閣下、心の声が駄々洩れです。


 広々とした執務室には、辺境伯カイル・レグラードの静かな威圧感が漂っていた。


 窓から差し込む陽光は、深い木目の机に整然と積み上げられた書類を照らし出している。


 その中心にいるカイルは、紫の瞳を鋭く細め、唇を一文字に結んでいた。


 机の上には、使われたばかりのペンが転がっており、彼の黒い手袋をはめた手は顎の下で組まれ、全身が彫像のように微動だにしない。


『あぁあああああああああああああ!!!!! めっちゃかわいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!!』


 突然、胸の奥底からこみ上げる感情に押し流されそうになり、カイルは己の内心を奮い立たせた。


『いかんいかん。冷静さを取り戻さねば』


 カイルはそのままの体勢で、ゆっくりと深く、細く長く息を吐いた。


 ふと、つい先刻の魔獣討伐の記憶が頭をよぎる。


 戦場に立つコーデリアの姿。


 鋭く的確てきかく剣捌けんさばき、無駄のない魔法の発動。


 そして、抱き寄せた時、こちらを見上げたあの涼やかな水色の瞳――どこか憂いを帯びつつも、凛々しさの中に覗く無垢むくな光。


 その瞬間、カイルの胸は締め付けられるような感覚に包まれていた。


『なんだあの可愛い生き物は! 俺の奥さん!? いや、奥さんになるんだよな、コーデリアがっ!! いや、奥様だ。奥様。俺の妻、奥様。奥さん。嫁さん。家内。いやもうなんでもいい!! いやでも待て、もう一回確認しよう。――俺の奥様めっちゃ可愛くないか!? なんだよ、可憐くて凛々しいの。反則だろ!』


 カイルは両手で顔を覆い、がくりと机に突っ伏した。


 次いで脳裏に浮かぶのは、討伐とうばつの際の記憶――崩れ落ちた壁石から彼女を庇おうと腕を引いた瞬間に感じた、華奢きゃしゃな身体の中に隠されたしなやかな筋肉の感触。あれは、鍛錬たんれんを積み重ねた者にしか備わらない確かな力だ。


 そして、戦闘の余波よはで裂けたドレスの隙間すきまから、ほんの一瞬だけ見えてしまった健康的で美しい脚。


「ぐはっ!」


 突如、カイルは激しい悶絶に襲われ、椅子ごと音を立てて揺れた。


「――閣下、心の声が駄々洩だだもれです」


 執務室の片隅で書類の束を手際よく整理していたフェンネルが、冷ややかな視線を向けて言い捨てた。


「――気のせいだ。で、報告は?」

「ええ、では報告を」


 フェンネルは特に気に留める様子もなく、淡々と語り始める。


「最初に立ち寄った街で、閣下のご指示通り、奥様の護衛として同行することに成功したのは既にご報告申し上げましたが。……それよりも、なによりも、ご命令に従い三ヵ月前から、遠巻きに監視をさせていただいていたのですが、――奥様はマジでヤバいです」

「は?」


 思わず顔を上げたカイルに、フェンネルは形のよい眉をひそめながら、不服そうな表情でやや顔を背けてこう述べる。


「見事にまかれました」


 その一言に、カイルは軽く片眉を上げた。


「なにをだ? 水でもまかれたのか?」


 冷ややかな口調で尋ね返すと、フェンネルは力強く否定した。


「違いますよ! 奥様に、まかれたんです! 俺が! いやしくも閣下の影たるこの俺が、一介の伯爵令嬢に出し抜かれたんですよ!? 一体何者なんですか、コーデリア様は!」


 信じられない、と声を張り上げるフェンネルは、肩をがっくりと落とし、全身で敗北感を表していた。


「陰ながらコーデリア様を守れ、との閣下のご指示でひっそり見守り申し上げておりましたが……尾行すれば確実に気づかれ、撒かれます。行方を追おうとしても見失うばかり。屋敷に忍び込もうと試みても、防犯用の結界が強力すぎて、一歩も足を踏み入れられませんでした……」


 ナンナノ、あの結界。


 と呟きながら、フェンネルは己の無力さを嘆き、頭を抱えるようにため息をついた。


「それに、夜になると毎晩こっそり馬を駆って近場の森へ出向かれるんです。あの森も何なんですか。入ったらいつの間にか別の茂みから出る仕掛けでもあるんですか? まるで呪いがかかっているみたいで、正気を疑いそうになりました」


 肩を震わせながらさめざめ泣くフェンネルに、カイルは心の奥で少しだけ申し訳なさを覚えつつ、顔には出さないまま口を開く。


「わかった。続きを話せ」


 言いながら、机の端に置いていたハンカチを掴み、それを無造作むぞうさに放り投げた。フェンネルはそれを視線も向けず片手で器用にキャッチし、鼻をブーンと音を立ててかんでから、ようやく気を取り直して話を再開した。


