第34話

 村雲雄姿郎はついに総理大臣抜刀葵の膝下に至った。

 親友を奪われ、心臓を奪われ、その復讐を遂げるべく今、村雲雄姿郎の凶暴な手は、抜刀葵の息の根を止めようと迫る。

 喉笛掻っ切って、顔面の皮を剥いでもまだ足りねえ、

「その心臓をえぐり出してやるわァァァッ!」

 どうせなにひとつ元に戻らない。

 目の前の女に人生を壊された。

 感情が爆発し、雄姿郎は本当の化け物と化している。

 抜刀葵は雄姿郎のに驚いてはいるものの、極めて冷静に言葉を吐いた。

「私の心臓が欲しいの?」

「ああそうだ!」

「いけないわ。心臓これは、どこの誰とも知れないひとからの大切な贈り物。この体が動かなくなるその日まで、私のために働いてもらう」

「お前の心臓はッ」


 俺のもの


 首相抜刀葵の身辺警護を専任としている背広の男が雄姿郎に組み付いた。

「総理! こちらへ!」

 雄姿郎は雄叫びを上げ、組み付いている男の首根っこをつかんで放り投げる。脳による制御リミットを外した筋力の行使は、単純に肉体の破壊を生む。雄姿郎は苦悶の表情を浮かべた。どうせ終わる、どれほど壊れようと構うものか。

「ああ総理!」

 さらに数人背広の男が迫った。雄姿郎はそれを払う捨てる。血が飛び散る。それは雄姿郎の体がさらなる悲鳴を上げている証左。

 本当にもう時間がない。

 自分の人生は何だったのか。なんのために生まれてきたのか。雄姿郎は黒目を失った双眸に血の泪を溜めた。

 もういい殺すと抜刀葵の喉首を改めて鷲掴みにしその手に力を込める。

「くそ!」

 薬が切れつつあるのがその手応えでわかった。雄姿郎は短く毒づき拳銃を出す。その手を払ったのは抜刀葵だった。

「冗談じゃない、死ぬわけにはいかないわ」

 それはそうだろう。そしてそれは雄姿郎のセリフでもある。拳銃は辛うじて雄姿郎の手にあったが、持ち直す間に警護に間を詰められるだろう。

 雄姿郎は抗う抜刀葵を引きずりながら、議場から廊下に出た。早足で歩く。

 息が上がる。

 黒い集団がまるで猟犬のように追いすがる。捕まればもう終わる。本当に雄姿郎の生が無駄になる。最後の一弾を心臓に打ち込むための、ただのひと呼吸の間を得る場所をひたすら求める。

 ついに葵を捉え続ける力もうしない、手を離してしまった。雄姿郎は拳銃を構える。見た目はただの回転式拳銃リボルバーだ。

「動くな!」

 背広が声を投げた。

 抜刀葵は赤くなった首をさすりながらよろりと立ち上がった。

「今日は寒い。寒いときは悩んではいけない、悪いことばかり考えてしまう」

「……え、」

「おなかが空いている時もよくないよ」

 その言葉が瞬時にして、過去の出来事をよみがえらせた。

 雄姿郎が中学一年になってすぐのこと。理不尽にいじめに遭った。雄姿郎はそれがつらくて、命を断つため街外れにある断崖絶壁の展望台にいた。そこで雄姿郎は、名も知らぬある人と出会い、その手に千円札を握らされた。結局雄姿郎少年は展望台そばの食堂でカレーを食べ、雄言和尚の待つにもどった。

