第9話 ファミリービジネス、コロナ禍、リング、菜食主義
コロナ禍の緊急事態宣言を受けて、国内ではあらゆる団体が興行を行えなくなった。
既にスザク名義で渡米していた彼は、家族や北魂プロレスの運営スタッフと毎日状況を確認し合いながら、米国のWtUの道場スタジオで無観客興行のテレビ番組に参加していた。
そして、ようやく帰国ができたのが2020年の5月だった。
感染拡大予防のための2週間のホテルでの隔離措置の間、毎日シングルルームの床で、可能な限りの自主トレをして過ごしていた。心の支えは家族や交流のある選手とのSNSのライブチャット機能での対話だった。
とにかくファンに対しては、自分の健在さと日々の励みになりそうな姿の公開を絶やさないように努力した。
そうしてようやく帰宅した北魂プロレスの道場はジムや会場貸出の営業を一切止めて、換気設備の増設のためのリフォーム工事が始まっていた。
スザク達は、そのリフォーム中の道場の真ん中にリングを設営し、二階のインナーバルコニー席にカメラを据えて、『
その第一回配信のレスラーとして、ロータスの当時の最高王座保持者、神楽伽羅を呼び、スザク対神楽伽羅の30分1本勝負の動画を公開配信した。
視聴数は1日で5千を越え、一週間で3万になった。当時既にロータスが国内最大の女子メジャー団体だったこと、そしてスザクの名がアメリカの放送やインターネット配信を通じて全世界に認知されていた事が大きく影響した。そしてなにより、現地観戦できない状況下でのプロレス配信を、多くのプロレスファンが待ち望んでいた。
それからスザクは日本滞在中、毎日北魂プロレスの配信を行った。他団体から招待した選手と北魂プロレスの所属選手の対戦する試合の動画を毎日撮影し、それを編集が済んだ順に公開した。生配信の権利が発生するようになったら、今度は東京近郊の各団体のプロモーターや団体の代表を呼んで鼎談形式で各団体の状況を話した。
そうして3ヶ月ほど日本に滞在し、再渡米の日程を発表すると同時に、リフォームの済んだ北魂プロレスに新しく王座を創設し、団体名を改めることを宣言した。
その団体名こそがマジヤバ・プロレス。そしてベルトの名前はシングル王座として『サイキョー・オブ・マジヤバ』、タッグ王座として『マジヤバシラ・タッグ王座』。
……シングルタイトルはともかく、タッグタイトルに関してはコロナ禍の最中に大流行したアニメに完全に乗っかったネーミングである。だが、男女を問わず誰が制しても問題のない名として他に思いつかなかったのだ。
そのようにして、2020年をどうにか乗り切り、翌年、アメリカにてコロナワクチンを二度接種したスザクが再度帰国した。
晴波は、5月に控えた12歳の誕生日を目前にして全ての基礎と、ドロップキック、ヘッドシザーズ・ホイップまでも一丁前にできるように成長していた。
それから3ヶ月後、コロナワクチン接種が始まった年8月上旬、東京オリンピックの真裏の時期に、朱雀翼デビュー20周年とマジヤバプロレス1周年記念の新宿フェイス興行、第1試合で娘の晴波はリングネーム『
晴嵐のプロ3年目の中学3年の頃には、コロナ禍はピークを過ぎてマスクなしでの声出し応援が当たり前になり始めていた。その頃、
ちょうど晴嵐はプロレスの英才教育を受けて育った気鋭の若手レスラーとして他団体の興行に参戦する頻度が増え、一方で推薦入試の結果待ちでナーバスになっていた時期だ。
……晴波の学校での成績、通学実績は共によかった。
本人の希望進路は自宅から自転車で通える距離にある私立校への進学だった。高校2年から自分で授業カリキュラムの組める自由さが売りの校風で、私服通学、ピアスに化粧、髪染めも制限がなかった。同校の推薦入学でより有利になるためだけに、英検3級と理検3級を取り、中学2年の時には生徒会の副会長までしていたほどだ。
