ヘビとカエルの逆転劇〜キツ目の先輩女性と新人社員のボク〜

卯月 幾哉

序「実家に帰らせてください」

 下戸田げこだカエデ。二十五歳、男性。

 彼は以前、地元の中小企業でインターネットシステムの担当者として働いていた。が、勤め先が倒産のき目にったことをきっかけに、立身出世を夢見て上京することにした。

 そこで運良く、ちょうど下戸田のようなスキルの人材を求めていたミドリシステムズという会社に再就職できた。そこまでは良かった。

 しかし、それから四か月がち、彼の心は折れかけていた。


 その理由は、下戸田にとってのある天敵・・の存在にあった――。


    †


「……おい、下戸田げこだ


 デスク越しに彼女・・に声を掛けられ、下戸田はびくっとした。

 下戸田は彼女に話し掛けられるたびに、いつも心臓がね上がる思いをしていた。


「は、はい……」


 下戸田は恐る恐る返事をして、声のした方向にゆっくりと視線を向ける。


 ――目が合った。


 下戸田と彼女の間をはさむモニターの隙間すきまから、彼女の鋭い三白眼さんぱくがんが下戸田を射殺さんばかりににらみつけていた。

 ――美人がすごむと怖いんだよなぁ、ということを、下戸田はこの四か月ですっかり学んでしまっていた。


 この女性社員の名は蛇沼へびぬまミヅチ。二十四歳。下戸田のチームメイトで、先輩社員だ。

 蛇沼は下戸田より歳下だが、二十歳で専門学校を卒業した後に就職したため、下戸田より社会人歴は長い。この会社ではすでに、ベテランの風格をまとっていた。


「……回覧、お前だけチェックついてねぇぞ」

「あ! あぁ、すいません!」


 下戸田は慌ててパソコンを操作し、回覧としてチームで共有されているエクセルのファイルを開いた。

 確認期限は今日までだった。……危なかった。

 下戸田には、一つのことに集中すると他のことがおろそかになってしまう、という欠点があった。


「……ったく、しっかりしろよな」

「すいません」


 悪態あくたいく蛇沼に、下戸田はもう一度謝ると、モニターのかげに隠れるように身を縮こまらせた。


 下戸田は回覧にチェックを入れた後、席を立って御手洗に向かう。

 ひとり洗面台の前に立つと、ポケットから錠剤を取り出して、飲んだ。胃薬だ。


「――……もう限界だ」


 下戸田は深いめ息とともにそう独りごちた。


 今の件は、完全に下戸田の落ち度だ。蛇沼は期限前にリマインドをしてくれただけだ。


 しかし本件に限らず、蛇沼は何かにつけて下戸田に対する当たりがきつかった。気が弱い下戸田は、彼女に注意されるたびに胃が痛い思いをしてきた。


「せっかく拾ってもらってつかんだチャンスを、こんなことで棒に振るのは情けないけど……。これ以上は、ボクの胃が持たない」


 下戸田は再び溜め息をき、ある決意を固める。

 その日の午後、下戸田は社長に面会を申し込んだ。



「やあ、下戸田クン! どうだい、ウチの会社は? もう仕事にもすっかり慣れただろう。ガハハハハ!」


 この陽気な人物こそミドリシステムズの社長、鰐淵わにぶちアギトだ。

 ビッグマウスで、ときどき人を食ったようなところはあるが、下戸田は好人物だと思っていた。


 下戸田は開口一番、腰を直角に折って深々と頭を下げた。


「……たいへん心苦しいのですが、退職して地元に帰らせてください」

「な、なんだってー! ……何かあったのかい?」

「実は――」


 下戸田は蛇沼を一方的に悪く言わないように気をつけながらも、自分がこれまで感じてきたところをおおむね正直に話した。

 すると、鰐淵はウーンとうなった。


「なるほどなあ。……蛇沼クンにも、悪気はないと思うが」

「えぇ。これは、ボクの心の弱さの問題です」


 鰐淵はあごでると、次のように提案する。


「……そうだな。別のチームに異動してみるかい?」

「えっ、そんなことできるんですか?」


 下戸田は驚きながらも、その提案を前向きにとらえた。会社そのものに不満はないのだ。蛇沼から離れられれば、ここは天国に変わるかもしれない。

 鰐淵はコクリとうなずく。


「うん。……諸々もろもろ考慮しても、特に問題はないと思うよ。それに、ワタシの独断であれば誰も文句は言うまい。なに、キミには期待しているからね。別の可能性を探るための配置替えにも一定の合理性はある」

「あ、ありがとうございます!」


 期待していると言われ、下戸田は内心でび上がらんほどに喜んだ。




    †††




「――それで、こっちのチームに移ってきたんだ」

「……はい。お恥ずかしい話ですが」


 その異動から一か月がったある日のランチタイム。

 下戸田げこだは少しばつが悪い顔を見せながら、新チームの先輩社員である家守やもりトウカと話をしていた。


 家守は人のふところに入り込むのが上手く、下戸田はついつい彼女に何でも正直に打ち明けてしまっていた。


「……ミヅチちゃん、不器用だからな〜」


 家守の蛇沼へびぬまに対するその評価を聞き、下戸田は目を丸くした。


「そ、そうなんですか? てっきり、何でもできる優秀な方かと……」


 そう聞いて、家守の方も意外に思った。


(……あれ? ミヅチちゃんのこと、それほど悪く思ってるわけじゃないのかな)


 と。


「――それ、ミヅチちゃんに言っとくね。きっと、喜ぶと思うから」

「は、はぁ……別に構いませんが」


 そんなやりとりの後、家守は次の情報を明かす。


「あの子ねぇ。仕事はとってもできるんだけど、人付き合いが致命的に苦手なんだ。前にも、インターンの子を泣かせちゃって接触禁止令を出されたことがあるの」

「そんなことが……」


 話を聞いて、下戸田はそのインターン生とやらに深く同情した。あれは怖い。仕方ない。


「美人ですごい人だと思ってたので、意外です」


 下戸田がそう言うと、家守の瞳がきらりと光った……ような気がした。


「……へえ?」


    †


 下戸田と別れた後、家守はオフィスの自席で彼との会話を振り返っていた。


 ――蛇沼と、下戸田。

 二人のすれ違いっぷりがまるでお笑いのコントのようで、家守はつい吹き出しそうになってしまう。


 一か月前、下戸田の突然の異動が発表されたさい、蛇沼はショックを受けていた。

 蛇沼は、異動先のチームに所属する家守に、次のように言った。


『……アタシはこれでも、あいつに目を掛けていたつもりだったんだ。トウカ、あいつのこと、よろしく頼む』


 それなのに、当の下戸田から話を聞いたら、これである。蛇沼の気遣きづかいは完全に裏目に出ていたようだ。

 とはいえ、下戸田は蛇沼に対して、それほど悪感情を持っているというわけでもなさそうだ。


「どうしよっかな〜」


 家守はなんとなく、これから楽しいことが起こるような予感がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る