 男たちが迫る。

 雄姿郎は備え付けられた消火器をつかみ、渾身の力で大理石の床に打ちつけ消火剤を拡散させた。

 白い靄が視界を遮る。

 抜刀葵の背が正面玄関を出るのが見えた。追う。

 雄姿郎は、足首でも挫いたのか足を引きずる抜刀葵の背を突き飛ばしひれ伏させると、髪ごと頭をつかんだ。

 弓手ひだりてに拳銃、馬手みぎてに抜刀葵。人質に取られた首相を前に徒手空拳の衛視になすすべはない。

 雄姿郎は抜刀葵を立たせ、後ろから両手でその細い首を包んだ。女ひとり殺すのに薬の力を使う必要はない。

「動くんじゃねえぞ犬ども! 動いたら殺す」

 本物の悪党のように牽制しつつ、雄姿郎は動かなくても殺すがなと思った。

 黒服の番犬どもに拳銃携行の許可があったのだとしても、雄姿郎と抜刀葵がほぼ重なった状態で発砲は危険と判断するだろう。

 四十四人の一般人を殺した罪と、国家元首ひとりを殺した罪と、そのどちらが重いのか。

 掌中に命を握ったこの女は世間では蛇蝎のごとく嫌われている。ならばそんな人間を殺そうとしている雄姿郎は英雄ではないのか。

 人は、おのれの行いに正義という幻想を見たときもっとも残酷になる。

「あんたは悪だ」

「そんな評価は聞き飽きたよ」

「うわああああああああああああああああああああああああ!」

 突然絶叫が響き、雄姿郎は抜刀葵ごと突き飛ばされた。

「葵さん立つんだっ!」

 それは抜刀葵の配偶者宮本だった。

 宮本は抜刀葵を立ち上がらせるとその手を引いて駆けて行った。

「待て!」

 まるで表舞台に登場することがなかった人物の参入に、やむなく雄姿郎はふたりを追う。


 息が続かずまるで二人に追いつけない、最後の亜酸化窒素アンプルを打ち込むべきか悩みながら追っているうち、別居状態の配偶者宮本に手を引かれた抜刀葵が、閉鎖されたビルに入っていく背が見えた。

 そこは二人の思い出の場所。抜刀葵と宮本がまだ若かりし頃に忍び込みその屋上から花火を見た、某国立大学の旧第三学舎。それがいまだに廃ビルとして残っていた。

 なぜ袋小路と思われるところに入るのか、難を逃れるためにしては妙ではないか、とにかく追おうと、

「ゆう」

「……え?」

 雄姿郎は動きを止めた。

 その声には聞き覚えがある。

 街灯の下に男が一人。

「た、かさき……」

 それは雄姿郎が探し求めていた大切な友人、高崎。

「い、生きていたっ高崎、生きてたっ!」

「そう興奮するなよ」

 抱きしめて確認したい、しかし雄姿郎は我が姿を顧み、その一歩を踏み出せずにいた。一瞬だが抜刀葵を追うことを忘れた。いや、高崎の無事が確認できたならもう、ここで終わりにしてもいいとすら雄姿郎は思った。

「おまえ、ど、どうしてたんだ」


 雄姿郎は知らないことだ。

 高崎は土塀舎の手の者である。

 その日。

 高崎は大きな仕事を成すため単独で動いていた。尊崇する指導者である同志盾多聞の行く道を阻害せし石くれ、平坂学を信奉する愚か者を一か所に集め、害虫駆除をするそのための帰郷だった。そのついではないが、高崎は不図旧友の存在を思い出した。

 天涯孤独の、村雲雄姿郎。

 体格の割りに小心で小心なぶん人に優しい。雄姿郎にも検査を受けさせよう、不幸にも心疾患を抱え生まれてきた同志盾の一子がため、親友の雄姿郎に免疫検査を受けさせてみよう。

 天啓を得たなどと表現したら盾は嫌がるだろうか。

 結果的に高崎の直感は正しかった。雄姿郎の免疫の型は、盾の子と適合したのだ。

 帰りに向かったコーヒー店で高崎はその報を確認し、嬉々として盾に報せた。

 盾は号令一下組織の人間を動かし、雄姿郎の体を力業で確保。

 高崎ですら、雄姿郎を死刑囚に仕立て上げるとは思わなかった。

 四十四人殺しの罪を、人間である雄姿郎に背負わせることは事前に決定していた。

 この国の未来に貢献することで、けっして恵まているとはいえない雄姿郎の生も肯定されるだろうと、これは高崎の善意である。

 こうして、結果として雄姿郎は、心臓を提供すること、高崎が実行する“害虫駆除”の身代わりとなる、そのふたつの重大な務めを任されることになった。

 とうぜん雄姿郎はしらない。

 失くしたと思っていた旧友との邂逅に目に涙をためるのみだ。

「高崎、よかった、高崎」

「うん、うん」

 近寄ってこようとする雄姿郎を、高崎は手で制する。

「待て。君にはやるべきことがあるんじゃないのか」

「どうしてそれを」

「すべてが落ち着いたとき、ゆっくり話そう。今は為すべきことを為すんだ」


 抜刀葵殺害。


「わかった……話しできたらいいな」

 高崎は当然、姿


 雄姿郎は廃ビルに侵入した。

 上階から音がする、音に引っ張られるように雄姿郎は上へ上へと重い体を運ぶ。

 とにかく追う。もうそれしかできない。自分の意思で動いていたつもりが、もはや長い間に積み重なった妄念に動かされている気になってくる。

 それは多分同じこと。

 得たい結果が同じならばなお。

 いまはとにかく、体を動かせ。

 思考の前に動け、動けば後から思考がついてくる。

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