その大舞台での試合は、初参戦にしてセミファイナル、カードは20分1本勝負のタッグ戦。赤コーナーはロータスの売出中の若手組対、青コーナーは晴嵐と、東北女子プロレスの主催する他団体交流の若手インディー女子トーナメントの優勝者の凍凜選手組だった。
……いわば、
試合自体は、12分32秒、晴嵐のピンフォールで晴嵐・凍凜組が勝利した。
先にリングを降りたロータス側の選手を見送って、自分の入場曲の流れる中、そのまま退場しようとしたところ、唐突に全く違う曲が流れ始めた。
花道から、肩にローズピンクのベルトをかついだティーシャツ姿に赤いハーフブレイズ頭の女子選手が現れた。
ロータスの若手
彼女はまだリングの中にいる、晴嵐を呼び止めた。
「待て晴嵐、あんたに話がある」
近くのスタッフから、リング上にマイクが滑り込まれる。
「……なんですか? 今すっげえ頭洗いたいんですけど」
これに客席から微かに笑いが漏れる。その声で即座に、マジヤバの客がいる、とわかった。
マジヤバのトーク配信で、晴嵐はたいてい風呂上がりのすっぴんで出る。自分に対する説教など始まると配信の最中にドライヤーを掛け始めて聞こえないふりをする。そういう鉄板ネタだった。
「シャワーなら後で浴びたらいい。それより聞いてほしい。……あたしんとこ来ないか?」
「ロータスさん?」
「寝ぼけんな、うちのユニット、紅蓮隊だよ」
団体移籍とユニット加入を打診である。
紅蓮隊とはロータスが最近立ち上げた、限りなく悪役に近い善玉ユニットだ。特徴として、メンバーは全員赤系統で統一されたコスチュームを身に着ける。
そのメンバーは正規軍の内部対立からの離反組。ロータスはこの頃、悪役軍団と正規軍を相手にどろどろの三つ巴の展開を繰り広げていた。
もし受け入れれば、東京郊外のインターネット特化型インディー団体から一躍メジャー団体入りである。
だが、晴嵐はこう応えた。
「私に赤いギアをつけろってぇ? ……あんたぁ、おもしれー女だなぁ!」
そう言う晴嵐のコスチュームのメインカラーは青だ。マジヤバの他会場興行での紙テープの色も青と黒である。この頃は2代目のコスチュームで、ダメージデニムのリメイクを全面にあしらったものだった。
晴嵐はパンクシンガーのように体をくの字にして床に向かって続けて叫んだ。
「だけどね、それじゃあ足りない! 何が足りないって、愛が足りない!」
一呼吸置いて、ゆっくりと顔を上げる。眼と鼻筋と顎のラインが乱れた姫カットからこぼれた、できるだけ妖艶な角度を作った。
「私は愛で動く……私はいずれ、マジヤバの看板を背負う女になる。マジヤバで狙うのは今の女子プロレス界じゃない。未来の! 世界の! エンターテイメントの! トップとしてのプロレス! ……鈴花さん、あんたが今巻いてるベルト、それに見合う愛があるでしょ? それと同じくらい、私はマジヤバを愛してる! どうしても私がほしいなら、いつでもいい、マットの上でなら、愛してやる。今度はあんた自身で、私に愛をぶつけに来い! いつでも、いつまででも、待っててやる。じゃあな」
そう言い切ってマイクをマットに落として、リングを後にした。……誘いを断ったのだ。
スザクは団体社長としては、しびれた。
だが親として、先輩レスラーとしては『なぜ拒否した』と責めた。
レスラーとして格を上げるには知名度がいる。マジヤバの看板を背負うのは、人気をメジャー団体で知名度とファンを作ってからでも遅くはない。
だが、娘は頑として譲らなかった。
そしてそのマイクパフォーマンスは、翌週のプロレス雑誌の記事になった。見出しは『おもしれー女!
