第18話 夜景の見えない車窓から

 午後9時、雅鳳も食器の片付けなどを手伝い、中央線利用者組の所属選手らを乗せたマイクロバスに同乗させてもらった。運転手は源三副社長だ。


 隣りに座ったのは30歳前後くらいの体の線がきれいなお姉さんといった感じの女子選手だった。

 本日第2試合で、背の高い女子選手相手にすらりと脚の伸びた蹴り合いから始まり、最終的に胴締めドラゴンスリーパーホールドで降参勝ちをとっていた選手だ。


 今は試合中とはうって変わって、透け感のあるロングスカートにパフスリーブと、おしとやかなお姉さんという感じの装いである。


「今日、どうでした?」

 向こうから話しかけてくれた。


「はい、ここならやっていけそうだな、って感じました」

「そっかーよかった。けど練習は最初のうちはほんとに泣くほどきついから、そこだけ覚悟してね。それ乗り越えれば楽しいことも多いから」

「やっぱりそうなんですね。晴嵐さんにもさっき言われました」


 彼女は雅鳳の体を見回して、小首をかしげた。


「結構いい腕してるけど、何かスポーツやってるの?」

「あ、体操系を少し」

「おお、じゃあ柔軟とかマット運動とかイケるクチだ」

「はい、そういうのは自信あります」


「じゃあ半分は楽かな。はじめのうちはしんどいのはスクワットとロープワークだけど。受け身のある格闘技か、ダンスとか演劇経験があるともっといいらしいんだけどね」

「受け身のある格闘技はわかりますけど、演劇とかダンスはなんでですか?」


「技のときの体の使い方とか客への表情の魅せ方とか、そういうのが違うらしいの。私ここ来る前にベリーダンス4年やってて、初めて褒められたのが、入場練習で動きがきれいって言われたことだから。もう知ってるかもしれないけど、プロレスの入場は大事なの。はじめて自分を見たお客さんにも自分がどんなところが魅力の選手なのか伝える重要な場面だから。たとえ試合で弱くても、スタイルを貫いてたら『それがいいあなたのいいところだ』ってって言って応援し続けてくれるお客さんも増えてくるし」


「そうなんですね」


「うん、私はそういうファンに支えられて、プロレス続けられてるところがあるから」

「そうなんですか……ところで、実は生で観戦しに来たの、今日が初めてなんですけど……なんで試合前にポールダンスのショーがあるんですか?」

「ああ、動画には残してない部分の」

「はい、動画配信では見たことないやつです」


「あれはマジヤバの道場が、水曜の夜と金曜の午後をポールダンス教室に貸してるから。ポールダンスの方の生徒さんや先生が客前で身につけたものを披露する場所がほしいって話になってて、毎週土曜の試合の入場時間をプロレスの前座としてやってもらうことにしたの。本当はプロレスのマットってスプリングが入ってるからあんまりポールダンスのポールみたいな重たいものは置かないほうがいいらしいんだけど、社長は『うちの団体はトンパチなほどいい』って」


「へー、やっぱり変わった人なんですね、社長」


「ねー。私も、元々はここにはポールダンスの生徒として来てたの、そしたらなぜかリングがあって、ポールダンス教室が終わったと思ったら小学生くらいの子が非常口のほうから降りてきて、リングのロープ張って、ひとりで受け身の練習しはじめて……それが晴嵐ちゃんなんだけど。それを見て『あ、ここそういうのもやってるんだ』って知って。そこからプロレスフィットネスにも来るようになって、2ヶ月くらいで社長から『練習生になりませんか』って声かけられて。半年くらい練習生やって、デビューした途端にコロナが来ちゃってね……」


