第1話 希望の村(1/2)

 正午が近い。

 気持ち良く晴れた朝の天気は続かなかった。空は暗い雲に覆われ、いつでも雨が降り出しそうだ。山に囲まれたこの村では天気の急変はいつものことだ。

 窓から見える山の斜面に放牧されていた牛や羊たちの姿が見えない。どうやら荒天に備えて小屋にすでに戻されてしまったようだ。

 ここは希望の村。国境にほど近い山の中にある平和な村だ。


 少女は鼻歌混じりに昼食の準備をしている。名前はライラ。苗字はない。村に暮らす者で家名がある者は誰もいない。

 昼食といっても、パンとチーズとハムと果物を皿に並べるだけ。それを、おばば、礼拝堂の管理人のヴォルクス、ライラの三人で揃って食べることにしている。

 歩いて数分の礼拝堂は、おばば――ライラの曾祖母――とライラが管理をしてきたが、高齢のおばばの体の負担を軽くするために村で雇ったヴォルクスという名の青年ひとりにこの夏から任せることになった。


 ヴォルクスは物静かで礼儀正しい青年だ。すらりと長い手足に端正な顔立ちで、長い灰色の髪は後ろで結んでいる。光を浴びると顔のまわりで髪の毛がキラキラと輝き、身のこなしには上品さがある。

 ヴォルクスは都会の高貴な生まれなのでは、とライラは思っている。貴族か裕福な商家か。出身地や家族について聞くとはぐらかされたので、きっと言いたくないのだろう。だからそれ以上詮索はしない。

 彼のような好青年にはこんな土くさいど田舎の村は全くもって不似合いだが、多いとは言えない村のお給金で人が雇えたのはライラにとっても願ってもない幸運だった。

 ライラはこの新しい管理人が来てくれたおかげで、この秋にこの村を離れ、王立大学に行けることになったのだ。


 この国はダーライカンと呼ばれ、都はルタウセンにある。希望の村はルタウセンから南南東の方角へ遠く離れた標高の高い山々の間に位置している。ライラの目指す王立大学はルタウセンにある。

 ダーライカン国の施策では、16才以上の学ぶ意欲のある全ての国民は王立大学を志望することができる。これは、近年減少の一途を辿るこの国の魔力保有者を保護し、その能力と地位を向上させ、魔術研究を推進させるためだ。ただし入学には当然ながら選考試験がある。


 ライラの魔力はさほど多くない。おばばはライラよりも魔力があるらしいが、見た目では分からない。たいていの人は世間でなかなか目にすることがない魔力測定器でも使わない限り、自分の正確な魔力量を知ることは難しい。


 王立大学の一次選考では、一定の魔力量を有すると認められた者全員が魔術院で国と社会全体の公益となる魔術師となるため修練することになる。

 この「一定の魔力量」には明確な数値基準はなく、入学希望の魔力保持者の中から魔力量の多い順に合格となる。近年の魔力保有者の減少傾向のせいで合格ラインは下がっているというが、おばばの見立てではライラ程度が魔術院に行けるかどうかは運次第らしい。


 一次選考を通過しなかった者には二次選考があり、適性がある者はそれぞれ武術部門、技術部門で学ぶことが出来る。武術部門はその名の通り、武術について学ぶ。技術部門はいわゆる職業教育訓練で、ライラの本命はこの技術部門だ。おばばの話だと、余程の素行不良や不器用な者でない限りは技術部門には入れるはずだ。武術部門については、生まれてこのかた武術を何ひとつ鍛錬していないライラに適性があるはずもないし、希望もしていない。


 大人になったらこの村の役に立つ人になりたい、というのがライラの夢だ。ライラのおばばは何でも知っていて薬の知識もあり医者代わりもできる。村のみんなに頼りにされ尊敬されている。やさしくてしっかりしていて、大好きなひいお祖母ちゃんだ。そんなおばばのようにライラはなりたい。


