第4話
「……終わったぞ」
つ、疲れた。
今の数分で、一瞬で精神力がゼロになった俺は、がくりと床に崩れ落ちた。
「おー。ありがとー」
俺の苦労もつゆ知らず、花灯はしれっと軽いノリでそう返す。
見ると、さっき塗った薬が気になるのか、もごもごと口を動かしていた。
「んー……なんか口のなかべたべたする」
「まあ、そういう薬だからな。そのうち慣れるよ」
「春太が口に出したやつ、すごい苦いんだけど」
「おい! 言いかたっ!」
声を荒らげた俺に、花灯はきょとんとしながら首を傾げた。
その言いかたはひじょうにまずい。なにがとは口が裂けても言えないが。
「あたし、変なこと言った?」
「いや、それは……」
「うん?」
なおも首を傾げる花灯を見て、俺の身体から急速に力が抜けていく。
「はあ……もういいや。なんか馬鹿馬鹿しくなってきた」
花灯を一方的に意識している自分が癪に思えて、俺は会話を打ち切った。
テーブル上のプリントが視界に入る。
そうだった。まだこいつが残っていたんだった……。
俺は重い腰を上げながら、数学の教科書を手に取った。
と、そんな俺の肩に、花灯がちょんちょんと指で突ついてくる。
「ね、春太」
「なんだよ」
「いつもあたしにつき合ってくれて、ありがとね」
そう言って、花灯は白い歯を見せてにっと笑った。
あまりに直球すぎるその言葉に、俺は一瞬、呆けたようにフリーズしてしまう。
なんとか言葉を返そうとして。
結果。
「お、おう……まあ、いいけど、べつに……」
出てきたのはそんな言葉だった。
我ながら小学生男子みたいな反応だ。死ぬほど恥ずかしい。
「あ、照れてる」
「て、照れてない!」
「そんなに顔まっ赤にしてるのに?」
「じゃあきっと熱っぽいんだな。風邪ひかないうちに今日はもう帰るわ」
「ちょ、まってよ! お願い! あたしを一人にしないで! 見捨てないで!」
「どうすっかなー。俺になんのメリットもないし」
「じゃ、じゃあさ」
花灯はそこで言葉を切った。
おへその前で組んだ指をもじもじさせたり、ツインテールをくしくしといじったりしている。
なにを言いだすつもりだろう。
「ほ、ほっぺにちゅー……なら、してもいいけど」
なんだそんなことか。
「いまさら?」
「は、はあ!? なにその反応!」
激昂する花灯。
実際いまさらなんだからしかたない。なぜなら幼稚園のときに散々していたから。
「くっ、あのとき安売りしすぎたか……!」
悔しそうに歯噛みしている。
「ならもう二度としないから」
本格的にすねている。
「もういいから。さっさと課題やるぞ」
「……」
俺は再び教科書に目を通す。花灯は文句を言いながらも、しぶしぶプリントを広げはじめた。
そこにさっきまであった気だるさはもうない。花灯の笑顔にふれて、たちまちどこかへ消えてしまったらしい。
我ながらなんて単純なやつだと苦笑していると、ふいに視界がかげった。
「え?」
頬にあたる温かな感触。
それが目の前の少女からもたらされたものだと気づくのに、少しばかり時間を要した。
「な、ななななな」
魚のように口をぱくつかせる俺。
花灯は今まで見せたことのないような蠱惑的な笑みを浮かべて、
「どう? あのときといっしょ?」
と、挑発するように訊いてきた。
どくりと心臓がはねる。俺はとっさに左頬を手で押さえた。
やけに生々しい感触が肌に残っていた。やわらかな唇の感触も、甘い制汗剤の匂いも、つやめくような優しい吐息も。
あのときとやってることは変わらないはずなのに、そのどれもがちがう気がする。
「……べつに。いっしょだよ」
妙にざわつく心を押さえ、俺はそうしぼり出した。
「そっかー」
花灯はとくに気を悪くするでもなく、ぐいと伸びをした。
「ま、そんなもんか」
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