【ロサース ―rosas― (薔薇)】

「警視正。……。彩、どうしてこんな事を。面倒を起こしやがって。もう俺たちは終わったんだ。葛木さんには俺たちの事は話してないだろうな」

「あなた、結婚していたのね。独身だと言っていたのに」

「独身さ。もう妻はいない独り身だ。そんな事より、ここは静かに事を終わらせるんだ。スキャンダルはお互いにとってマイナスだろ」

「身勝手なところは変わっていないのね。私は構わないわ。栗原は結婚詐欺師だと知れ渡ればいいのよ。いい気味だわ」

「し。声が大きい。君が僕を別の署に異動させてくれることを期待したから、付き合ったんじゃないか。それができないなら、別れて当然だろ。君がキャリアでなかったら、五歳も上なのに付き合う訳ないだろ」

「その理由に挙げていた『嫌いな上司』って、葛木さんのことだったのね。近くにいたら都合が悪いから異動したかった。そうでしょ」

「そうだよ。何だか、他人のプライバシーまで探ってきて迷惑しているんだ。異常者なんだよ。だから、ここはお互いのために、あの人には僕らの事を知られないようにしよう。頼む」

「逃げたいだけでしょ。後ろめたいから」

「何の事だよ。とにかく、もし君が僕らの関係をバラすような事があれば、僕にも考えがあるからね。君の性癖も知っているし、何もかも公にしてやる。そしたら君のキャリアは終わりだろ。だから、ここは穏便にやり過ごしてくれよ。な、頼む」

「何を頼むって?」

「! ……ああ、いえ。救助の安全確保に協力してくれと頼んでいたところですよ。で、どうでした、応援の方は」

「いや、今は来られないそうだ。それより、このスマホの発信履歴を確認したのだが、おまえ、本当にどこにも連絡してないんだな」

「あ、当たり前ですよ。疑り深いなあ。葛木さんが言ったんじゃないですか。どこにも連絡するなって」

「マニュアルだと、自殺者対応の初動は本庁通信部と消防への連絡だろ。相棒が何と言おうと。はい、スマホ。ありがとよ」

「まあ、そうですが、葛木さんに言われたら、仕方ないですよ。それで、どうします? 僕たちだけでやりますか」

「そうだな。ところでおまえ、ここに来るまでに、なんで安西さんのスマホに何回も電話しているんだ? 俺はおまえに、このマンションの住所と自殺しそうなキャリア官僚がいるとだけ伝えたが、名前までは伝えてないぞ。さっき初めて教えたはずだ。なんで分かった、安西警視正だと」

「あ、いや……ちょっと存じ上げていたので、もしかしてと思って」

「そうか……。安西さん、よかったな。少しは心配してくれたみたいだ」

 そんな訳ない。ただ保身のために策を講じようとしただけ。そうに決まっている。

「ちょっと待ってください、葛木さん。やっぱり変ですよね。これ、どういう事ですか。僕を騙していませんか」

「どうもこうもねえだろ。他人を騙して生きているのは、おまえの方じゃないのか」

「いったい何の話ですか。どういう事なんです、これは。まさか、仕組んだのですか。だとしたら、葛木さん、それ以上僕に近づかないでください!」

「こうでもしないと、おまえをここには呼び出せないと思ってな。散々利用して弄んだ元カノが自宅マンションの屋上から飛び降りようとしていると言えば、おまえはすっ飛んで来ると思ったんだ。悪かったな、騙して」

「そんな……」

「あなたでしょ。あなたが美久さんを殺したのよね。私には分かる。あなたはそういう人よ。怖かったのよね。子供ができて、父親になることが怖くなった。だから……」

「き、君もグルなのか。馬鹿を言うな。この男から何を聞いたか知らないが、君は騙されているんだ。葛木さん、お義父さん、妻の件の捜査は終わっています。ご存じでしょう。まだ僕を疑っているのですか。これは問題ですよ。警察官として。帰ったら報告させてもらいますからね。いくら義理の父親でも、これはやり過ぎだ」

「元義理の父親だ。それに、帰れると思っているのか。行き先が違うだろ」

「もう、すべて分かっているのよ。葛木さんの職歴は知っているでしょ。あなたの事は全てを調べ尽くしているの。何もかも。でも、安心して。あなたの言う通り、美久さんの件の捜査は終了している。一事不再理でこれ以上の捜査はされないわ。葛木さんは単に真実を知りたいだけなの。もし、ここで正直に話してくれたら、私が全力であなたを守るわ。すぐにあなたを別の所轄署に異動させるし、今後は葛木さんがあなたに近づく事ができないようにする。だから、正直に話して!」

 次から次へと口から嘘が出てくる。こんな私にしたのも、あなた。


 嫌い。


「どこまで、調べているんですか」

「全部だよ、全部。おまえが泣かせてきた女の数から、おまえのくだらねえ性癖まで、全部だ。久しぶりに仕事した気がするよ」

「近寄るな! 葛木さん、僕を殺す気ですか」

「さあ。だが、おまえも知ってのとおり、俺も信用されて監察に上げてもらうまでは、つまり今のおまえくらいの歳の頃までは、公安にいた。その中でも、組織体系図に載っていない部署だ。おまえもサツカンなら聞いたことあるだろ。そこで色々と叩き込まれた。をな。だから、調べたら、その事情に沿って処理することが身についている。だから、だ」

「く、くそ。寄るな! 近寄るんじゃない! 彩、なんとかしてくれ。あいつは僕を殺すつもりだ!」

「じゃあ、話して。そうしたら、あなたに協力する。二人なら彼をここから突き落とせるはず。その代わり、私との事も誰にも言わないで」

「分かった、言わない! 話すよ! 話す! 美久を殺したのは僕だ。に、妊娠の報告をした彼女を喜んで抱きかかえるふりをして、そのままベランダから放り投げた。混乱していたんだ。君と出会ったばかりの頃だったし、それまでできないって言っていた子供が急にできたって……。だから、混乱して……、えっ?」

「ごめんなさい、私も混乱したの」

 やっと押せた。この瞬間を待っていた。躊躇などしない。

「……っく、あ……!」

 力のこもった顔。筋を立てた首。必死にバランスを取ろうとする片脚。何かにつかまろうと伸ばした腕。その角度では無理。そのまま落ちればいい。

「よくも!」

 意外だった。私の左手に届くなんて! 彼は私の腕時計に指を掛けている。赤いバンドのペアウォッチ。私の大好きな薔薇と同じ色のバンドに大嫌いな男の全体重が掛かる。鉄柵と右手を繋いでいる手錠が手首に食い込む。痛い。肩が外れそう。下で大嫌いな男が青いバンドの腕時計をはめた手を振り回している。痛い。体が左右に引き裂かれる! 

 節くれた指が私の左手首を掴んだ。飛び込んできた葛木さんの手。必死に私の腕時計を外そうとしている。ベルトを引っ張り、遊革、定革の順にベルトの先端を抜いていく。ベルトを強く引っ張って、爪の先でを抜いてくれた。こちらに青いバンドの手が伸びてくる。それと同時に赤いバンドの腕時計は私の左手首から外れた。

 栗原が空中に浮いている。そして、重力に吸い込まれるように落ちていった。

 左腕が軽くなった。大嫌いな男の悲鳴は聞こえなかった。少し後にドチャッという変な衝突音だけが微かに聞こえた気がする。遠い先の大地の上で、彼が薔薇の花のように赤く広がっていた。

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