第34話 ピグマリオン 3 武彦 2
その日もまた、僕は普段と同様に原稿に取り掛かっていた。だが、執筆は困難な局面に直面しており、中々進まないのだった。右腕は止まったままで、それを見る度苛立ちが募る。
「何故だ──言葉が何も思い浮かばない」
そう呟いた後、自然と溜め息が出てきた。また、それに加え何だか憂鬱な気分にすらなっていた。
気分を変える為、煙草を取り出し吸ってみる。甘い香りを味わうと、一瞬心が落ち着いた。けれど、殆どが白紙の原稿を見ると、また気分は憂鬱になるのだった。
不思議なことに、全く文章が思い浮かばない瞬間というのがたまにある。今はまさにそうで、時間と共に苛立ちは増していくのだった。
「今日は何をしても駄目かな。いや、諦める訳にはいかないか。きっと、この苛立ちが執筆の邪魔をしてるんだ。落ち着かなくては」
そう思い、一旦深呼吸をしてみる。そうして気分を落ち着かせようとしていた折、更に苛立ちを募らせる出来事が生じた。
不意に、扉の奥からノック音が二回鳴ったのである。その直後、美代子の声が聞こえてきた。
「武彦さん、話があるから部屋に入っていいかしら?」
僕は思わず舌打ちしてしまう。とはいえ、これは美代子が嫌いだからしたのではない。執筆中に邪魔が入ると、思わず苛立ちを覚えてしまうというだけのことだ。
それはさておき、一体何の話をするというのだろう。普段は夫婦間での会話が殆どなく、想像もつかない。ただ何にせよ、無視する訳にはいかなかった。
「どうぞ、入ってくれ」
僕がそう言うと、美代子は部屋の中へ入ってきた。そして、何だか厳しい表情をしてこちらを見つめる。
その表情を見た時、僕は出所の知れぬ緊張感を覚えた。何も悪いことをしていないはずなのに罪悪感を覚える時のような、そんな気分だ。
「一体、何の用なんだ?」
僕はそう尋ねたが、美代子は何も答えない。その代わり、氷のような目付きでこちらを見てくる。相変わらず、この女の目付きは見る者を萎縮させるものだ。
実は、僕はこの美代子という女を恐れている節があった。どこか得体の知れぬ所があり、時折傍に居ると強い緊張を覚えることもあるのだ。
美代子は黙したまま、僕のことを凝視し続ける。かと思うと、突如口を開きこう尋ねるのだった。
「最近、誰と良く話すの?」
そう聞かれ、背筋が凍るような思いになった。というのも、明美以外には話し相手等一人もいないのだ。つまり、美代子は明美との会話をどこかで耳にしていた訳である。
恐怖すら覚え、一瞬美代子から目を反らせた。しかし、そんなことをしたらより怪しまれそうだ。再び美代子に視線を合わせると、心を安静にしこう言った。
「友人だよ。古くからの友人がいて、最近は良く電話口で話すんだ。本当は直接会って話したいんだがな、なかなかそうはいかないんだよ。友人は今、仙台にいるらしくてな」
無論、これは真っ赤な嘘である。そもそも、友人等一人もできたことがないのだ。故に、嘘がバレはしないか不安になってくる。
美代子は黙したまま、何か勘繰るような表情を浮かべている。下手な嘘をついたものの、やはりバレてしまったのだろうか。
部屋の中には、気まずい沈黙が支配している。凍てつくような緊張が、僕を襲っていた。
いっそ、正直に全てを話した方が楽になれるのではなかろうか。僕がそんなことすら考えていると、やがて美代子はこう言った。
「そう。それならいいの」
と言っても、本当に信じてくれたかどうかは分からない。しかし、少なくとも今は大事を防げたようだ。それが分かると、ほっと胸を撫で下ろす。安心した僕は、やがてこう言った。
「それより、もう出て行って欲しいんだ。今は忙しくてな、人がいると作業に集中できないんだよ」
これ以上美代子と共にいると、緊張に押し潰されそうだ。故に、敢えて冷たくそう言いったのだ。けれど、美代子は何も聞かなかったかのようにこう言った。
「それと、もう一つ話したいことがあるのだけど」
僕は溜め息が出るのを抑え「何だよ?」と尋ねる。とはいえ、何を言いたいのかは大方予想がついていた。
「私、最近子供が欲しくて仕方ないの。前にも話したことだけどね」
予想は当たっていたようである。ここ最近、美代子は子供が欲しいという旨を伝えてくることが多い。その度に断っているのだが、美代子としては諦めがつかないようだ。
僕は苛立ちを覚えつつも、それを隠しこう言った。
「僕は仕事に集中したいんだ。けれど、子供がいるとそうはいかなくなるだろう。多くの時間を子供に割かねばならないのだからね。それは、君も大人なんだから分かるはずだ」
ただ、それは咄嗟に思いついた嘘である。実は、他の理由があって拒んでいるのだ。
それを知っているのか否か、美代子は直ぐ様こう返答した。
「そんなことは分かっているわ。でも、どうしても子供が欲しいの。貴方にどんな事情があろうとね」
その声は、強い言葉の割りには落ち着いている。けれど、瞳には強い意志が現れていた。これは、女の情念と呼ぶべきものなのだろうか。
「一体、どうしてそんなことを思うんだい?」
「そんなの幸せを掴む為に決まってるじゃない。あなたは知らないでしょうけど、ご近所さんは子供のいる家庭が多いのよ。そして、皆幸せそうだわ。少なくとも、私達よりはね」
最後の言葉が胸に突き刺さる。やはり、美代子は僕との生活に幸福を感じていないらしい。それが強い欲求不満となり、何度もこんなことばかり望むのか。つまり、僕に問題があるということである。
考えてみれば、出産を望むのは一人間として当然のことなのだ。それを頑なに拒否する僕の方が、生物として可笑しいようにも思える。
だが、それでも尚こう言った。
「駄目だ。美代子には悪いがな、どうしても駄目なんだ」
最早、それ以外には何も言えなかった。申し訳ないような気分にすらなり、美代子を見ることができなくなる。
それから後、重たい沈黙状態が続いたが、やがて美代子はこの部屋を去って行った。だが、扉を閉める前に一言こう告げるのだった。
「私、諦めてないから」
美代子はそれだけ言い残すと、扉を閉める。一人取り残された僕は苦々しい気分になり、それを誤魔化す為再び煙草を吸った。
口元からは、煙が線のように走る。僕はそれを見ながら、こう呟いた。
「はあ……また断ってしまった……」
実は、こうして断ってしまったことを後悔しているのだ。と言っても、別に子供が欲しいから後悔した訳ではない。それとはまた別の理由があるのだ。
そもそも、僕が結婚したのには特殊な理由があった。それは、明美に対する恋愛感情を捨て去る為だったのだ。
僕の人形愛は、最も根深いコンプレックスでもあった。真っ当な人間なら抱かないようなその恋愛感情を感じる度、自分のことが何だか異形の者のように思えた。故に、人間と結婚することで、自分を真人間にしようと試みたのである。
それが失敗に終わったことは、説明するまでもないだろう。僕は美代子の願望よりも、明美と過ごす時間を優先してしまった。一年程の結婚生活は、何一つとして変化をもたらさなかったのだ。
これから、どうすれば良いのだろう。美代子の願う通り、一介の父親となれば良いのか。それとも、明美への愛を深めれば良いのか。その悩みに結論をつけることができないまま、煙草を吸い終わった。
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