「そうなんですか……コロナ前っていうと、私まだ小学生でした」


「うわー若い! プロレスに興味持ったきっかけは?」

「中学の時クラスの男の子に、今の女子プロってこんなかんじなんだよって雑誌見せてもらって。コロナ明けて、まだみんなマスクつけて声出し応援とかできてない時期です」


「へー。そっかー。じゃあ、去年のうちの台湾遠征とか知ってる?」

 これに、雅鳳は少し苦笑いをした。

「あ……クレジットカード持ってなくて、向こうの団体の配信チケット買えなかったんです」


「そっかー、そうだよねー、今何年生?」

「今年高1です」


「じゃあ中学生だもんね、買えないよね。私、一応レスラーとしてもポールダンサーとしてもやれるから、去年の台湾遠征連れて行ってもらえてさ。あれは楽しかったなー、なんか大人の修学旅行みたいだった。みんな試合のない日はお酒飲んで、現地のレスラーに美味しいもの食べに連れて行ってもらって」


「海外遠征までやってるんですか」

「うん、社長はWtUではアジアの古参みたいな感じのポジションの選手だから、東アジアのプロレス団体行くといつもベルト戦組まれてるくらいの人気者なの。大抵、向こう側の悪役レスラーの乱入があってレフェリーがやられて没収試合になって、向こうの王者とうちの社長で共闘して悪役追い払っておしまい、って感じになるんだけど」


「へー、なんかそこまでいくとヒーローショーみたいですね」

「メキシコのルチャリブレなんかを見てると、プロレスはベビーがヒールを倒すところにカタルシスを感じてるお客さんがかなり多いって気がする。案外似たようなとこはあるのかもしれない」


 副社長が車を赤信号で停車させ、後ろの席に声を掛けてきた。

「北多摩駅で降りるひとー」


 この言葉に、隣りに座って話し相手になってくれていた妙齢の女子選手が手を上げた。

「おりまーす」

 他にも2名ほど手を上げている。


 これをきいて、社長はハンドルを切った。

 彼女の荷物を通路寄りに寄せて、座る位置も動く車内で入れ替わる。


「ありがとね」

「いえ」

 ほどなく駅前の賑やかな北多摩駅の駅ビル前に停車した。

 彼女を含めて、3人が降車し、残りを乗せて今度はマイクロバスは三鷹駅へ向かう。


 その車窓によりかかって、スマホでマジヤバの所属選手一覧を見た。

 いま話していた彼女のプロフィールも乗っている。プロレスキャリア6年目、今年で32歳の知花ユリカ選手だ。


(……知花さんか……ああいうきれいなお姉さんになりたい。……ホルモン剤、かなりだるいらしいけど、続けたらなれるかな……)


 昨日の親同伴の受診で主治医には事情を説明した。

 早速思春期ブロッカーから女性ホルモン注射に治療を切り替えるという治療方針の変更が決まったが、15歳以下である都合から書類手続きが必要だという。そのため、思春期ブロッカーは今月までで来月の通院日から開始できるだろう、とのことだった。

 性ホルモン療法への切り替えは、個人差はあれど副作用が出るという。例えば吐き気やだるさ、めまいなどである。他にも血栓症が発生するリスクがある。


(ちゃんとやっていけるかな。やっていきたいな)

