第20話 入門と「あらためまして」
階段を登って4階まで行くと、二つある扉のうち、奥よりの「マジヤバ事務所」というプレートの張られたドアをノックした。
ほどなく、ドアが開いて、中から小柄な社長が現れた。今日はアロハではなく、きちんとした黒地のポロシャツにチノパンである。
その態度も、先日の東洋クインダムの事務所とは異なり、かなり畏まった様子だった。
今はプロレスラーのスザクではなく、マジヤバプロレス代表、本名小田翼としての姿勢のようだった。
通されたのは、開けた雑然とした事務所部ではなく壁に鏡が連なった、控室の大部屋の方だ。椅子もテーブルも中央に寄せてある。書類を用意して待っていたようで、テーブルの上にはボールペンと書類が既にそろっている。
契約書の内容確認はつつがなく行われた。
その上で「まだ気の早い話ですが」という前置きと共に、正規所属選手契約の書類のコピーも軽く見せてもらった。
内容は主に、金銭周りの条件だった。
例えば、道場開催と他会場開催の異なる1試合あたりの基本報酬額――物販のポートレートや撮影会の収益の配分、自作物販の許可条件、各種メディア出演時の出演料の会社側の取り分――試合中および練習中の怪我に対する健康保険および高額医療制度を利用した上で掛かる費用の会社側の負担額とその条件――希望者へのセカンドキャリア用学資の会社からの一部提供――入場曲及びデビュー時の衣装・マスク・ガウン制作費用の会社の全額負担――などである。
むろん『反社会組織との交流を持った事実が確認された際は、本契約は解消される』『会社の了承を得ない同日同時間の試合出場契約(いわゆるダブルブッキング)が確認された際は一定期間選手活動一切を禁止とする』などの倫理的な項目も十分にあった。
それらとは別に、代表は『プロレスラー用保険』と名札の張られたクリアファイルから、数社の生命保険と医療保険のリーフレットを出して並べた。
「基本的に、レスラーは身体に危険の伴う業種ですので、民間の大抵の傷害保険には入れません。国民健康保険と、高額医療制度までです。ホルモン療法の件があるので、場合によっては血栓症などに関しては対応してくれない保険会社もあるかもしれません」
それを見て、母は「あら……」と声を漏らした。
「お母さん、血栓症のリスクは、月曜に自由が丘のクリニックでも聞いたでしょ? 大丈夫だよ、きちんと水分とって食べ物気をつけてれば、それに、私まだ若いし」
「それはそうだけど、生命保険にちょっとびっくりしちゃって……おほほ」
母の作り笑いにあわせて、小田代表も乾いた作り笑いをした。
「はは……ですよね、わかります。とりあえず、この書類の内容に関しては、練習生としてきちんとプロテストを通過するレベルまで達してからその先の話ですので、一旦忘れてください。プロテストに合格するまでは身体に危険のあるような技の練習は一切させません。……それよりも、寮なんですが、この事務所の隣が私の自宅になってましてね、そこに住み込みで来てもらおうかという話でこちらは準備しています」
「あ、女子寮じゃないんですね」
母が雅鳳より先にそう訊いた。
「ええ、実は私の連れ合いがコロナにかかった時、娘を女子寮で隔離生活させたことがありまして。幸い娘には感染はなかったので女子寮に広がることはなかったんですが、そこで学校の勉強をしながら、近所の公園で自主トレして、寮の掃除や不慣れな食事作りといった新人仕事を並行してやるのはかなり過酷だという反応が来まして……あ、うちの娘も団体所属のレスラーをしています。……今回の雅鳳さんの場合、性ホルモン療法に切り替えてからの副作用への順応や、在宅学習の他に未経験のアルバイトを抱えての選手生活になります。……こういう扱いをすると、今後の新人選手取るときにそういう待遇を受けられるものと思って入門希望を出してくる子も出かねないので、プロになった後はできるだけメディアでは練習生時代の寮の話とかはNGかオフレコにしてもらいたいんですが……私の自宅で生活するのであれば、寮生活での負担をある程度軽減できると判断しました。我が家は一応、家事全般当番制ですし、少々狭いですが雅鳳さんの自室もご用意できますから、勉強や体調が優れないときに周りに気を使わずにいられる環境の確保は必要かと思いまして」
