第16話
くわえていた煙草を車内の灰皿で揉み消すと、ミント味のタブレット菓子を手にあふれるほど取り出して音を立てて噛み砕いた。
喫煙者は淘汰されていくべきだろうと、筋金入りのヘヴィスモーカーである櫛引ですらそう思う。喫煙者しかいない空間であるなら兎も角、そうではない場所、そうであると確認できない場所では吸わない。これ以上肩身の狭い思いをしたくない、煙草は毒なのだ。
前首相である平坂学亡き後の栄光党、その支柱となるべき
槐智則という議員の涼やかな佇まいは、あまり政治に興味がない層にも響く。見栄えがいいのは政治家に限らず人生において大きな武器になる。
見た目で政治をするわけではない。そんなのは綺麗事だ。
人を見た目で判断するな。そんなものはもっと綺麗事だ。
見た目で好悪を分けることを下品とするなら、どうしてこの国にはいまだに外見で人気を得ている三一アイドルが蔓延っているのだろう。
わかり易く手術を施した顔面に、それが流行っているのですと誰かが言っているだけの浮ついた化粧をし、突拍子もないデザインの衣装を着る。それでも歌や踊りが鑑賞に耐えうるものであるなら多少はましで、大抵のそれが大手事務所所属というだけで、何の職能もなく、歌も演技も下手であろうと映画やドラマの主演を張る。
そもそも、見た目に拘らないのが当然の世の中であるならば、太っていようが老けていようが歯が抜けていようが片足がなかろうが構わないはずだが、実際はそうではない。いや、本音と建て前と言うべきか、オフィシャルとアンオフィシャルと言うべきか、表面上は平和主義者で人は平等であることが当然と宣っている人間が、実際は階級意識の強い差別主義者だったなどといった話は枚挙にいとまがない。世界的な風潮も手伝ってその手の二面性を持った奴の仮面が、ただその分厚さを増したに過ぎない。
つまり今は、外面がいい奴が得をする世の中になのだと櫛引はつくづく思う。正直は美徳ではないと常々思っているが、今の社会はまるで二つの顔を持つことを奨励しているようなものではないか。大人になるのはそういうことだと顔を顰めていた若い頃の自分に、世間に合わせ取り繕わないとまともに仕事ができない社会が来ることを是非教えたい。
櫛引は新しい煙草を引き抜いて口に銜えた。
その社会の基礎をつくるべき人間たちはいま、権力争いばかりしている。そんなことでまともな世の中になどなるまい。
醍醐派の大量離党の余波は大きすぎた。ほぼ四半世紀ぶりに、議員数第二位である平和党の協力を得たところで、栄光党の政権維持は難しいだろうと誰しもが思った。離党した醍醐士郎の動向も気になったが、議員数第三位である友和未来の獲得議席数次第では野党大連立が成立、半世紀を越えた宿願、打倒栄光党が叶う瞬間に立ち会えるかもしれないと心が躍ったものだ。
ただあの瞬間、醍醐士郎とともに栄光党を抜けた盾多聞元法務大臣が、いち早く新党を起ち上げたことは素直に驚きだった。
櫛引は漫然とした思考を打ち切り運転席のシートで伸びをした。
頭の隅にいつもある、ある事件。
四十四人殺し。
そして前代未聞の速さでの死刑執行。
実は櫛引は、早い段階で被告人から手紙をもらっていた。いまどき直筆の手紙でである。冤罪を晴らしてほしい、手紙の内容を端的に要約するならそうなる。本当に冤罪なのか。当然櫛引は、そこを立脚点として取材をはじめた。
被告人の名は
とある地方都市の地下にある小さなライブハウス、そこが現場だ。
一か所しかない出入り口(その時点で消防法に抵触しているが)を外から塞ぎ、村雲自身はガスマスクを装着して通気口から侵入。客席に向け催涙スプレーを噴霧し、目と気管の異常にパニックとなった観客に襲い掛かった。
まさかりで首を叩き切り頭蓋をかち割り、刃が
そうして四十四人。
奥の楽屋で出番待ちをしていたインディーズバンドは、会場の絶叫を聞き様子を見に行くもあまりの惨状に慌てて楽屋にもどり鍵をかけ無事だった。
当時熱心なファン数人が、所属していた大学のサークル内で観客を勧誘し、チケットがまるで売れてなかった定員百人の箱をどうにか八割ほどまで捌いたそうだが、実にその半数が殺されたことになる。(警察側が提示した)殺害の動機は、村雲は熱心な仏教徒である。悪魔崇拝と噂されたバンド、それを好んで集まるファンもまた同じ思想である。だから殺した……のだろう。
櫛引の調べでは、たしかに悪魔崇拝などいう日本ではあまり馴染まぬ噂が流れる
つまり
村雲は一貫して容疑を否認。件のライブハウスもその存在すら知らないと取り調べで答えていたという。
まさか死刑確定後ただの一月で刑が執行されるとは思いもしなかった。
村雲は孤児である。彼の母も父も所在不明。殺人者となり死刑が執行された今となっては余計に名乗り出ることはないだろう。
浄土真宗系の寺院が経営する孤児院で中学卒業まで暮らし、その後工場に就職した。
櫛引は村雲の育ての親であり、孤児院『くものいえ』を運営している斉藤雄言和尚に会い話を聞いた。和尚は絞り出すように、静かな子でしたと伝えるのが精一杯のようだった。
育った環境が人格形成のすべてとは言わないが、けっして少なくない影響を及ぼすことを知っている。櫛引は一通り村雲の育った環境を見て、会える限りの関係者に会ったが、その冤罪を晴らす情報を得ることはできなかった。内向的な性格をしていた村雲は、普段何を考え何を好みどうありたいと願って生きていたのか、まわりの誰も知らない。どんなことに喜びあるいは憤っていたのか。
生活は楽ではなかったようだ。就職先の工場も給料がいいとは言えず、家も賃貸の安アパート、車ももてず冷房も買えず、それでも借金はなかったようだ。ただそれは、派手に酒を飲むわけでも女遊びに現を抜かすわけでもなく、趣味に大枚はたくわけでも、賭け事に入れ揚げるわけでもないといった、極めて地味な村雲の暮らし向きのせいだろう。
櫛引の目から見ても、村雲雄姿郎という男はいったい何を楽しみに生きているのかわからなくなるほどだった。
しかしなにぶん東京から遠い。すぐに取材は滞り、急ぎの仕事をやっつけている間に村雲の死刑は執行されてしまった。死刑判決からただのひと月、控訴もさせない恐るべき速さ。不穏極まりない、必ずなにかある。残念ながら刑は執行されてしまったが、これは取材を続ける意義があるように思えた。
ただ、櫛引は出版社の中でも古参の記者であり、それなりの立場、地位がある。わがままを言って現場に出ているが、会社に抱え込まされる仕事も増え、けっして身軽ではない。後輩もちゃんと育てろと上司から言われてもいる。そんなものすべて打っちゃって思い通りにやるべきだろうと思うのが偽らざる本音なのだが、そんなもの糊塗できてしまうほど櫛引の外面はいつの間にか分厚くなっていた。あれほど嫌った外面のいい人間になってしまった。
だから煙草でも吸って精々汚い大人を気取るのだ。
今日も結局時間は取れず、この頃東京近県で連続して起こっている猫の惨殺事件の取材に来ていた。犯人の目星はついている、あとは現場を押さえればいいだけだ。
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