第1話
やばいやばいやばい。
電車を降りた亜都は弾かれたように冬の冷たい空気の中に駆け出した。
寝坊して出社が遅くなってしまった。
なんとか間に合いそうだ、と会社の近くで走るのをやめ、肩で息をして歩き出す。
背比べするように並ぶビルの中、一際高いそれが亜都の勤める香宝グループの本社だ。高層階の重役室は雨の日には雲に隠れる。まさに雲上人だ。
『カホウ化粧品』『ホームケア・カホウ』など、化粧品や家庭用品を作る大企業、香宝グループに就職できたのだ。しがない事務だが、ずっとここで仕事をしていく、と決めていた。
車寄せに黒塗りの艶やかな車が止まっていた。後部座席の窓は真っ黒で、鏡のように亜都が映る。
運転手の不在を確認してから乱れた髪を手櫛で整え、コートの襟も直す。
あ、口紅忘れてた。
リップを出してさっと塗り、唇をぎゅっと合わせてまたガラスで確認する。
うん、いい感じ。
ほっとして、亜都は歩き出す。
あの車はときどき止まっていて、出社前に鏡がわりに利用させてもらっている。
安心しきっていた亜都は、直後に車から人が降りたことに気が付かなかった。
彼が彼女の後ろ姿をしかめっつらで睨んでいたことにも。
遅刻を免れた亜都はいつものように仕事をこなしてリターンキーを押し、うーん、と伸びをした。
ちらりと見た時計は十二時を指している。
「お昼いこ!」
同僚女性に声をかけられ、亜都は顔を輝かせた。
「行く行く!」
亜都はマウスカーソルを右上のバツに移動させてクリックした。
「昨日、若くして癌になった人の闘病記をテレビで見たんだよね。早期発見て大事」
パソコンを覗き込んだ同僚が言う。画面には亜都が作っていた『健康診断のお知らせ』があった。
「私は借金残して死んだら家族が大変って思っちゃった」
「借金?」
「大学の奨学金。返済が終わってないの」
実際には奨学金だけではない。
父の経営する工場が台風で大破し、修理で実家は借金を抱えている。
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