第3話

 * *


 青い空に、わたあめのような白い雲がふわふわと浮かんでいる。ぼんやりと空を見上げていると、小さな鳥が二羽、連れ立って飛んでいった。

 あれは夢だったのではないかと、今も思う。

 杏里が本物の天使で、もう一人の天使が杏里に剣を振り下ろしたあの出来事は。


「どうしたの、ぼーっとして?」

「杏里……」


 杏里はここに生きている。

 天使ではなく、人間として。


 *


 「神に仕える天使が人間に恋をするなど、許されることではありません。しかし神は仰せになった。『両思いになっちゃったらしょうがないよね』と」


 冷たそうな男の口から、軽い感じで神の言葉を聞いたオレは、すぐに言葉が出てこなかった。

 振り下ろされた剣は、杏里の背から羽根を切り落としたけれど、当の杏里はケロッとしている。


「痛く……ないの?」

「うん、ちょっと軽くなったくらい、かな」

「軽い……」


 血が吹き出すとか、痛みにのたうち回るとか、なんなら死んでしまうのでは、と心配したのは、全て杞憂だったらしい。それはそれで、良いことなのだけれど。

 切り落とされた羽根は光となって消えてしまい、跡形もない。


「えっと、つまり?」

「瑞稀くんが私を好きって言ってくれたから、私は人間になれたの」

「……もし、あの時告白してなかったら?」

「普通に……あの世行き?」

「天界と言いなさい」

「スミマセン……」


 つまり、告白しなければ強制送還だった、ということだろうか。


「はは、はははははは…………よ、よかったぁ……」


 膝から一気に力が抜けたオレを、杏里が隣で支えてくれた。結局二人して地面に座り込んでしまったけれど、お互い顔を見合わせてくすくすと笑う。

 杏里の目には、涙が滲んでいた。


「アンリ、あなたはもう人間です。好きに生きなさい。ただし、神への感謝を忘れてはなりませんよ」

「はい、ありがとうございました」

「人間よ、アンリをよろしく頼みます」

「は、はい!」


 この人は、冷たそうに見えて意外と優しい人だったらしい。人も天使も見た目だけで判断してはいけないようだ。

 オレたちにそれぞれ言葉を残して、上司天使は空中に溶け込むように消えていった。


 残されたオレたちは、しばらく何も言わなかったけれど、座り込んだ時からずっと手を繋いでいた。


「えっと……不束者ですが、よろしくお願いします?」

「それ、私が言おうと思ってたのに」

「おー、気が合うね」

「もう。……ふふ」


 ひとしきり二人で笑って、ふと目が合って、また沈黙。

 そんな沈黙は気まずいというより、気恥ずかしかったけれど。

 お互い引き寄せられるようにキスをして、また二人で笑う。


 こうして天使だった杏里は、人間になった。


 *


「映画始まっちゃうよ。早く行こ」

「本当にあれ観るの?」

「観るよ! やっぱり映画はホラーに限る!」

「限らないけどなぁ……まぁいっか」


 天使でも人間でも、杏里の中身は変わらない。

 困っている人がいればナチュラルに助けるし、誰にでも分け隔てなく優しい。ただ、天使らしからぬ一面だってもちろんあって。

 まさかホラー映画が好きだとは、思いもしなかった。


 実のところホラーはちょっと苦手だけど、杏里には知られないようにしないといけない。

 ホラーの恐怖よりも、あんなにゴキゲンな杏里を見られる嬉しさの方が断然勝っているから。


「瑞希くん、ゴキゲンだね? 瑞希くんもホラー映画好き?」

「ホラー映画っていうか……」

「ていうか?」

「…………いや、こんな所で恥ずかしいこと言おうとした。忘れて」


 浮かれ気分は恐ろしい。オレは熱くなった顔を片手で覆って隠したけれど、杏里は察してしまったらしく、嬉しそうに笑みを深めている。


「瑞希くんは、私のことがー?」

「…………好きです」

「よろしい! 私も瑞希くんが大好きです!」


 臆面もなくそう言った杏里の満面の笑顔は、人生かけて守りたいオレの宝物になった。

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ゴキゲンな天使 萌伏喜スイ @mofusuki_sui

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