「道中では安全を確保しながら情報を収集しておりました。御者のジェロームから得た話によりますと、彼はルゼンティア伯爵夫人に雇われ、最初の街で奥様を置き去りにするよう指示されていたそうです。ただし、本来の命令はさらに陰湿いんしつで、追加の報酬を約束され、道中でゴロツキを雇い、森で奥様の命を奪う計画だったとのことです」


 フェンネルが語り終えると、カイルの瞳が鋭く細まり、紫の光が冷ややかな光を帯びて宿った。


「……やはりな」


 低く絞り出すような声に、抑えきれない怒りが滲んでいた。カイルは唇の端をわずかに歪め、深い木目の机を軽く指で叩いた。


「ルゼンティア伯爵夫人と義妹の評判を調べましたが、事前の報告書通り、散々なものでした。金遣いが荒いのはもちろん、閣下が事前に渡された支度金も使い込まれたようです。それだけではありません。コーデリア様が社交界で悪女扱いされる原因も、どうやら彼女たちが仕組んだ謀略ぼうりゃくによるものらしいですね」


 フェンネルが言葉を続ける。


「それにしても、コーデリア様はほとんど社交に顔を出したこともないというのに、悪女だという噂ばかりが広がっているのは妙ですよね。普通、そんな根も葉もない話がこれほど広がるとは考えにくい。やはり彼女たちが手を回しているのでしょう」

「だろうな。全て想定内だ。――それで?」


 執務室に差し込む夕陽が、広々とした机の上を朱色に染めている。


 カイルはペンを手に取り、書類にサインを始めた。積み上げられた山のような書類を前にしても、その動きに迷いはない。だが、どこか冷徹な瞳の奥に微かな苛立ちが滲んでいるように見える。


「ルゼンティア伯爵家の財政状況ですが、報告書の通り、芳しいどころではありません。特に、伯爵夫人との交渉で決まった金額を当家が支払わなかった場合、好色で有名なルーヴェニック伯爵が動く可能性があります」

「ルーヴェニックか」


 カイルが鋭く瞳を走らせるのを見やり、フェンネルは同意を示しながら続ける。


「彼は以前からコーデリア様を後妻に迎えたがっており、その意欲も現在に至るまで極めて高い。ライグリッサ辺境伯家にコーデリア様が迎え入れられたという噂を流してもなお、諦めるどころか、さらに燃え上がっていて始末に負え――。いえ、とにかく、あちらは鉱山があり資金は潤沢じゅんたくです」


 途端とたんに、カイルの手元でペンが甲高い音を立てて折れた。滲み出た黒いインクが書類を汚し、机の上には小さな黒い水たまりが広がる。


「厄介だな」

「ええ、全くです。それと、もうひとつ。先刻の討伐した魔獣について――」


 唐突に控えめなノックの音が静かな部屋に響いた。


 執事アルマーの声が扉越し聞こえる。


「閣下、使用人頭のマートルが侍女のイェニーを連れて参りました」

「通せ」


 カイルが短く指示を出すと、扉が開き、マートルとイェニーが現れた。


 マートルはカイルに一礼すると、すぐに部屋の隅で控えていたフェンネルを鋭い視線で捉えた。その容赦ない目つきに、カイルはわずかに興味を抱き、片眉を上げる。


「どうした。珍しいな、マートル」

「旦那様、少々愚息ぐそくをお借りしてもよろしゅうございますか?」

「……何か問題が?」


 問いかけに、マートルは三角眼鏡をわずかに押し上げ、冷徹な笑みを浮かべた。


「我が息子ながら、恥ずかしい限りではございますが、護衛として奥様に同行しておきながら剣を握らせるなどという失態を許すわけには参りません」


 その言葉が終わるや否や、マートルはフェンネルの耳を鋭く引っ掴み、容赦なく引きずり出した。


「行きますよ、フェンネル。お父様に鍛え直していただきます」

「母さん!? ちょ、待て――痛い痛い、やめてぇええええ! ねぇさん、たすけてぇええええええええ!」


 フェンネルの悲鳴が廊下に響き渡りながら遠ざかっていく。カイルはその様子を一切表情を変えずに見送り、隣で控えていたアルマーが軽く咳払いする音だけが静寂せいじゃくを破った。


「……で、イェニー。お前はどうした。何があった?」


 鋭い視線がイェニーに向けられる。その冷静さに圧倒された彼女は、僅かに身を竦ませながらも口を開く。


「それが……」


 声は戸惑いを帯び、わずかに震えている。


 とつとつと彼女が語る一言一言をすべて聞き終わる前に、カイルの拳が机を叩いた。


 インクにまみれた机の上で、さらに黒い飛沫しぶきが散り、書類や衣服、そして彼自身の顔までもが汚れていく。だがその表情は微動びどうだにせず、冷たい怒りだけがその場を支配していた。


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