スピーナ (改訂版)
与十川 大 (←改淀川大新←淀川大)
【プロロゴス ―prologos― (序詞)】
風が気持ちいい。
でも、それだけだ。なにも面白くない。まったく入ってこないから。太陽も照り付けているが、それもただ熱いだけ。まったく入ってこない。何もかも、肌に触れるだけで、触れるだけで……。揺れる木の葉の音も、飛び立つ鳥の羽音も、聞こえない。見慣れた高層ビル群の影も、高速道路の曲線も、人々の姿も、遠い。過ぎ去った日々のように。
これまで順調にキャリアを積み上げてきた。職場ではそれなりに実績をあげてきたし、同僚からの信頼も築いてきたつもりだ。
経済的にも余裕ができた。だから、このマンションを買った。新築タワーマンション。都心にある職場に近い場所なので、結構な値段だった。さすがに最上階を購入することは叶わなかったが、自分としては上出来だと思う。3LDKに南向きのベランダ付き。この高さのタワーマンションにしては珍しい物件かもしれない。どうしても日当たりの良いベランダが欲しかった。趣味の園芸ができる広さのベランダ、それを見た時、立地のことなど頭から飛んでいた。
広さについては相方と少し揉めた。相方は2LDKで十分だと言った。数階上に南向きの2LDKが売れ残っていたからだ。でも、私としては将来的なこともいろいろ考えて、もう一部屋は要ると思った。結局、住宅ローンを負担するのは私だということが決め手となり、3LDKを買うことにした。
家具も全て新調した。間取りと広さでこちらが意見を押し通したということもあったので、家具は相方の趣味を優先した。購入する時は全て私のカードを使ったが、私も一緒に選びに行ったわけだし、部屋にあれば使うのは相方だけではないはずなので、それでいいと思った。値段が一番高かったのはソファーだ。クーズーとかいう動物の皮を張ったアンティーク調のソファーで、まったく私の好みではなかったが、一応、二人掛けということだったし、相方も前から欲しかったと言うので、購入を承諾した。英国の老舗メーカーが卸している珍しい革だとか、二十世紀初頭の雰囲気を醸し出したデザインで一点モノだとか、あの饒舌な店員の口車に相方がまんまと乗せられたことは分かっていた。レジで精算手続きをした時の、あの店員のほくそ笑んだ顔が憎らしい。革の色は深い茶色で、古く見えるようにあえてキズだらけに加工してあるので、新築のリビングでは浮いている。これだけが異様に暗い。革も硬いし、背当ての角度がほぼ垂直なので、座っていても体が休まらない。たぶん使わないだろう。私がそう予想した通り、部屋に搬入されてから三日ほどでそのソファーは二人の荷物載せとなり、それからはソファーと合わせて買った木目調のローテーブルを挟んで、それぞれラグマットの上に直接座るようになった。ワインボトルとグラスと御つまみの中皿を三枚も置いたら他に何も置けないくらいに狭いテーブルだったが、そこでよく二人でワインを飲んだ。
二人とも「ミラヴァル」という銘柄が好きだった。おしどり夫婦と謳われるハリウッドスターの夫婦がプロデュースしたというロゼワインだ。ネットで見つけて、あやかりたいという思いと物珍しさに惹かれた私が購入した物だが、意外にも相方の方が味を気に入ってしまい、私が購入する度に相方は顔がそのワインと同じ色になるまで飲んだ。外遊びで日焼けして真っ赤に火照った子供のような顔。それを愛おしく見つめたものだ。
今、私の前には日に焼けた肌に無数の小じわを刻んだ初老の顔がある。その顔は汗を浮かせ、やや紅潮ぎみだ。見開いた目は、ただこちらのみを見つめ、瞬きもしない。乾いた唇がゆっくりと開く。
「大丈夫。大丈夫。落ち着いて」
顔が近づいてきた。二人の間にテーブルは無い。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます