【アスペラ ―aspera― (尖った・鋭利な)】
「あなた、監察にいたの?」
聞き出さなければ。重要な事だ。もしそうなら、この男は私と同じ本庁勤務であり現場のエリート捜査官だったという事になる。この男の正体も分かるはずだ。早く答えろ!
「ああ。結構、長かった。だから庁内に友人は少ない。こんな状況でも、助けを呼べるのは俺が所轄に下って初めて教育係を任された青二才のガキくらいだ。それにしても、あいつ、遅えなあ」
どおりで私がこの男の事を知らないわけだ。警察官の不正を取り締まる部署であり、警察の中の警察とも呼ばれる「監察部」。当然、そこに所属する監察官たちの氏名は一般の警察官たちには隠されている。それに、庁内では警察官たちから好かれていないし、話題にすることさえも避けられている存在だ。ただ、監察官には上から心技を信頼された、経験と実績がある優秀な警察官が選抜されるとも聞いたことがある。そんな部署にこの男が所属していたなんて意外だ。
「監察部にはいつまで」
「四年前までだ。いろいろ考えてな。人事の奴に頼んで外してもらった。ま、いろいろ話してという事だが」
おそらく、監察部時代に知り得た何らかの情報を使って人事部の人間を動かしたのだろう。汚い男だ。
「異動先は自宅に近い所轄署がよかったのだがな。ま、そこまで贅沢は言えねえよな。なんとか今の署に配属してもらった。人事の奴らも二つ返事だったよ」
「狙い通りに事を進めたのですね。では、ここを選んだのも」
「そうだ。昔のコネを使って少し調べた。まあ、あんたの名前が出てきた時は正直驚いたが、いや、逆に気の毒に思ったよ。で、悪いが、いろいろと調べさせてもらった」
虫唾が走る。こんな事、許されない。
「今は花が恋人か。男に捨てられた女に有りがちな話だな。あのベランダの赤い薔薇、あんたによく似合ってるよ」
ベランダの事まで知っている。書類上の人事情報だけではなく、生活実態まで実調査されていた?
「そう訝し気な顔をするな。美人が台無しだぞ。監察の人間が公安畑から抜かれてくる事くらい、官僚のあんたなら知っているだろう。調べる時は徹底的に。基本だよ、基本」
公安……やはり、そうか。
「どこまで調べたの」
「全部だ。そう言えば十分だろ。ま、しいて言えば、あんたが育てている薔薇の種類まで調べた。そういったところだ。それにしても、あの薔薇、あんたのイメージにぴったりだな。美しくも妖艶で、可憐でも気高い。で、しっかりとした棘がある。正に、あんたそのものだ」
「だから私に話を持ち掛けたの?」
「当然だろ。あんたが、もし、ダリアの花なら、俺はこの話をあんたには持ち掛けなかったさ」
くやしい。こいつにも好きなように弄ばれている。くやしい。
「あんた、こういう言葉を知っているか。 Saepe creat molles aspera spina rosas. 『しばしば、とがった棘がやわらかい薔薇を生む』。人生を語った言葉だ。大事なのはスピーナ、棘さ。俺はあんたにそれを感じる。だからあんたのことを誘ったし、期待した。ま、たぶん、そんなところだな」
「何を言っているの」
こんな時に知識をひけらかしてくる。ラテン語? たしか、詩人の言葉だ。オイディウスとかいう。この程度の話でマウントを取っているつもりだろうか。くだらない。
「だが、意外だった。こっちが言ったとおりの役割を果たしてくれればいいだけなのに、あんたはこの柵を越えてきたばかりか、俺の仕事まで奪おうと言う。俺に『やめろ』と言うのではなく、それを自分がすると。どこで習った。やっぱ、あれか、キャリアは、そういった特別な交渉術か何かを教わるのか?」
馬鹿にされている。手錠をしたから私が目的を達成できないと思っているのだろう。警戒も無くどうでもいい話をして。私の真剣な申し出も本気と受け止めてはいない。腹が立つ。
「で、考えたんだが、こういうのはどうだ。二人で同時に。これなら文句はないだろう」
冗談じゃない。これは私の問題だ。私だけの。
「なぜ、あなたと……」
「ちょっと待ってくれ。着信だ」
またスマホ。どうして、このタイミングで。
「葛木だ。今どこだ。――ちっ。分かった。ドアは開いている。刺激しないように、慎重に近づいて来い。着いたら指示する」
随分と険しい顔に変わった。ここからか。絶対に負けたくない。
「もう、下に着いているそうだ。やっぱり裏道を知っていたか。今エレベーターで上がってくる。これで二対一だな」
「あなたの事は信用できません。私一人でやります」
「手錠は着けとけって。後で外せばいいだろうが!」
大声で威圧された。職業柄、そういった荒さには慣れているが、それでも、一瞬でも、この場面で首をすくめてしまう自分が嫌になる。まだ青い。
「葛木さん、あなたは警察に必要な人材です。私とは違って替えは利かない。だから、無茶はしないで下さい!」
「馬鹿を言うな! 替えの利く人間なんてこの世にいねえよ。あんた警察官だろ。しっかりしろ!」
