第弐夜

◇ 虚ろなる真実 ◇

空には微かに星が瞬いていたが、その静寂は異様だった。嵐は去り、夜気は冷たく澄んでいるのに、どこか現実感に欠けている。廃校を後にした拓斗と美優は、肩で息をしながら細い山道を進んでいた。だが、何かが引っかかる。

「拓斗、さっきの扉……」

美優が小声で呟いた。

「何かおかしかったよね。崩壊するはずの廃校が、最後にあんな静けさを見せるなんて……」

拓斗も同じことを考えていた。廃校が崩れる音が止んだとき、耳に残ったのはただ不気味な静寂。それは終焉ではなく、幕間のような感覚だった。

「まだ……終わっていないのかもしれない」

拓斗が重い声で答える。その言葉に美優は寒気を覚えた。

二人が進むにつれ、霧が再び濃くなり始めた。足元がぼんやりと霞み、道の輪郭が消えかけていく。

「おかしい、こんな場所だったっけ……」

美優が不安そうに呟いた。

霧の向こうに見えたのは、暗い影。木々の間に立つ影は、人の形をしているようにも見えたが、それは明らかに人ではなかった。

「戻れ……」

低く響く声が耳をつんざいた。影は徐々に形を変えながら、二人の方へとにじり寄る。

「走るぞ!」

拓斗が美優の手を掴み、駆け出した。二人の周囲で霧は渦を巻き、木々は不自然に揺れている。影が追いかけてくる気配は明確だった。

やがて、二人の前に再び建物が現れた。

「嘘だろ……」

拓斗は息を呑んだ。

それは廃校だった――いや、少なくともそう見えた。だが、少しずつ異なる点がある。朽ちた外壁は以前よりも新しく、窓から漏れる光は暖かみを帯びている。まるで、廃校が過去に戻ったかのようだった。

「入るしかないのか……」

拓斗が呟く。

「でも、またあそこに戻るなんて……」

美優の声は震えていたが、彼もまた、他に選択肢がないことを理解していた。

二人は意を決して扉を押し開けた。

中に入ると、そこは廃校ではなく、見覚えのない教室だった。壁にはポスターが貼られ、生徒たちの写真が並んでいる。机や椅子も綺麗に整えられ、窓からは柔らかな陽光が差し込んでいた。

「これって……昔の廃校?」

美優が写真を指差した。そこには、制服を着た生徒たちが笑顔で並んでいる。

だが、その写真の中に写る一人に、二人は目を奪われた。

「これ……俺?」

拓斗は写真を凝視した。そこには、若き日の彼によく似た少年が立っていた。だが、そんなはずはない。この学校に来たのはほんの数時間前のことだ。

「どういうこと……?」

美優の声がかすれた。その時、廊下の奥から誰かが近づいてくる足音が聞こえた。

「来たか……」

声とともに現れたのは、白髪の老人だった。彼の顔には深い皺が刻まれ、その目はどこか悲しげだった。

「あなたは……誰ですか?」

美優が問いかけると、老人は寂しげに笑った。

「私はこの学校の最後の教師だった者だ。そして、この廃校の秘密を知る唯一の存在でもある」

老人は語り始めた。この廃校は、恐怖や後悔、未練といった人の負の感情を吸い込む場所として作られたという。元々は地方の普通の小学校だったが、ある事件をきっかけに怪異が発生し始めた。

「その事件とは……?」

拓斗が問うと、老人の表情が一層曇った。

「一人の生徒が、教室で命を絶ったのだ。彼は皆に疎まれ、孤独の中で苦しみ抜いた末に……」

その言葉を聞いた瞬間、拓斗の胸に奇妙な痛みが走った。

「その生徒の名は……篠原啓介。君の父親だ」

空気が凍りついた。拓斗は信じられないという表情で老人を見つめた。

「父さん……?」

老人は頷いた。

「君の父親は、ここで命を落とした。だがその苦しみは廃校に留まり、影となって人々を飲み込む存在へと変わった。君がここに引き寄せられたのは、その血の繋がりによるものだろう」

