんだよ」
「俺は大した男だからな。お前と違って」
氷の音を立ててグラスを置くと、文樹はそれを黙って奪って、そうして新しく背の高いグラスを用意した。ライムとミントの香りが氷に閉じ込められる。ス、と前に出されたモヒートに堪らず笑って、ここがボーイズバーならお前にドリンクやったのになと言った。文樹は「バックはねぇけど飲みたいから俺も飲も」ともう一つ、またモヒートを作り始めた。美味い酒だった。多分、今までで一番美味いモヒートだったと思う。
文樹はそれからすぐに別の客に呼ばれたから、僕は一人でモヒートを飲んだ。ス、と透き通るミントの香りが喉から腹の中へ通る感覚がして、何だか心地よい気持ちになった。思考がすっきりしたのもあると思う。ひとまずは、目的地が決まったという訳だ。
話し声よりグラスの氷の音が目立つようになった頃。文樹と目を合わせ、僕は「お会計」と一言言った。文樹は「もう帰んの」と疑問詞のついてない声で言った。挨拶みたいなものだ。大して意味はないだろう。僕は黙って頷くと、文樹は口を少しだけム、と寄せて、そうしてまたいつもの顔に戻って女性客に手を振った。女性は甘い桃の香りを吸い込んだような顔をして、体重をカウンターに任せていた。僕だったら痛いほど刺さった視線だけれど、文樹にとっては小雨程度の視線だろう。ドアを開けると外はもうすっかり晴れていたので、文樹の気分にはなれなかった。
水陰 @miyamayumoto
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