「わざわざのお気遣いありがとうございます……どうする?」
「特別扱いじゃないと、難しそうですか?」
雅鳳はおそるおそるきいた。これに小田代表はため息混じりに渋い笑みを見せた。
「うん、性ホルモン療法の副作用は甘く見ないほうがいい。人によっては最初の1ヶ月は、吐き気でまともに食べられなかったって人もいるくらいだから。ましてやまだまだ当面は気温も高い。昔のやり方ならシスの練習生でも脱水症状で動けなくなるだろうね。君の場合血栓症のリスクが上がる。けど今は違う。水分をこまめに取れるインターバルをきちんと組み込むし、気温が33度を越えたらエアコンもつける。新人の最初にやる基礎トレーニングもホルモン方面からの体調悪化の兆候を見逃さないように打ち合わせを担当になる人間としてる」
それを聞いて、うつむきながら頷いた。
「じゃあ、はじめからある意味特別扱い、なんですかね」
「いや、基礎トレができる状態だったらトレーニングメニューに特別扱いなんかないよ。基礎トレが辛くて体が動かなくても、うちの家事当番は全うしてもらう。バイトも勉強もきちんとやってもらう。全部両立できなかったら、諦めて帰るか、バイトと高校の勉強しながら、プロレスフィットネスっていう、うちのやってる練習生ではないスポーツ初心者向けの運動教室から出直してもらう」
そういいながら、代表は道場で運営しているプロレスフィットネスの月額契約のリーフレットを母に差し出す。
「うちは学校の寮じゃない、プロレスの道場なんだ。上げ膳据え膳で、トイレ掃除もしないで居られるなんて思わないでほしい。そういう意味では、全く特別扱いではない。あるとしたら、性別移行期のトランス女性としての合理的配慮だけだ。繰り返すが、これは特別扱いなんかじゃない。いままでうちで引き取ってきた女子の練習生への稽古の生理休養と同じようなものだ。自己判断で生理用鎮痛剤1シート飲んで無理矢理動くようなやり方は道場興行でも禁止してる。それと同じだ。無理をしてプロになる前に内側から壊れてしまわないための、団体としての判断だ」
厳しい言葉だが、それをきいて雅鳳は少しうれしそうな顔をして頭を下げた。
「わかりました。不束者ですが、よろしくお願いします」
「いいのね?」
母に隣から問われて、娘は頷いた。
「うん」
話は決まった。
「では、さっそく部屋を見てもらいましょうか。ご案内します」
そういって、小田代表は立ち上がった。
通された隣の部屋は、事務所とは違いきちんとした生活感があった。
なにしろ築15年である。生活感が染み付いても不思議のない年数だ。
「狭い玄関ですみません。その分中を広めに作ったもので」
そういって、棚から客用のスリッパを二つ出して並べる代表。
「ハルー、いるー?」
「なーにー」
「悪いけどお茶3つ出してくれる?」
奥の方で、短パンにへそ出しティーシャツ姿の晴嵐が廊下の奥を通り過ぎた。
「すみませんね、いまのが娘です。こちらです」
「あの、娘さんと言いましたが、お連れ合いの?」
これに、雅鳳がすかさず割って入る。
「お母さん! その話はあとでするから……代表、すみません。聞かなかったことにしてください」
これに代表はさっきまでの神妙な真面目さから打って変わって、スザク選手らしい少年っぽい顔つきになり、にこっと笑った。
「いや、いいよ。別に公表してる話だし。君のお母さんならこれから君と暮らす上で、信頼してもらう意味でも話しておいたほうがいいから……あの子は晴波といいます。リングネームは晴嵐。俺が産んだ子です。女子のリングに上がり続けるために性ホルモン療法を受けていない話は以前話しましたよね。戸籍上もまだ女性で、シスの男性と法律上の結婚をしてあの子を産みました。いわゆる、出来ちゃった婚ですね。私自身はトランスジェンダー男性のゲイになります。性別適合とかは、法律上で同性婚が認められてから考えることにしています」
「あ……それは、失礼をいたしました」
「いえいえ、ところで雅鳳さんの料理経験とか、どんな感じですか?」
「料理は、中学3年の頃は一緒によく作ってたよね? 今朝も、桃剥いてくれたし」
「はい。一応、魚の内臓取りと大根のかつらむきくらいはできます」