 そんなことをぼんやりと思いながら、マイクロバスに揺られていた。


 ***


 三鷹駅から新宿駅までの上り電車は、地元では考えられないほどに混んでいるように感じた。

 ほかの都心部在住の社会人選手に聞いた限りでは、これでもオフピークの登り線だから空いている方だという。


 それでも席は埋まっているし、リュックを後ろ前に抱えて立っている人も多い。

 乗車率は新宿に迫るほどに多くなり、一緒だったレスラーたちは日暮里、中野をすぎると次々に降りていった。


 新宿で一斉に押し流されるように下車し、そのまま駅構内地図をたよりにバスタへと向かう。


 目的のバス待合所についた時には9時40分を過ぎていた。新宿駅で迷いかけて少し焦ったが、幸いコンビニに寄る余裕も含めて10時のバスの待機列には間に合った。


 乗務員にスマホの乗車チケット画面を見せて車内に乗り込む。幸い半個室のような席毎に衝立のような固定された間仕切りのあるタイプのバスだった。

 中列の席だ。そこに座り、スマホ画面を点灯させる。

 残り充電は50%台に入っていたが、モバイルバッテリーを繋げばまあ地元につくまでは持つだろう。


 ドリンクホルダーにコンビニで買ったアイスコーヒーをセットし、念の為一緒に買ったスクリューボトルのエナジードリンクとおにぎり2つも手近なところに置き、膝には社長からもらった通信制高校の資料の束を読み物として置いた。


 早速車内ワイファイを有効化し、グループチャットアプリを立ち上げ、スザク社長に


『今、無事にバスに乗りました。今日はありがとうございました』


 とメッセージを送る。すぐには既読がつかないと思い、家族のグルチャにも


『今バスに乗った。到着予想時刻は夜2時。お父さん大丈夫そう?』と送った。


 既読を待つ間に、有線イヤフォンをスマホにつなぎ、U-tubeのアプリを立ち上げる。

 マジヤバプロレスが配信をしている。これの視聴に参加すると、そこには社長とキム・ハート選手が映っている。


 これを観て思わず顔を覆った。

(スザク社長、生配信中だー)

 だが意外なことに、すぐにグルチャの通知表示が出る。


『今配信中。気をつけて帰って』

 と来る。


 これに、雅鳳は少し考えて、配信のチャット欄に少額の投げ銭と共に

『今日は試合お疲れ様でした。初の現地観戦楽しかったです』

 と打った。


 このコメントに配信中の2人して「おっ」と反応してくれる。


「タカギ……ガブさん? きょう、たぶん、わたし、このひと、サインしました」


 キム選手が日本語でそう言ってくれる。実際雅鳳はポートレートの物販の列に並んでいた。

 キム・ハート選手はマジヤバプロレスで惹かれた選手の一人だ。直線的な動きの素早さと、投げ技を主体としたパワフルなファイトスタイルが見ていて気持ちよかった。


「かわいかった?」


 これにキム選手はこくりと頷く。

 へーとにやにやした顔をする社長。


「なにかんがえてるの、えろい、きもい」


 そう言われて、目を見開いて口を尖らせるスザク社長。


「そんな言葉誰に習ったの?」

「セイラン」

「あいつかー、あとで説教だな」


 これにチャット欄のモデレータの色文字の名前『SaiRan_chang』が、


『私はもう寝ます。パワハラ拒否です。おやすみ』


 とすっとぼける。

 これを読んで、スザク社長がカメラを指差す。


「おいこらー、親が働いてんだぞ、ちゃんと見ろー。寝るならせめて歯を磨いてから寝ろー」


 そう怒って見せる横で、けらけらと笑うキム選手。

 それからキム選手は、流暢な英語で視聴者に何が起こっているのか説明し、その隣でスザク社長は缶チューハイを一口あおった。キム選手が手にしているのもビールの缶である。

 二人の間での英語でのやりとりは、正直に言って雅鳳には半分も理解できなかった。単純に雅鳳の単語の記憶量が少ないのだ。高校もスポーツ推薦で受験も面接だけ、授業成績も中学まではかろうじて赤点を免れる点数までしか取れていない。