美優は拓斗の横顔を見つめた。彼の目は迷いと苦しみで揺れていた。

「俺の……父が、この影の元凶なのか……?」

老人は首を振った。

「元凶などではない。だが、影を鎮めるには、君自身が向き合うしかない」

その時、影が再び現れた。教室全体が暗闇に包まれ、老人の姿は闇に溶けるように消えた。

「逃げられはしない……」

影の声が耳を刺す。

「お前たちの恐れと後悔を喰らい続ける」

拓斗は拳を握り、立ち上がった。その目には、迷いを超えた決意が宿っていた。

「父さんが俺をここに導いたなら、俺が終わらせる。影なんかに負けるわけにはいかない!」

美優もまた、その隣で拳を握りしめた。

「拓斗、私も一緒に戦う。影が何を見せてきても、私はもう負けない!」

二人の決意を受け、影が激しく揺れ動いた。

暗闇の中、二人は互いの手を握りしめ、光を目指して走り出した。

影との最終決戦が、静かに幕を開けた。

◇ 影の記憶◇

廃校の中に広がる闇は、ただ暗いだけではなかった。冷たい風が耳元を撫で、聞こえるはずのない声が囁く。その声は彼らの記憶をかき乱し、心に隠された弱さを容赦なく暴き立てる。

拓斗と美優は、互いの手を握りながら暗闇の中を進んでいた。影が蠢き、壁や天井の境界を曖昧にしている。「ここは現実ではない」――それは二人とも薄々感づいていたが、逃れる術を見つけられない。

「拓斗……行ける?」

美優が震える声で問いかける。

「行くしかないさ。どこかに出口があるはずだ。」

拓斗は力強く答えたものの、その声には迷いが混じっていた。

だが、次の瞬間、足元がぐらりと揺れる感覚がした。廊下が波打ち、二人の視界は激しく歪む。

「美優、しっかり掴まれ!」

拓斗が叫ぶ間もなく、二人の足元が崩れ落ち、底知れぬ闇の中に吸い込まれていった。

気がつけば、二人は学校の旧体育館と思しき場所にいた。だが、ここもまた異形の空間と化していた。木製の床板は湿って腐り、天井には何重にも重なる影が揺れている。

「これは……」

美優が周囲を見渡すと、体育館の中央に大きな黒い霧が渦を巻いていた。その中から、声が聞こえる。

「……思い出せ……」

その声は低く、どこか懐かしさを帯びている。しかし、それ以上に不気味だったのは、黒い霧の中から浮かび上がる無数の人影だ。それらは次々と形を変え、時に人の顔となり、時に崩れた建物の一部となった。

「拓斗……これ、何?」

美優が怯えた声で問うが、拓斗は答えない。彼の目は霧の中に釘付けになっていた。

「……父さん……?」

拓斗が呟いた瞬間、霧の中から一つの人影がはっきりと現れた。それは、若い頃の父親、篠原啓介の姿だった。

「久しぶりだな、拓斗。」

父親の姿をした影が言葉を発する。その声は穏やかで、温かみがあるように思えた。だが、その背後に潜む不気味な気配は拭いきれない。

「どうして……父さんがここに?」

拓斗は困惑と疑念を抱きながら問いかけた。

「私がここにいるのは、君がまだ答えを見つけていないからだ。」

「答え?」

「そうだ。この廃校が生まれた理由、影が君たちを追い続ける理由……それらを全て知る必要がある。」

父親の姿がそう言った瞬間、霧が大きく渦を巻き、拓斗の足元に黒い影が伸びてきた。それは彼の足を絡め取り、過去の記憶へと引きずり込もうとする。

「美優! 離れるな!」

拓斗が叫ぶが、美優もまた黒い影に囚われていた。

次に目を開けたとき、拓斗と美優は別々の場所にいた。

拓斗の目の前には、幼少期の自分が立っていた。両親を失った事故の直後の記憶だ。広い病室、冷たい床。祖母の泣き顔が目の前にあり、幼い拓斗はただ呆然と立ち尽くしていた。