「お、それだけできれば包丁は十分。ただ、うちの子、プラントベース食だから、料理作る時は注意ね。特に汁物のおだし。基本的に作り置きの昆布出汁か干し椎茸の戻し汁を使うと思って。あとはヴィーガン系のサイトとか見て豆類とブロッコリーの料理のレパートリー増やしとく楽だよ。我々が食べるのは、普通に肉とか魚とか焼くだけでいい。娘の主菜とか副菜はいつも本人が自分で作るから手を出さなくていいし」
「わかりました」
世間話のようにそんな話題をふりながら、廊下の半ばの部屋の引き戸を開ける。東向きのその部屋の窓からの光がほの暗い廊下を照らした。
壁一面が作り付けのクローゼットになった4畳半よりやや広いフローリングの部屋だった。窓は腰の高さで、エアコンの類はない。
「エアコンの取付工事は、今月中に済む予定です。衣装ケースや机や寝具、あと置き畳なんかは明日か明後日のうちに用意します。外出用の季節ごとの服を3日分ずつと冬用のコート、レスリングシューズ、練習用の着替えとインナーを10セット用意してください。それだけあれば当面は足りるはずです。何かフォーマルな服が必要になったときは、ご実家に連絡をいれて、こちらで用意するか、送っていただくか決めましょう」
「わかりました。あと、問題なのは下着かな」
「うん……」
「ああ、これから必要になりますよね……私は取っちゃったんで使ってないんですけど、娘と後日相談しましょう。染色体異常でもないかぎり、ホルモン剤始めてすぐに胸が大きくなるということはないと聞きますから。まあ、まだ成長期ですから、一ヶ月二ヶ月で膨らみ始めた場合を想定して、こちらに来てからパッド入りのインナーを通販などで買ってもよいかもしれませんね」
これに、待った、というように母が手のひらを見せる。
「あの、ところで、娘さんには……」
おそるおそる尋ねる母に、雅鳳があっけらかんと頷く。
「大丈夫、晴嵐さんにはカミングアウトしてる」
「ほんとに?」
「うん、日曜に試合見に来たときに、その後残らせてもらったでしょ? その時話す機会があって」
「一応、社内の共有情報として副社長やってる連れ合いにも、雅鳳さんの性自認の話は済んでます……今のところ、うちの団体で雅鳳さんがトランスであることを正式に知っているのは、うちの家族の3人だけです」
「あ、それでこちらで暮らさせていただくと」
「それも、なくはないです。それを含めて合理的配慮ということで」
「わかりました」
「あ、そうだ。がぶちゃん、できればいいんだけど、この人にバレたなとか、話の流れでカミングアウトしたとかって人が出てきたら、後で私にグルチャかなにかで一本伝えてくれる? 多分大丈夫だと思うけど、その人がアウティングしないかどうかをこっちでも把握しておきたい。必要そうな人の耳に入っちゃった時は、俺同伴で改めて口止めするから」
「わかりました」
「よろしくおねがいします」
そう頭を下げているところを、顔を半分出して晴波が見ている。
「……こら、きちんと挨拶しなさい」
「いや、入っていいタイミングを待ってただけだから」
振り返る二人。晴波は最低限のマナーのつもりか、ティーシャツの上に一枚パーカーをひっかけている。
「はじめまして、小田晴波です。高校1年です。晴嵐って名前でプロレスラーやってます」
「はじめまして、雅鳳の母です。先日はお世話になりました」
「いえいえ、差し入れありがとうございました。みんなでいただかせてもらいました」
そう頭を下げ合う。
「いや、お前食えてないだろ」
横から余計なことをいう代表、これに顔を見合わせる母娘。
「そうなの?」
「……うん、いや、あのね、よく見ないでバター入ってそうとか思っちゃって……ごめんね」
「ううん、越してくる時、また同じの買ってくる」
「ま? ありがとー」
そういって素直に喜ぶ晴波。
「さて、ここも暑いですし、お茶飲みましょうか」
そういって、小田翼は髙木母娘をリビングへ促した。
親同士は小1時間ほどざっくばらんに世間話などし、娘同士は部屋の案内や掃除用具の場所などを教えたり、
「洗濯はスポーツ用の肌着とコスチュームは持ち主が自分で手洗い、それ以外は服とインナーだけわけて、それぞれまとめて洗っていいから」
などといった家事の説明をした。
最後に、雅鳳にあてがわれる部屋のクローゼットの中を見せてもらった。
そこには、両親と娘の歴代コスチュームとガウンが入っていた。