 食事のテーブルでは、ルタウセンにいたことがあるというヴォルクスに都の話を聞かせてもらっている。口数は少ないけれど、ライラの他愛のない質問にヴォルクスは誠実に答えてくれる。馴染みのない都での生活の様子も興味深いが、ライラは彼と一緒の時間を過ごせることが毎日楽しみでしかたない。出会ってたったひと月しか経っていないというのに、将来都から戻ってきたらヴォルクスみたいな人とこの村でずっと一緒に暮らせたら……と想像するのもとても楽しい。


 ダイニングテーブルに食器を並べながらライラが口を開いた。


「おばば、来月になったらあたしは都に行くけど、ヴォルクスが私を好きになるのにはどのくらいの時間が必要だと思う?」

「人を好きになるのに時間は関係ないがのう…… やれやれ、お前さんはほんの少し前には道具屋のダニエルと結婚すると言っておったじゃろう」


 ライラは一瞬きょとんとしたものの不服そうに言い返す。


「それはまだずっと小さい子供だった頃の話でしょ」

「今もまだ子供じゃろうが」

「もう17才になったもん」

「ほう……おばばが爺さまと結婚したのも17才じゃ。あれは春の初めの晴れた日でのう……」


 おばばと亡くなった爺さまの結婚式の話は何度も聞いたことがある。17才の幸せな日のおばばの姿に未来の自分を重ねてみる。


 礼拝堂に集まる人たちの視線の先には、白いドレスを着たライラ。いつもは三つ編みの明るい栗色の髪の毛を解いて背中に下し、薄いベールに隠された少女の姿は神々しい輝きをまとっている。

 その隣には新郎、ヴォルクス。タキシード姿の彼は王子様のように凛々しい。二人は誓いの言葉を交わし、指輪を交換する。ヴォルクスがベールを上げ、見つめ合う二人。そして、誓いのキス……

 ライラは憧れの幸せな結婚式を想像してうっとりしてしまう。

 ステンドグラスから射す光と、村のみんなの祝福の拍手がライラとヴォルクスの二人を優しく包む。そして、鳴り響く礼拝堂の鐘――


 空ごと落ちてきたかのような凄まじい雷の轟きと、窓の外が光ったのが同時だった。あまりの衝撃でガタガタと激しく家が揺れた。

 想像の世界にいたライラは乱暴に現実に引き戻された。


「きゃっ……! おばば!」

「あいあい、大丈夫大丈夫……」


 ライラは椅子に座っていたおばばの膝に倒れるように飛びついた。頭から足の先まで振動でびりびりする。心臓がばくばくしてすっかり動揺するライラに対して、おばばは冷静だった。

 落ち着きを取り戻すまで、「よしよし」と言いながらおばばは静かに背中をなでてくれていた。ゴロゴロと雷鳴はしばらく響き続けていた。

 ふと気付くと外がわらわらと騒がしくなった。ドアを開けて表を覗いてみると、外は夏とは思えないほど冷たい風が吹いていた。雨はまだ降っていなかったが、雷の音は続いていた。何人か男たちが礼拝堂の方へ駆けていくのが見える。ライラは礼拝堂を見るなり息を呑んだ。鐘楼の屋根と鐘のあったはずのところが見る影もなく崩れ落ちていた。


 男たちが口々に叫ぶ。


「礼拝堂に雷が落ちたぞ!」

「ヴォルクスが中におったかもしれん」

「気を付けろ! 鐘楼がさらに崩れると危ないで!」

「ライラ! おばばに手当ての準備をしておいてもらってくれよ!」


 その声はライラの耳に届いたが、その意味が彼女にはうまく理解できなかった。

時間は12時に近かった。この時間、ヴォルクスはいつものように鐘を撞くために鐘楼の階段へ向かっていただろう。もう鐘楼の鐘の前まで上がっていたかもしれない。その場所が崩れ落ちてしまっている。

 ヴォルクスは真面目に仕事をする人だから…… きっと、無事なはずがない……

 ライラは呆然と立ち尽くし、恐ろしい現実の光景を眺めるしかなかった。



◇◇◇

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