第18話
外観は四階建ての病院のような建物だった。駐車場に車を停め、警備の人間に話を聞くと裏口から入ることを許可された。高い塀と鉄柵で囲われた敷地。正面入り口にも四方の塀にも看板も何もない。集合場所でマイクロバスに乗り黙ってここまできたが、不信感がないわけではない。
裏口で数分待たされた。集まった男は
ある実験の警備と保守。それが瀧夜叉にくだされた使命。そしてその出自から中型車両の運転免許を持っていたことから移動のバスも運転してここまできた。小柄な中年男が最後にバスから降りてきた。それが蛙目だった。
鉄格子の向こう側の廊下には、まるで牢獄のように等間隔にやはり鉄格子の戸が左右に並んでいた。医師に指示されるがまま行きついた一番奥の部屋に瀬川はいた。
「……てもかまわねえ」
「え?」
瀧夜叉と蛙目では身長が二十センチほど違うため、瀧夜叉はずいぶんと前屈みにならなければならなかった。
「最悪殺しても構わねえ」
人の拳ほどもある南京錠を開け、鉄格子扉を開ける。洗面台とトイレ、壁に据え付けられたベッドが一床、その陰に拘束衣を着せられた瀬川はいた。頬がこけ、眼ばかりがぎょろりと鈍く光っている。
「これはリハビリの一環である。瀬川某は社会復帰するため、」
「ああそういうのはいいぜ博士よ、俺は知ってるんだ」
「ああそう」
蛙目に“博士”と若干虚仮にした呼ばれ方をされた若い医師の間には共通認識があるようだ。瀧夜叉の耳にそれが入れられないのはやや複雑な状況を
どこからかあらわれた数人の男により戒めを解かれた瀬川は、隅で膝を抱え俯いたまま動かない。医師が二言三言言葉を掛ける。あまりにも無反応で、まったくついていけていない瀧夜叉は気が緩んだ。
突如瀬川は獣のような声を上げた。咽喉が裂けてしまったのではないかと思えるほど罅割れて湿っぽく、胸の奥をささくれ立たせるような実に不快な声だった。
瀬川は開かれた鉄扉の隙に体を捻じ込み、めりめりと骨の軋む音を立てながら遮二無二廊下に躍り出ると、がむしゃらに駆けた。瀧夜叉は追う。多分それが瀧夜叉に与えられた使命だと理解したからだ。瀬川は階段の手前の格子戸にぶち当たり、力ずくで開けようと何度も何度も押し引きそして体当たりを繰り返した。
蛙目は警棒を手に、格子戸の前で暴れる瀬川に近寄っていく。瀬川はそれに気づいているのかひたすら喚き散らしている。人の力でどうにかなるわけもない。しかし瀬川は諦めず、びくともしない鉄の扉を開けようと暴れ続けた。
「……気のせいか?」
鉄と鉄が当たる音が次第に大きく、その間隔も開いてきている。
「まさか」
蛙目もそれに気づき、
「離れろ!」
蛙目が瀬川の背を打つ。瀬川はそんなものをものともせず扉をこじ開けようと鉄格子を握った手にまた力を込め、手前に奥に動かす。あきらかに扉に隙間ができている。瀧夜叉の横をまた人が走り抜け、瀬川の腰の下に肩から体当たりを喰らわせた。上背はないが体重は百キロを超えている。元相撲取りとか言っていたように瀧夜叉は記憶していた。
「邪魔をするな!」
瀬川は体当たりをしてきた男の太い首に手を回す。どうにもなるまい、ふたりの体格差は歴然であり、体の大きさとは多く生き物としての強さにつながる。ところが、
ぐうと喉が鳴った。瀬川の声ではない。瀬川は確かに満身力のこもったいな顔をしているが、呻いているのは瀬川に首を抱えられた男のほうだ。男は小刻みに体を揺らしやがて脱力して動かなくなった。締め落とされたのだ。
なんだ、どういうことだ、瀧夜叉は茫然とした。またひとり、瀬川にとびかかった。瀬川は獣のような声を上げ暴れるが、その攻撃はまるででたらめで、多少なりとも格闘技の経験がある人間してみれば見切るのも躱すのも容易だ。つい最前男の首を絞めあげた腕が赤紫に変色し、だらりと垂れている。筋を傷めたようだと瀧夜叉は判断した。蛙目も警棒を振り上げ加勢する。瀬川はいくら棒で殴られてもすこしも引かない。血に塗れた顔で歯をむき出し威嚇する。顔面に噛みつき鼻を食いちぎる。その目はもはや人のものではなかった。蛙目の悲鳴を聞き、瀧夜叉は瀬川の頭を鷲掴みにして、思い切り鉄扉にたたきつけ、何度も蹴りつけた。人相手の喧嘩なら負ける気はしないが、そのときの瀧夜叉は牙をむき出しにした野犬を相手にしているような恐怖があった。
ああ俺はいつも怯えている。
瀬川は結局骨折、内臓の損傷、
そんなことがあってから、数ヶ月後のこと。
瀧夜叉が寝起きしている事務室に事務長がやってきた。
「瀧夜叉くん」
事務長は挨拶もそこそこにテレビを点けた。画面の中を幾人もの人間が右往左往している。なにか大きな事件でも起こったようだ。画面のブレが酷い、直視していると酔いそうだ。
「あの」
「いいから視て!」
平素穏やかな事務長が興奮している。瀧夜叉もにわかに緊張してテレビ画面を注視した。どうやら通り魔事件でも起こった様子だ。警官そして機動隊の姿も見える。その物々しさに襲われたのは要人であろうことが推測できた。遠くに見える人だかり、背広姿の男性が倒れている。怒号と混乱。悲鳴。私服警官と思われる体格のいい男が数人、小柄な男を地面にねじ伏せていた。
腹部から血を流し倒れているのは平坂学だ。平坂首相はとある知事選の応援演説に訪れ、その演説中に襲い掛かってきた暴漢に腹部を刺され、腹部大動脈を損傷。救急搬送されるも治療の甲斐なく失血性ショック死でこの世を去ることになる。
事務長は頬を紅潮させていた。
「そうだ、死ぬべきだ。よくやった」
瀧夜叉は困惑した。
「よくやった?」
「そうだよ。害虫は駆除されるべきだ」
「害虫……?」
事務長をはじめとして、土塀舎の集まりなどで顔を合わせた人間から政権批判はよく耳にしていた。太陽光発電を主とした環境保全事業の縮小を推進する平坂首相と、自然に寄り添って生きることを一番に考えている土塀舎とは相容れないだろうとは思っていたが、そこまであからさまな反応を見せられるとさすがに瀧夜叉もどうしたものか判断に迷ってしまう。しかし次に事務長が発した言葉は、瀧夜叉にさらなる衝撃を与えた。
「よくやった、瀬川」
「……瀬川?」
現行犯逮捕されたのは、瀧夜叉があの警察病院のような施設で会った男、瀬川だった。
「ど、どういうことですか……?」
「どうもこうもあるか、この国を取り戻すその第一歩じゃないか」
この国とは日本のことか。取り戻すとはどういうことだ。事務長のどこか浮かれた様子に、瀧夜叉はそれ以上なにも言うことができなかった。
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