第23話

 暑かった夏とともに国民総出の祭りが終わりこの国は再始動した。

 醍醐士郎だいごしろうの大いなる欺きの結果、雷鳴党が政権を握り、同党党首抜刀葵が新首相となった。軽率な行動は悪果しか生まないと、盾多聞たてたもんは思っている。

 悪果とは、半世紀を超えた栄光党が与党の座から滑り落ちたことではない、抜刀葵ばっとうあおいが率いる雷鳴党が第一党となり、内閣総理大臣に就任した。

 国軍再創設、武器の国産化、戦艦の建造という愚案。核兵器の所有、近隣諸国に対する考え方、国土の意識。あきらかにこの国を百年前に戻そうとしている。

 憲法九条の堅持を土台としている政治家のみならず、抜刀葵の発言を耳にした人間は戦慄したことだろう。(明確な)国軍を持つことを是とする軽輩が一定数存在することは盾多聞も把握していたが、地下の巣から湧き出てきた奴らの数は想定以上だった。

 年金制度の廃止、月額十五万の金配り、労働賃金の倍化。国の軍国化はさておき、そうした餌に釣られた連中も多い。

 抜刀葵の根底には強烈な差別意識があり、公然と独裁政治の肯定をするほどの偏った思想の持ち主である。到底許容すべき存在ではない。醍醐士郎の奸計によって政権は握られてしまったが、まだ間に合うはずだ、間に合わせなくてはならない。この国を悪の国家に戻してはならない。この世に絶対悪など存在しない、同様に神もいない。悪意はどんな人間の中にも在るのだ。

 悪意とは人に備わった毒だ。

 この世の毒を浄化する、そのための仕組みづくりを目指し盾は政治家になった。

 法律とは本来、善良なる市民が毒性の強い人間から身を守るための盾なのだが、近年仕組み自体の綻びが目立ってきた。

 毒に中てられ、その後から慌てて抗生物質を投与するのではもう遅い次代に来ている。毒そのものを無効化する社会システムの構築こそ急務だろう。

 自分のみが有能であると信じて疑わない抜刀葵のような増上慢は、この世の毒もどのような悪辣なものも力があれば駆逐できると信じているだろうが、自分が毒そのものであることには気づいていない、今後も気づかない。

 盾にとって抜刀葵の台頭はイレギュラーの出来事ではあった。泥舟といえど栄光党の時代はまだ続くだろうと思っていた。死に体の栄光党が相手ならばどうにでもなった。対応が遅れたことは否めず、盾が思い描く平和に抜刀葵首相は大きな障壁になるといえた。

 盾多聞は医師免許取得後、最短と思えるルートをたどり栄光党の後ろ盾を受け政治家となり、党内最大派閥に属し十有余年、法務大臣という役職に就くまで上り詰めた。その栄光党を離れ、土塀舎という新政党を起ち上げ、腐った大木が倒れるのを待つ。倒しに行ってはいけない、ここまで小八方枝を伸ばした大樹を無理やりに倒そうとすれば必ず巻き込まれる。崩壊までの間地道な努力を惜しまず、新たな船土塀舎をより堅牢なものに作り変えていこう。我々はいわば救済の船なのだから……そう思っていた。

 繰り返すが、醍醐士郎の頭の中を読み間違えた。

 乱すもの。悪。

 抜刀葵という稀代の姦雄かんゆういや許されざる悪がこの国を地獄とする前に滅ぼさなくてはならない。悪の手からこの国を取り戻さなくてはならない。

 理想へと続く階段の扉を開けるため仕込んだ弾丸を、また放つ。

 弾丸の名は『グラジダニン』

 その試作体も三号を数えた。グラジダニン三号は今、抜刀葵を粛清するため動いている。実験結果は良好だが能力の発揮にややムラがあるとの報告が上がっていた。

 盾はグラジダニン三号のことを考えると叫び出しそうになる。理想とはいつも誰かの犠牲の上に成り立っていると思わざるを得ない。


 悪は滅ぼす。


 傲慢だろうか。正義とはいつも自己中心的な価値観のもと発動する。

 悪とは抜刀葵。予想だにしていなかった悪意の塊が一国の宰相となった。抜刀葵とは自分の野望がため人の命を奪うなど屁とも思わない。その悪党はこの国で最大の権力を手に入れた。迂闊だった、怠慢と謗られても反論できない。だから盾は急ぎ抜刀葵が作り出す悪を覆す存在とならなければならない。

 人類救済のためのシステムはすでにある。

 

「氷頭博士と連絡は取れたか」

 盾は土塀舎内で側近として近侍している男に投げるようにそう尋ねた。日本医師会を束ねるほど権力があるその男は、盾のそばで体を縮こまらせながらもごもごと何かを返す。男のさらにその横に立っている男は、自衛隊上がりという前歴からグラジダニン実験に駆り出されているとの報告を受けていた。

「組織を抜けたいと聞いた。ああ、ええと、」

「瀧夜叉。瀧夜叉誠」

「もと自衛官であるとか」

「陸上自衛隊に所属しておりました」

「なぜ抜ける」

「……」

「なぜ抜ける、のだ」

「……自分にはその、やはり国を守るなどといった大役は勤まらないと……」

 瀧夜叉はどうも、自分の頭の中で浮いては消える感情の残滓をうまく言語化できないようで、もどかしそうに口籠り首を掻いた。

「それで自衛官も辞したのかな?」

「いや、それは違います……」

 自衛官は、瀧夜叉が母の死に接したことで就いた職だった。高い志しに根差した行動ではなく、愛情を与えてくれた相手に少しでも顔向けできる人間になろうと思ったが故の選択だった。