「お宝だ」
「すごい生地……これ、一着おいくらですか?」
「ああ、このガウンはアメリカでタイトルトーナメント用に作ったやつですね。向こうで3千ドルくらいしたかな。帰国してからコロナの時期に無観客で試合してた時期も着てました。今は新しく別のを作って着てます」
「3千って……だいたい45万円くらいですか?」
「えーと、当時はまだ35万とかくらいですかね……今は向こうでこんな値段じゃ作れないですよ。円安もありますけど、アメリカの物価が馬鹿みたいに上がっちゃって……あ、プロレスのコスチュームって基本的にフルオーダーなので高いんですよ。デビュー時は奨学金みたいに会社が負担しますが、何試合までギャラの何割天引きとかそういう形で返済してもらうので、負担にならないようにできるだけ安く作りますけど」
「あ、そうだ、コスチュームもちょっとご相談が……」
「はい?」
「えーと、いわゆるレオタードみたいなタイプのものだと、うちの子の場合……」
そこまで聞いたところで、代表は皆まで言うなというように大きく頷いて見せた。
「ああ、大丈夫です。わかってます。そういうのごまかしが効くデザインを、業者さんと相談しながら作りますから。今は我々が10代の頃見てた女子プロみたいに競泳用水着買ってきて自分でプロレス用に加工して着る時代じゃないので。うちもデビュー時から3年くらい着る想定で作ってますから」
「けど、ボーイッシュタイプの選手みたいにロングパンツタイプも違うよね。オヤジみたいなシングレットだと体の線出ちゃうし」
そう言う晴波に、雅鳳も不安そうに小さく頷く。
「うん……できれば、可愛いほうが、うれしい、です……ロータスの涼川選手みたいな……」
それをきいて、ああ、と納得した声を上げる小田父娘。
「魔法少女系か」
「うん、肌面積少なくて何枚もペチコートの入ったスカートのアイドルレスラーで多いやつ、確かにアレなら下半身も上半身もごまかし効きそう」
「けど、あれは……うん、考えておく」
「お願いします」
「まあ、その前に基礎トレだけどね」
「うん、家帰ってからでいいから、毎日スクワット200回を練習して。フォームとかわかるよね?」
「はい、新体操でもある程度やってました」
「あとライオンプッシュってわかる?」
「わかります」
「あれも50回できるようになっておいて」
「いや、あれはプッシュバーが要るだろ」
「いや普通の床で50回できればバーで30回くらい余裕だから……あ、そうだ、とりあえず、家でできそうなメニューあとでグルチャで送るわ、アドレス教えて」
「はい」
そういって、娘たちは連絡先を交換した。
「あと、柔軟とできれば首上げだけお風呂上がりにでもやっておいて」
「首上げ?」
「今教えてあげる、こっちきて」
「今?」
そういって、晴波は雅鳳の手を引いて広いリビングへと連れ出した。
残された大人二人、代表のほうは少し心配そうに廊下をながめた。
「……大丈夫かな、なんかテンション上がってるけど」
「そうですか? 私はほっとしました。こっちで仲良くやっていけそうな人がいて」
「ああ、それはそうかもしれませんね」
そんなことを言い合って、親たちはにこりと笑いあった。
その日は夕方、三鷹駅へ代表の車で送ってもらった。
バイト先の店の様子を見たかったが、その日は月に2度の定休日だった。
店の入口を塞ぐように、等身大のオオカンガルーの木彫像が据えられ、その首に『本日休業』のプレートが掛けられていた。
――そう、雅鳳のバイト先とは、先日のちゃんこ会でもネット出前で振る舞われた『菜食食堂カンガルー』だった。
送りの車の中で代表に聞いた限りでは、店内飲食以上にネット出前での売上が大きい店だという話だった。
高木親子はそのまま中央線で新宿へと向かい、駅構内の飲食店で夕飯を済ませた。
(接客業か……声、ちゃんともつといいな)
そんなことを思いながら、雅鳳は先日とは違う並び席の遠距離バスで母の肩にもたれて帰った。
帰宅後、すぐに国際学芸の入学願書を作成し、送付した。
返事は翌日メールで届いた。
次の週末、入学面接と作文課題のために本校に来てほしい、とのことだった。
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