あの頃に帰る道標

小石原淳

第1話

 あれはビートルズが全盛期を迎えていた頃だった。

 と書くと、私が当時、ビートルズの音楽に熱狂していたように思われるかもしれないが、そんなことはなかった。

 その頃の私は小学生高学年で、洋楽に限らず、楽曲はおしなべて好きだった。もちろんビートルズの曲も嫌いではないのだが、親父が大変な日本びいきだったのが障害になった。ラジオを持ち出し、布団にくるまってこっそり聞いていたのを見つかり、こめかみの辺りをひどくぶん殴られたことも一度や二度ではない。そんな親父のおかげで、私はビートルズなどの洋楽を聴くと痛みを思い出し、音楽そのものもあまり好きでなくなってしまった。

 それでも何故かビートルズのメロディとともに、あの不思議な体験は私の脳裏に刻まれている。六年生の秋口のことだ。

 記憶力が格別いい訳でもない私が時季を断言できるのは、同じ年の春に、崎谷晴美さきたにはるみが転校してきたためだ。彼女は私に、否、恐らくクラスの男子全員に強い印象を与えた。

 私の出身地は今でも週刊誌が数日遅れで入荷されるくらい、都会から離れているが、およそ四十年も前となると、文字通り“田舎”“地方”であり、絵に描いたような田園風景が広がっていた。一帯に高い建物は見当たらず、道も農道に毛が生えた程度の小径がほとんどで、自家用車が珍しかった。

 そんな土地に、彼女は似つかわしくない。都会から来た彼女は洗練されていて、他の女子がかすむくらい美人だった。同窓会では崎谷晴美のことが必ず話題に上るが、女子勢の声は「私らの立場なかった」に集約される。

 だが、崎谷晴美が他の女子から嫌われていた訳ではない。彼女は見た目のよさだけでなく、成績優秀でもあったが、それらを鼻に掛けたり、気取ったりはせず、むしろ控え目な振る舞いを見せた。今思い返しても、好感の持てる性格だ。少しばかり素気ない態度が見られるときもあったが、これは方言に戸惑ったのだろう。こちらが意味を教えると、その代わりのように彼女は街での様々なことを分かり易く教えてくれたものである。

 こんな風に思い出を綴っていくと、私と崎谷晴美が親しかったように聞こえるだろう。誤解である。現実には、私は彼女とまともに会話した経験すら乏しい。引っ込み思案だった私にとって、崎谷晴美は名前そのままに眩しすぎた。話ができただけで、有頂天になっていた気がする。それも、「黒板消しをはたくの、お願いね」と頼まれただけで。

 崎谷晴美に関する諸々をこうしてだらだらと語ったのには、理由がある。“事件”が起きたとき、私は偶然、彼女のあとをつける格好になっていたのだが、その際に見間違えたり、目を離したりすることは決してなかった。それだけ、崎谷晴美の存在を意識していたという訳である。

 先述の通り、季節は秋だった。田圃には稲の根元の部分が硬いささくれとなって雁首を揃えていたから、刈り入れもほぼ終わった頃だろう。脱穀機の稼働音があちらこちらで響き渡っていた印象が強い。

 学校帰り、いつものように私は右にカーブする緩やかな坂を駆け足気味に下り、平地に出た。そこからは一本道がしばらく続く。右には大きな農家、左にはお寺が建つため、両側を背の高い板塀に挟まれたその道には、一人の女児童の姿があった。赤いランドセルも、帽子も、学校指定の物だから他の子と同じであるにも関わらず、すぐに崎谷晴美と分かった。

 彼女までの距離は、十メートル強だったろう。早足になれば追い付けたが、話し掛ける勇気を持てない私は距離を保ったまま、ぶらぶらと歩き続けた。ただ、目では、彼女の後ろ姿をちらちらと見ていた。他に人影はないのだから堂々と見ればいいものを、急に振り返られたらと思うと、できなかったのである。幸い――と表現するのも変だが、右隣の農家から絶え間なく脱穀機の騒音がするため、私の気配はないも同然で、彼女に気付かれることはまずないと思った。私からすれば、たとえ十メートルの距離があってもこれは彼女と一緒に下校しているのに等しく、もうそれだけで何だか幸せな気分に浸れた。

 と、揺れるランドセルが程なくして見えなくなった。ちょうど角に差し掛かり、崎谷晴美が右に折れたのだ。横顔が一瞬だけ望めたが、こちらに気付いた様子は欠片もなく、ただただ前を見つめているようだった。

 私は急ぎたいのを我慢し、ペースを変えずに歩き続けて角まで到達した。

「……あ、れ?」

 恐らく、このときの私は無意識の内に、間の抜けた声を出していただろう。

 右折した先に、崎谷晴美の姿はなかったのだ。目の前には幅四、五メートルほどの一本道が約百メートルに渡って続いていたが、そこには誰もいなかった。文字通り、影も形もないというやつである。

 右手には変わらず高さ二メートル超の板塀が延々と並び、きれいに舗装された道路に日陰を作る。通い慣れた道だから、この板塀に人が出入りできるような戸口がどこにもないことは承知していた。

 視線を左に転じると田園風景が広がる。そちらにも彼女はいない。刈り取りがきれいに済んだあとだから、子供が隠れられるような茂みは一切ないのに。仮に隠れ場所があったとしても、彼女がそんなことをする理由が分からない。

 彼女までの距離、約十メートルというと歩いて十秒ほどだろう。私から見えなくなった十秒間で、彼女はいかにして姿を消したのか。

 狐につままれた心持ちで、一本道の交わる角に立ち尽くし、崎谷晴美の名を小さくつぶやいた。その声をかき消したいかのように、塀の向こうから脱穀の音が相変わらず響いていた。


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