「人を守れる人間になりたいと思いました。ですが自分は臆病者だったのです」

「私もだ」

「え」

 私も臆病だと盾は笑う。

「武器はいずれ手放さなくてはならない。銃もミサイルも、剣もすべて。しかし我々が立ち向かうべき悪はその手にたくさんの武器を持っている。このまま抗っても犬死だろう。だから今だけは武器を持つ、悪を討ち、武器を捨てるために。矛盾しているのはわかっている。人間とは矛盾を抱え矛盾を無視しながら生きていくものだが、それをもって言い訳にしようとは思っていない」

「実験とは結局人を殺すための準備ですよね……」

「君は蟻の一匹も踏まず今まで生きてきたのか?」

「それは……」違う。瀧夜叉とて自分の命が色んな生き物の犠牲の上で成り立っていることくらい理解している。土塀舎で活動をするようになってからは動物性の食物は一切摂っていないが、自衛隊に所属していた頃はほぼ毎日肉を食う生活をしていた。

「抜けてどうする」

 盾は頭ひとつ大きい瀧夜叉の小さな目を見つめた。物腰は柔らかく口調も穏やか、だが芯の強さがある。自己矛盾を肯定しつつ、揺るぎない意志のもと粛々と日々を送っている。それが盾多聞だ。

「これから雑誌の取材を受けるんだが、護衛を頼めるか」

「……ですから自分は」

「組織を抜けることはできない。高い志と固い結束、その上に我々の組織は成り立っている。誇りをもって我々とともに歩むことを決めたのではないのか」

 そのつもりだった。どれほどの意思とどれほどの熱量をもって臨んでいたかは思い出せないが、過去の瀧夜叉と今の瀧夜叉に断絶はないと、ほかならぬ瀧夜叉が思う。

「我々は数に訴えるような集団ではない、研ぎ澄まされた精鋭で構成されている。そのかわり同じ志でつながった仲間の絆は血よりも濃くなければならない。理想をかなえるためにだ」

 入るに易く抜けるに難い。そうでなくては秘密結社然とした組織の体裁は保てまい。そんなことは瀧夜叉にもわかっている。組織の構成員に警察関係の人間が多いのもそのためだろう。情報の漏洩は組織の瓦解に直結する。

「瀧夜叉くん」

「はい」

「自決用の短刀は持っているね」

「はい」

「再度組織に忠誠を誓うか、死をもって脱退とするか、好きなほうを選び給え」

「……」

「グラジダニン計画も三号を数え、ようやく軌道に乗りつつある。悪を刺しつらぬく剣が手に入らんとしている今、組織の結束はますます堅固であらねばならない。揺らいでいては理想は叶わないんだよ。この国を汚泥の底に沈めようとする悪、地獄の城に巣食った怪物を誅殺する準備が整ったのだ。綻びは許容できない」

「ほころび、ですか」

 あれほど生きることが面倒臭くなっていたというのに、今の瀧夜叉はこの状況を無事に脱することを考えていた。組織の存在意義に首肯する部分は大いにあるが。

 食べるのに生き物は殺さず、理想のため人を殺す、その矛盾。

「人ではない、悪だ」

「悪でも人でしょう」

「君は博愛主義者か」

「違います」

「君は羊を飼っている」

「は?」

「君は羊を飼っている。羊毛を得、毛糸を紡ぐためだ。毛糸を売り生計を立てているんだな。しかしこのところ羊たちが減っていく。それはもう目に見えて減る。ほどなくそれは狼が原因だと知れる。君はどうする、狼を放っておくか」

「お、狼が越えられないほど高く頑丈な柵をつくります」

「飲み込みが早くて助かるよ。柵は羊を放牧している土地すべてに作るのか? それとも柵で囲える範囲まで羊の行動半径を狭めるか」

「それが現実的な対処かと」

「家族が増えれば稼ぎも増やさなくてはならない、君は羊の頭数を増やすことにする。そのぶん柵を広げるのか? それとも羊たちにさらに窮屈な思いをさせるのか」

「それでも自分は」

「狼一匹殺せば、柵を作る必要はなくなるが」

 どう答えるのが正解だろう。瀧夜叉は迷う。少なくとも盾は倫理的な模範解答を求めているのではないはずだ。

「もっとわかり易いたとえにするか」

「あ、いや」

「君の家、今の家でも育った家でもかまわんが、庭で草花を育てていたことはないか? それに野良猫が小便をかける。小便をかけられた草花は枯れてしまう。どうする」

「自分はううん……放っておくかもしれません、花を枯らすといっても猫を追いやったりするのはどうも」

「猫が好きか」

「特別好きではないです。ただ、必要以上に動物を虐げることをしたくないだけです」

「君が大切にしている植物を傷めつける存在であってもか」

「はい」

「私はね、自分が大切にしているものを害する存在に容赦はできないたちなのだ」

 さあ短刀を出すのだと盾は言った。どうしたものかと瀧夜叉は思っている。どう脱出するか。

 道はいくつもあったはずが、どうしてこんな道を選んだのだろう。

 取材の時間が近い席を外すよと言って、盾は妙な汗を掻き続けている側近の肩を叩いて部屋を出ていく。

 その去り際に言う。

「そもそも私は猫は嫌いだ」

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