「これが……俺の後悔……?」

拓斗は自問する。

「そうだ」

父親の姿をした影が再び現れる。

「お前はずっと、自分が生き残ったことを責めてきた。だからこそ、誰かのために生きようとしたのだろう。」

拓斗は拳を握り締めた。

「それが……悪いことなのか?」

「そうではない。ただし、その思いが強すぎれば、いずれお前自身を壊す。」

影が語る言葉に、拓斗の心は揺れていた。

一方、美優は暗闇の中で、何か重い感情に押し潰されそうになっていた。そこに現れたのは、美優の家族だった。期待に満ちた母親の顔、厳格な父親の声――それらが美優の心に刺さる。

「お前は期待を裏切るな。」

その言葉が何度も繰り返され、美優の耳にこびりついていく。

「私は……私は自由になりたいだけなのに……!」

美優は叫んだ。

その瞬間、影が形を変え、美優自身の姿となった。それは笑いながら彼女を見つめている。

「本当に自由になりたいのか? 拓斗を守るという言葉に隠れて、自分を縛り続けているのではないか?」

美優はその言葉に反論できなかった。

二人がそれぞれの記憶と向き合う中、影は徐々にその力を強めていった。そして再び、二人の前に現れた影の中心が言葉を発する。

「お前たちがこの闇を超えることができるなら、私は消えるだろう。だが、超えられないならば……」

影が不気味な笑みを浮かべる。

「お前たちの心は永遠にここに囚われる。」

拓斗と美優はそれぞれの記憶から解放され、再び向き合った。

「美優……俺は……」

拓斗が言葉を詰まらせる。

「いいの、拓斗。私はもう怖くない。一緒に終わらせよう。」

二人は影を見据え、互いの手を強く握りしめた。

「行こう、拓斗。」

「ああ、美優。」

二人が影の中心へと向かって歩み出したその瞬間、廃校全体が大きく揺れ動き、影が激しくうねり始めた。

◇ 闇の中心へ ◇

廃校全体が蠢き、薄暗い廊下が歪む中、拓斗と美優は影の中心に向かって足を進めていた。足元はぐらつき、壁という壁には血のように赤いひびが走る。だが、二人はもう立ち止まることを許されないと感じていた。影は二人を待っている――その事実が、背後からのぞき込むような冷たい気配となり、二人を押しやる。

「拓斗、怖くない?」

美優が声を震わせながら尋ねた。

「怖いさ。でも……これ以上逃げたくない。」

彼の言葉には決意が込められていた。

そのとき、闇の向こうから聞こえた声が二人の心を引き裂くように響いた。

「お前たちは、何を求めてここにいる?」

低く湿った声が廊下全体に反響し、二人の耳元で囁く。影の怪物の声だ。それはただの音ではなく、二人の頭の中に直接響き、心の奥を抉り出すかのようだった。

「何を……求めている、だと?」

拓斗が声を張り上げると、影は笑い声を漏らした。その笑いは不気味で、天井から滴る水音と混じり合い、空間全体を汚染していく。

「お前たちはずっと、真実を知りたいと思っているだろう。そして、それがどれだけ醜いものであっても、目を背けずに受け止める覚悟があるのか?」

その問いに、拓斗も美優も答えることができなかった。

二人がたどり着いたのは、廃校の最奥にある旧校長室だった。朽ちた扉が不自然なほど静かに開き、二人を誘うように迎え入れる。

部屋の中は異様だった。壁一面に無数の写真が貼られており、それぞれの写真には知らない人々の顔が写っている。そして、その全員が同じ恐怖の表情を浮かべていた。

「これ……何なの?」

美優が呆然と呟いた。

その瞬間、写真の一枚が動き出した。中に写る人影が微かに揺れ、その動きは次第に激しさを増し、やがて写真の枠から飛び出した。それは黒い霧となり、部屋全体に広がっていく。

「これは、廃校に囚われた魂たちの記憶だ。」

影の怪物が姿を現した。人型にも見えるその輪郭は曖昧で、黒い霧と人間の顔が入り混じっているようだった。

「この廃校は、恐怖と絶望の集合体だ。人々がここに閉じ込められるたび、その記憶が私の糧となる。」

怪物の言葉に、美優は恐る恐る問いかけた。

「じゃあ、私たちはどうなるの……?」

「お前たちもまた、記憶を餌にされる運命だ。ただし……お前たちの心にある『秘密』次第では、別の運命も選べるだろう。」

影の怪物がそう言うと、部屋の中央に巨大な鏡が現れた。その鏡は二人を映し出しているが、そこには見慣れた自分たちの姿だけではなかった。

拓斗の背後には、幼い頃の彼が立っていた。両親を失った事故の瞬間が、鏡の中に映し出される。車の衝突音、割れるガラス、母親の叫び――それらが鮮明に再現され、拓斗は膝をつきかけた。