痛い。体の芯に激痛が走る。何か尖ったもので刺されたかのような感覚。私は……。
「時間が無いから、言っておく。しっかり聞け!」
「今更、何を……」
「美久は自殺したんじゃない。あれは他殺だ」
「え……」
息を呑んだ。まさか。
「娘はベランダから飛び降りたと言ったが、それは警察の見解だ。みんな、単純な事故死か自死で終わらせたかったんだ。年末も押し迫っていた時期だったからな。心理的にそう働いたに違いない。ベランダには、手すりを乗り越えるために使った椅子、その横にゴム製のスリッパが揃えて置かれていた。所轄の連中は、それだけで衝動的な飛び降り自殺だと断定したんだ。だが、美久はそんな事をするような子じゃない。あの子は強い子だ。旦那の浮気くらいで死を選んだりしない」
親なら誰もがそう思うだろう。自分の子が強い人間だったと信じたい。本当は、そんな人はこの世に一人もいないと知っているのに。
「娘はいつも、ベランダを奇麗に掃除していた。あんたの部屋のベランダのように広いベランダじゃない。洗濯物を干したらどこにも立てないくらいの狭いベランダだ。そこの床をいつも奇麗に掃いていた。室内用の普通の布製スリッパで下りていたからだ。ゴムアレルギーだったんだよ、美久は。一応、ベランダには旦那用にゴム製のスリッパを置いていたが、自分は別の布製スリッパを履いてベランダに出ていた。普通はリビングで使う用の布製だ。そのスリッパは、使わない時は雨に濡れないよう、室内の隅に、サイドボードの横に置いていた。底合わせにして。俺は娘の死を聞いて現場に駆け付けたが、その時、ソファーで取り乱したように号泣している夫越しに見たんだ。そのスリッパはサイドボードの横に置かれたままだった。ベランダで椅子の隣に揃えて置かれていたのは旦那用のゴム製スリッパだ。美久は履かない」
「その事を現場の人間に話したのですか」
「話したさ。だが、自殺するほど気が滅入っている人間はそういうものだと一蹴された。何度訴えても取り合ってもらえなかった。俺が以前は監察の人間だったから、ここぞとばかりの仕返しだったのかもしれん。誰にも取り合ってもらえなかった」
「動機については」
「遺書などは無かったから、旦那の供述通りに取り上げられた。不妊を苦にしての自殺だろうと。でも、そんなはずは無いんだ。最後に会った時、娘は諦めずに頑張ると言っていた。そんなはずは無い!」
「それで、あなたは調べ始めた」
「そうだ。どう考えても、夫が怪しいと思った。それで調べてみた。あんたを調べたように徹底的に。そしたら、とんでもないスケコマシ野郎だと分かった。女もいた。だが、俺が一番許せないと感じたのは、怒ったのは、もっと重要な事が分かった時だ。美久は妊娠していた。治療が上手くいっていたんだ。親切な先生が病院から本人に前日の検査結果を電話で伝えてくれていた。だから美久は夫にすぐにその事実を知らせたんだ。あいつが急に帰らせて欲しいと言うから、俺は事情を知らなかったが、それを承諾した。美久はその日に死んでいる」
「その事実を証明する証拠は有るのですよね。医師からの連絡の通話記録などが」
「ない。既に自殺で処理されている案件の、俺の正式ではない捜査に、その医師は積極的に協力しようとしなかった。ようやく連絡の事実を吐露した程度だ。娘のスマホに着信の記録が残っていたはずだが、それも消去されていたよ。おそらく夫の仕業だろう。夫の方も、自分への電話は自殺をほのめかす内容だった、だから急いで帰宅したと報告した。それが警察内で通っている以上、強制的に通話履歴を調べることはできない。だいたい警察自体が自殺の一点から動こうとしないんだ。これ以上は無理だ!」
「だったら私が。なんとかして所轄に再捜査の指示を出します!」
「二課のあんたがか。越権行為じゃないか。冷静になれ。そんな事をしたら、全部を失っちまうぞ。これ以上犠牲になる必要はない」
「私には、それくらいの事しか……」
「ここまでしてくれただけで十分だよ。それに、たとえその夫を逮捕できたとしても、とうてい起訴には耐えられないはずだ。送検された段階で、受けた検事が腰を引くだろう。良くて、せいぜい起訴猶予さ。証拠が無い。ま、それも警察が最大限に協力してくれた場合の話だが。俺の経歴では、それも望めない。まったく、嫌われ者役ってのは損だよな」
「では、もう、こうするしかないのですね」
「と、俺は思うがな」
「葛木さん」
遠くから聞こえた。でも分かる。癇に障る男の声だ。高くかすれた声。なのに、奥の方がどこか甘い。嫌いな声だ。
「やっと来やがった。まったく、一人前の刑事に育ててやろうと思ったのに、こんな調子だ。ガキのケツを拭くのは、いつも……」
風が強くて聞こえない。急に声を落したからか。いや、少し向こうに離れたから。何を言ったのだろう。ただの独り言。
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