最近見かけるようになった強面の巨漢が何者なのかわからない件

 初めてその人を見たとき心に浮かんだ「あの人何?」という言葉が含む感情は、何かと問われれば恐怖に一番近かった。


 その男性はいつも黒っぽいスーツを着ている。そしてラグビー選手並の巨体に、仁王像もかくやという強面を持ち合わせている。

 二歳の次男を乗せたベビーカーを押していた私は、マンションのエントランスで初めて彼と出くわした際、思わず固まってしまった。すれ違うとき、巨漢氏はペコッとお辞儀をし、私は慌てて頭を下げた。

 それからというもの、その強面の巨漢は度々マンションで見かけられるようになった。何をされたわけでもないけど、とにかく目立つ。

 私は夫と、同じ階に住む田中さんと、公園で会ったママ友たちと、同じ疑問を共有せずにはいられなかった。

「あの人、何者?」と。

 それとなく管理人(一見チャラ男だが真面目な人だ)に尋ねてみたところ、例の巨漢はここの住人ではないらしい。マンションの一室を事務所として使っている人がいて、彼はそこに雇われているのだ、とのこと。

「これ以上は個人情報なんでちょっと……」

 と管理人に苦笑いされてしまって、この話はそこで終わった。


「あの大きいヤクザみたいな人、1004号室に通ってくるのよ」

 ある日、十階に住むママ友が言った。「ほら、白杖の人住んでるじゃない。白髪の」

「ああ、あの人」

 と言ってはみたものの、謎は深まる一方だった。

「白杖の人」に心当たりはある。ここの十階に住んでいる、真っ白い長髪の、愛想のいいお兄さんのことだ。とはいえ、彼もまた完全に謎の人物だった。1004号室で何か商売をやっているらしく、しょっちゅうお客さんらしき人たちが出入りしているのだが、では何の仕事をしているのか? となるとまるで見当がつかない。まぁ管理人とも仲がよさそうだし、無害そうだからいいとして、問題は巨漢の方である。

 他人のことをあれこれ詮索するのはよろしくないが、やはり小さな子どもを持つ身としては気がかりだ。何せあの、二、三人畳んで海に捨てていそうな見た目の――


 などと思っていた頃、私はとんでもない光景を目にした。

 次男を健診に連れて行った帰り、マンションのエントランスで管理人となにやら話している巨漢氏を見かけた――問題はそこではなく、小学一年生のうちの長男が、友達二人と一緒になって巨漢氏をぐいぐい押していることである。

「ちょっと! 何やってんの!?」

 思わず大きな声が出た。

 えっ、どうしよう。どう詫びればいいの? その前に次男を退避させるべき? 頭の中で色んなことがぐるぐる回った。なぜか長男の入学式のことなど思い出した。まさか、これが走馬灯というやつなのだろうか……そのとき長男がこっちを向いて「母ちゃん!」と声をあげた。

 当然、巨漢氏もこちらを向く。どうする? 固まっているところに、長男が追い打ちをかけた。

「この兄ちゃん、押しても全然動かないよ!」

「は!? だから何やってんの!? すみません!!」

 エントランスに私の「すみません」が、甲高く木霊した。

 巨漢氏はホオジロザメのような顔でこちらを見ていた――が、「あっ、大丈夫ですよ」と言った声は、思いがけず穏やかだった。

「母ちゃん、これ、こういうゲームだから大丈夫だよ!」

「三対一でも全然動かせねぇ!」

「壁か!?」

 小学生男子どもは口々にそう言いながら、なおも巨漢氏の腰あたりを押し続ける。どうやら彼を動かすことができたら、子どもたちの勝利というゲームらしい――バカなの? 普通に失礼だ。絶対怒られるからやめろと念ずる私に、巨漢氏が言った。

「時々息子さんたちに構ってもらってるんですよ。ほんと、お気になさらないでください」

「……いえ、こちらこそ……お手数おかけいたします……」

 もはや呆然とするしかない私を後目に長男たちは巨漢氏を押し続け、巨漢氏はそれを全く無視して管理人となにやら話をした後、「はいここまで」と言いながら子どもたちの頭をポンポンポンとなでていった。

「くそー! いつか倒す!」

「はいはい、またね」

 そして巨漢氏は、のしのしとエレベーターの方に去っていった。

 その晩、私は夫と話をした。

「あのでっかいヤクザみたいな人、超いい人かもしれない」

 夫は眉をひそめて「ギャップ萌えか……」と呟いた。萌えるなよ。


 その後、謎の巨漢氏にはベビーカーが側溝にはまったところを助けてもらったり、小学生に混じった白杖のお兄さんに「全っ然動かん!」とか言われながら押されているところを見たりしたので、やっぱり見かけによらず優しい人であるらしいと思っている。ただ、何をしている人なのかは、やっぱり謎のままだ。

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