「やめろ……!」

拓斗は叫ぶが、鏡は容赦しない。

一方、美優の側には、彼女自身の影が映し出されていた。それは厳格な父親と愛情深いが期待の重い母親の姿だった。

「お前はいつも期待される側だな。それが嫌で、自由を求めているのだろう?」

影が美優に問いかける。

「でも、本当に自由になれば、誰もお前を愛してはくれない。お前は孤独になる。」

その言葉に、美優は肩を震わせた。

「もういい!」

拓斗が叫び、鏡に向かって拳を振り下ろした。その衝撃で鏡はひび割れたが、完全には壊れない。

「俺たちは、お前に囚われない! 美優、行くぞ!」

拓斗が美優の手を引き、再び立ち上がる。美優は涙をぬぐいながら頷いた。

「私たちの記憶を見せられたところで、もう何も怖くない!」

その言葉に呼応するように、影が激しく揺れ動く。

「ならば、証明してみせろ!」

影の怪物が咆哮し、部屋全体を黒い霧で覆い尽くした。

拓斗と美優は手を取り合い、闇の中で影の中心に突き進む。足元は不安定で、呼吸は苦しくなるが、二人は立ち止まらない。

「俺は、自分を責めるのはもうやめる。両親が望んだのは、俺が生きることだ。」

「私も、他人の期待に縛られない。私は私らしく生きる!」

二人の決意が声となり、闇の中に響き渡る。その瞬間、影が苦しむような叫び声を上げた。

「その覚悟が、本物だというのか……!?」

影の形が崩れ始める。廃校全体が揺れ、天井が崩れ落ちていく。

「拓斗、出口が見えた!」

美優が指差した先には、かすかに光が差し込んでいた。

二人は全力でその光に向かって走り出した。

光を抜けた瞬間、二人は廃校の外に倒れ込んだ。嵐はすっかり止み、静寂が辺りを包んでいる。

振り返ると、廃校は影とともに跡形もなく消えていた。

「終わったの……?」

美優が息を切らしながら呟く。

拓斗は美優の肩を抱き寄せ、深く頷いた。

「俺たちは、影に勝ったんだ。」

二人の顔に、初めて安堵の笑みが浮かぶ。だが、その背後に、風に揺れる黒い影が一瞬だけ見えたことに気づく者はいなかった。

◇ 影の残滓◇

嵐が過ぎ去った翌朝、冷たい空気が山肌を包み込む中、拓斗と美優は廃校の跡地を見つめていた。あの恐怖の夜を越えた二人だったが、心にはまだ影の怪物の残像がこびりついている。

廃校は跡形もなく消え去り、そこにあったはずのものは一片の瓦礫すら残していなかった。ただ、湿った土壌が異様に黒ずんでおり、まるでそこが存在そのものを拒絶するかのような不気味さを放っている。

「本当に、終わったのかな……」

美優がぽつりと呟く。その声には、希望と不安が入り混じっていた。

「終わらせたんだ、俺たちが。」

拓斗は自分に言い聞かせるように答えるが、握りしめた拳の震えが止まらない。

だが、二人がその場を去ろうとした瞬間、背後から微かな笑い声が聞こえた。

「――逃げたつもりか?」

振り返った先には何もない。ただ、風が木々を揺らす音だけが支配する静寂だった。

二人はなんとか下山し、麓の村にたどり着いた。村は平穏そのもので、まるで廃校の恐怖が幻であったかのようだ。だが、村人に廃校の話を切り出した途端、彼らの態度が一変した。