 ほどなく、バスのドアがしまり、車内アナウンスが流れる。


「これより、全てのシートをリクライニングします」


 そう宣言されて、自動的に一斉にシートが倒される。

 これに身を委ねて横たわり、動画を見続ける。精神的な疲れがここにきてぐっと体に出たのか、目が痒くなった。眠気で、このまま寝付けてしまいそうだった。


 いかんと思い、体を起こしてドリンクホルダーのアイスコーヒーのストローを吸う。冷たく香しい苦みが眠気をほどよく遠ざけてくれる気がした。


 マジヤバ道場のちゃんこ会では緊張であまり食べられなかった。

 空腹感で眠気がいくらか薄くなるのも感じる。念の為コンビニでは飲み物だけでなくおにぎりも2つ買ったが、これで高校1年生の腹が深夜2時まで乗り切れるかは少し怪しい。

 様子によっては途中のサービスエリア休憩で何か買ったほうがいいかもしれない。


 ほどなくバスは発車した。

 有線イヤフォンごしに、エンジンと振動音が聞こえる。

 父親から『飲まずに待ってる』とグルチャの通知表示が出る。


 配信は、明日の午前10時に本日の試合の動画配信をするという告知をして、ほどなく終了した。

 配信時間を見ると、57分、おそらく雅鳳達がマイクロバスに乗ってすぐに配信を始めたのだろう。

 それから間もなく、スザク社長からグルチャが来た。


『またせてごめん。投げ銭ありがとね』


 これにすぐに返事を打つ。


『こちらこそ、配信中と気づかず失礼しました。今日は本当に来てよかったです』

『ちゃんこ会で話せなかったことだよね。その後、クリニックはどうでした?』

『来月から性ホルモン剤に変える手続きに入ってもらいました。通院日もいままでは週末でしたが、次は9月の1週の水曜です』


 既読はすぐ付き、少し間があって、返信の入力表示が出る。


『じゃあホルモン剤始まったら副作用に注意だね。体調が悪い時の報告と、水分をできるだけ取るようにして』

『ありがとうございます。思春期ブロッカーをこれまで続けていたので、ある程度軽くて済むだろうという話でした。それより、正直言って東京の電車での移動が不安です。帰りもぎゅうぎゅう詰めでした』

『中央線も新宿駅もこの時間でも人が多いから、それは仕方ない。よくがんばってくれた』


『ご飯食べさせてもらって助かりました。豆乳鍋、おいしかったです』

『よかった。たぶん上京してきたら作り方を覚えることになると思うから、そのつもりでいて』


『やっぱり男子寮なんでしょうか』

『それだけはない、安心して。今どこに入ってもらうかは準備を進めてる。もう少し待ってほしい』

『わかりました』


『学校の資料は読んだ?』

『これからバスの中で読むつもりです』

『せかしてすまない。寝過ごさないように気をつけて帰って』

『わかりました。今日はありがとうございました』


 そう打ち返して、既読がつき、それ以上メッセージが続かないのを見て、ほっとして携帯を手近なホルダースペースに置いた。

 それから膝の上のクリアファイルをぱらぱらとめくった。


 通信制高校の資料に混ざって、中にひと綴じ、肩をホチキス止めした書類が入っていた。

 マジヤバプロレスの練習生契約書の写しだ。正方形の付箋紙がついている。


『これは正規の書類のコピーです。家に持ち帰って、良く考えて、また親御さんとこの書類に署名をしに東京に来てください 代表 小田翼』


 最後のページの署名欄は全て空になっている。

 ぱらぱらとめくり、見出しだけに目を通す。

 練習日程例――入寮のための確認事項――練習中の事故による負傷時の医療費の負担について――所属選手契約時は再度別途契約書を発行――。

 ほんの数枚だが、ファイルの中で一番重みを感じる書類に思えた。


 本当に新体操を辞めてプロレスの道に入るのだ。

 そう思うと、今更に顔に脂汗が浮くのを感じた。ポケットティッシュを出してそれを抑えるように拭い、腕時計を見る。


 午後10時12分。バスはまだカーブも多く、高速道路へは入っていないようだった。

 席の都合で夜景は見えないが、ここに来るまでの間に十分にみた。そして、次に来るときからは、好きなときに好きなだけ見ることができる。

 そう考えたところで、ふと、実家への東京みやげの菓子を買い忘れたことを思い出した。


「あ」

 声にならない小さな声でつぶやいて、薄暗い車内の天井を仰いだ。

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