そしてその週末から、マジヤバの試合動画の視聴数は3割増しになった。
彼女は他団体の観客から新たなファンの獲得という結果を出したのだ。
だが本人はそれを喜ぶそぶりもなく、ポテトチップのうすしお味を食みながら、
「どうしても
そう言われて、スザクは何も言い返せなかった。
……娘がWtUのリングに上がりたい、というのは多分本心だろう。
原因は彼女の食生活にある。元々牛乳も牛肉も食べない生活だったが、その頃は本格的に肉と乳製品、卵、そして米を断つようになっていた。
俗に言うヴィーガンに近い食生活である。だが晴波自身に言わせれば自分はヴィーガンではないという。
「まず思想が違うの。私は動物の権利が目的じゃなくて環境問題が目的。環境負荷重視のプラントベース。コスチュームだって次作るのは他の選手のギアの端切れや色味の合う売れ残りの生地で作ってもらうように頼んでるし、ガウンも東北の遠征で買ってきた藍染の
そう言っているがスザク自身は似たようなものだと思っている。
娘の発言を踏まえたうえで、ヴィーガンを個人の自由の一種として尊重していたり、一定のコミュニティを形成している国の方が、日本より適しているように思える。
何より今は円安とアメリカの驚異的な物価上昇の最中で、相対的に国内よりギャラが良い。
一方で、国内のインディーレスラーは、現状どれだけ試合に出ようと、物販やオンラインファンクラブといった形での副収入か、団体が手厚いスポンサーを確保していない限り、ダブルワークなしには食っていけない状況が続いている。
マジヤバに選手登録している外国人レスラーにも就労ビザの資格外活動許可を申請して、在日外国人向けのパーソナルトレーナーや、スポーツジムの英語接客スタッフなどをしてもらっている状態だ。
それに当時は、スザク自身が年の半分は日本にいなかった。WtUでの試合があるからだ。
だが、WtU内にあってスザクは、老練で素早くアクロバットの派手な“ジョシプロ”出自のノンバイナリ・レスラーでしかない。
スカウト部門に自分の娘を売り込めるほどの、言い換えれば『世界が知る“ジョシプロ”黄金期を生きた
それ以前にWtUは性的マイノリティについては好意的だが、18歳未満は絶対にリングに上げない。
当時の、そして今の晴波がマジヤバに残るというのなら、それを止めることはできなかった。
……そういう家族である。
新しい練習生を家族の住まいで生活させることについて、どう説明したものか。
髙木雅鳳本人と母親からは、受け入れ体制を整えるための最低限の人員へのトランス女性であることの開示の許しは得ている。これはホルモン療法中の副作用への配慮や、人間関係における緩衝材的な振る舞いをする人間が必要になったときに、そう立ち回れるようにする人物を常に側に置いておくためだ。
おそらく現段階では、マジヤバプロレスの副社長でもある水谷源三までなら話しても問題はないだろう。
理由は過去に、マジヤバプロレスの旧名の北魂プロレス時代に、一度だけトランスの練習生を受け入れた実績があるからだ。
ただその時は寮での新人生活と性ホルモン療法の副作用と最も過酷と感じる入門3ヶ月の基礎トレーニングの三重苦で心が折れてしまい、練習生としてお披露目を迎える前に北魂プロレスを去った。
幸い、その練習生はその後、無事性別移行と戸籍上の性別変更を済ませ、社会に埋没した状態で一般人として生活している。今でも年に数度、観客として顔を見せに来てくれている。
予後は良くとも、スザクとしても、プロレス団体社長としても、心残りのある経験だった。
……源三副社長なら「せめて事前に一言くれ」などと言いながら、ベンチプレス機材一式を1階まで担いで下ろしてくれるだろう。だが娘はどうだろうか。父親が二人いると思っている家庭に、性別移行中の女の子がやってくるのである。
しかも、その事実を本人同士が直接対面し、本人同士がその話題に言及するまで何一つ話せない。
(……やっぱり女子寮にしたほうがいいかなぁ。けど一番上の
スザク社長はその日の午後の、東洋クインダムのコーチ業務をこなしながらそんなことを悶々と考えていた。
練習生の受け身の世話や、若手選手にトペをうまく飛ぶコツを感覚的に学ぶ手段として619から始めてロープ間での身のこなしを実演を交えて指導しながら、頭の中はずっと家族のことが巡っていたのである。
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