「あそこには近づくなと言ったはずだろう!」

村の長老と呼ばれる老人が、杖を突きながら近寄ってきた。しわがれた声には怒りと恐怖が入り混じっている。

「廃校は、ただの廃墟じゃない。あれは“門”だ。何か……この世のものじゃない何かを繋ぐためのな。」

「門……?」

美優が聞き返す。

「そうだ。影の怪物と呼ばれているものの正体は、人の恐怖や後悔が生み出したものだが、奴はそれだけじゃない。奴は“向こう側”から来た存在だ。」

長老の言葉に、拓斗と美優は凍りついた。

「お前たちが生きて戻れたのは奇跡だ。だが、奴が完全に消えたとは思うな。門が閉じられたとしても、奴は必ず残滓を残す。」

その言葉を聞いた瞬間、拓斗の背中に冷たい汗が流れる。もし影の怪物がまだ完全に消えていないのだとしたら――。

その夜、二人は村の宿に泊まることになった。外は静まり返り、月明かりが窓から差し込んでいる。だが、部屋の中には妙な違和感が漂っていた。

「なんか、落ち着かないね……」

美優がカメラを手にしながら言う。

「気のせいだよ。」

拓斗はそう言いながらも、窓の外を警戒するように何度も見やる。

そのとき、不意に美優のカメラがシャッターを切る音を立てた。

「えっ? 撮ってないのに……」

カメラの液晶画面を確認した美優の顔が青ざめた。画面には、二人の背後に黒い影のようなものが写り込んでいたのだ。

「まさか……まだ、ついてきてるの?」

美優の声は震え、手元のカメラが小さく揺れる。

「落ち着け、美優。」

拓斗は美優の手を握り、冷静を装おうとするが、その手も冷え切っている。

夜が更けるにつれ、部屋の中の空気が徐々に重くなっていく。まるで影そのものが部屋を浸食しているかのようだった。

「拓斗……ねえ、聞こえる?」

美優が耳を澄ませるように言う。

「何も聞こえないけど……」

だが、次の瞬間、二人の耳に微かな囁き声が届いた。

「――戻ってこい……」

その声はどこからともなく聞こえてきたが、明らかに二人を呼んでいる。それは影の怪物がかつて廃校で囁いた声と同じだった。

「ダメだ、美優。この部屋を出よう。」

拓斗が立ち上がり、美優の手を引いた。その瞬間、電灯が一斉に消え、部屋が完全な闇に包まれた。

「拓斗!」

美優が叫び声を上げたが、その声も闇に吸い込まれていく。

拓斗は手探りで美優を探すが、手に触れるのは冷たい空気だけだった。

「美優、どこだ!?」

答えはない。代わりに、彼の耳元で低い声が囁いた。

「お前はまた守れないのか?」

その言葉が拓斗の心を抉る。

「やめろ……!」

拓斗は声を張り上げるが、その声も虚しく響くだけだった。

一方、美優は闇の中で自分の名前を呼び続ける。だが、声は届かない。代わりに彼女の目の前に再びあの鏡が現れた。

「また……これなの?」

鏡の中には、美優の姿が映っている。だが、その顔は恐怖に引き攣り、瞳には希望の欠片もない。

「見ろ。それがお前の本当の姿だ。」

鏡の向こうから影の怪物が現れる。

「お前は弱い。お前が拓斗とともにいるのは、彼に依存しているからだ。」

「違う……違う!」

美優は叫ぶが、その声すら鏡に吸い込まれていく。

そのとき、拓斗の声が遠くから聞こえてきた。

「美優! 俺を信じろ!」

その声に、美優は目を閉じ、全身の力を振り絞って叫んだ。

「拓斗!」

その瞬間、鏡が砕け散り、影の怪物が苦しむような咆哮を上げた。

闇が薄れ、二人は再び同じ空間に引き戻された。

「大丈夫か、美優?」

拓斗が美優を抱き寄せる。

「うん……でも、まだ終わってない。」

二人は再び手を取り合い、影の怪物に立ち向かう決意を新たにした。

◇ 影の真実 ◇

夜の静寂が村を覆う中、拓斗と美優は村の長老の家で影の怪物に関する話を聞いていた。長老の語る言葉は、まるで古い祈祷書から抜き出したような、現実と夢幻の境界を曖昧にするものだった。

「影の怪物は消えたわけではない。お前たちがあれを倒したのではなく、奴が力を蓄えるために一時的に姿を隠しただけだ。」

長老の目は深い皺に囲まれ、その奥にはどこか諦めと恐怖が混じっていた。

「この世には“向こう側”がある。人が恐怖や罪悪感、後悔を抱える限り、影は決して消えない。むしろ、それがある限り、門は何度でも開かれる。」

「じゃあ、俺たちがここを離れたら、また誰かが犠牲になるってことですか?」

拓斗の声は冷静さを保っているように見えたが、その裏には怒りが滲んでいた。

長老は静かに頷く。

「そうだ。そしてお前たち自身も、奴の標的であり続ける。影はお前たちの中に残り、いつか完全に飲み込もうとするだろう。」

その言葉に、美優は震えた。拓斗も拳を握りしめたまま目を伏せる。

「じゃあ、どうすればいいんですか? 完全に終わらせるには……」

美優の声はか細かったが、鋭い意志がそこにはあった。

「影を断つ方法は一つ。“本当の姿”を暴き、それを受け入れることだ。」

翌朝、二人は長老の案内で、村から少し離れた廃神社へ向かった。そこには古びた鳥居が立ち、苔むした石段が続いていた。

「この神社は、かつて影を封じるための儀式が行われた場所だ。しかし、廃校が建てられたとき、村の人々は影の存在を忘れ、この場所も放棄された。」

拓斗と美優は神社の本殿に足を踏み入れた。中は薄暗く、古い御簾が朽ちかけた柱に掛かっている。その中央には、黒ずんだ鏡が祭られていた。

「この鏡は“向こう側”を映すもの。影の怪物の本質を見抜くための唯一の鍵だ。」

長老の言葉に促され、二人は鏡を覗き込んだ。

鏡の表面は最初、ただの闇だった。しかし徐々にその中に、見覚えのある廃校の内部が浮かび上がった。

「またここか……!」

美優が怯えたように呟く。

すると、鏡の中に二人の姿が現れた。だがそれは、今の彼らではなかった。拓斗は幼い頃の自分、両親を失った瞬間を、そして美優は家族の期待に押し潰されそうになっている自分を見せつけられた。

「これが、私たち……?」

美優の声が震える。

「影の怪物は、お前たちの記憶や後悔を餌にしている。だがそれだけじゃない――お前たちが向き合わない限り、奴はお前たち自身の中で成長し続ける。」

鏡の中の影がゆっくりと形を変え、怪物の姿へと変貌していった。それは拓斗と美優の顔を持ちながら、異形の存在となっていた。

「そんな……これは、私じゃない!」

美優が叫ぶ。

「違わないさ。」

影の怪物が笑う。

「お前たちが見て見ぬふりをしてきたもの。お前たち自身だ。」

鏡の中の怪物が動き始めた。その影が溢れ出し、実体化するかのように二人を包み込む。

「受け入れろ、拓斗。お前は誰も守れない。」

怪物は拓斗に語りかける。

「受け入れろ、美優。お前は一人では何もできない。」

その声は、二人を深く傷つけ、心の奥底の最も脆い部分を抉る。

「違う!」

拓斗が叫んだ。

「確かに俺は、守れないかもしれない。だけど、それでも守りたいと思う人がいる。それが、美優だ!」

その言葉に、怪物が一瞬たじろぐ。

「私も……」

美優が続ける。

「私は弱い。でも、拓斗がいるから強くなれる。だから、私は私を――私たちを諦めない!」

その瞬間、鏡が砕け散り、影の怪物が苦しむような咆哮を上げた。

気がつくと、二人は廃神社の中に立っていた。鏡は跡形もなく消え、あたりには静寂が戻っていた。

「終わったの……?」

美優が呟く。

「いや、終わらせたんだ。」

拓斗はそう答えながら、美優の手を握り締めた。その手は、少し汗ばんでいたが、確かな温かさを持っていた。

「これで……影の怪物も消えたのかな。」

「影は消えた。でも、俺たちの中には残る。だから、向き合っていこう。」

二人は廃神社を後にし、新たな一歩を踏み出した。

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