緋色のコード
鳥羽 架
01 完全自治区弦巻町
第1話 不思議と前進
—間もなく終点、由布黒に停車します—
バスから流れる腑抜けた音声で、俺は目を覚ます。寝起きの体をぐいと伸ばすと、からっぽの車内に突き刺さる、強い陽射しに目を細めた。そばに置いていたギターを掴む。
—由布黒、由布黒です。ご乗車ありがとうございました。お忘れ物にご注意ください—
長い時間をかけて狭い山道を抜け、少しひらけたところでバスが停車した。
重たい腰をあげ、バスを降り、俺は辺りを見渡した。まだまだ狭い道が続く。その先には、やけに背の高い、白い壁。目的地、弦巻町への入り口だ。
電車で四時間、バスで二時間。ここまでの苦労を思い返し、俺は再度、思いっきり伸びをする。
振り返れば、木々に覆われる、長い長い坂道。こんなところを通ってやってきたのか。
風に揺れ、木々がざわざわと音を立てる。鼻腔を掠める大自然の香りは、バスに揺られくたびれた俺の体を、少しだけ、ほんの少しだけ癒してくれた。
腕時計は、長針も短針も上を向いて、昼真っ只中を指し示す。対して俺は、下向きため息後ろ向き。
「行くか…」
ギターを背負い、猫背の背中を更に丸めて歩き始める。きっと俺は、月曜の朝みたいな渋い表情をしていることだろう。
さて、どうして俺が貴重な日曜日、せっかくのゴールデンウィーク最終日を潰してまでこんな山道を歩いているのか。当然事情がある。
親父の仕事の関係で俺は、”仕方なく”引っ越すことになったからだ。
仕事で家にいない親父の分まで、母さんと荷造りやら詰め込みやらをしている最中、引越し業者が言ったらしい。
「せっかくでしたら、助手席余ってますんで、このまま荷物と一緒に乗って行くのはどうですか」
トラックの助手席に乗って、引越し先の町まで送ってくれるらしかった。
ちなみに、そもそも俺はこんな話を知らなかった。後から母さんに聞いた。
つまり…俺はたった一つの助手席を奪った母さんを許さない。もう高校生だから、そんな曖昧な理由で俺に六時間超の移動を強いた母なる怪物は、もうすでに町に着いているのだろうか。
俺は舌打ちをして足元の小石を蹴る。近くの木にぶつかって、石は明後日の方向へ飛んでいった。
心の中で恨み言を呟くうちに、俺は山道の突き当たり、白い壁まで辿り着く。壁にはくり抜かれた重厚な扉がついていた。
肩車しても届かなそうな高い壁は、まるで町への侵入を拒んでいるみたいだった。引越しに後ろ向きな俺だから、余計にそう見えてしまうのだろうか。
扉、もとい壁の前にはぽつんと椅子が置かれており、そこに髭面の男が腰掛けていた。
腕を組んだままうとうとする男には、腰掛け、よりかは眠りかけ、と言った表現が合っている。
極力他人と会話はしたくない。俺は忍び足で横を通り、男を起こさないように扉に触れる。
しかし。押しても引いても念じても、扉はびくともしやしない。よく見れば扉の中央には頑丈そうな錠前が位置している。左右はひたすらに壁が続いており、他に入り口がある様子はなかった。
「…なんで入り口がこんな門しかねえんだよ」
小声で呟き、俺は扉をこつんと叩く。どうしたものか。…もういっそ帰ろうか。などと、辺りをうろつきながら考えていると、
「おいおい坊主、俺に話しかける択はないのかよ」
しゃがれ声が話しかけてきた。起きていた?驚いた俺は、声の主、座っていた男を振り返る。
こちらに向き直り、腕を組んで男が笑っている。
俺が返す言葉に困っていると、見かねた男が口を開いた。
「…まぁいい。んで坊主、この先になんか用か?」
「はい」
ふたたび沈黙が流れる。耐えきれず、俺は意味もなくギターを担ぎ直す。
はい、いいえでは済まず、どんな内容か聞かれている。そのことに、俺は数秒経ってようやく気づいた。
「…ったく口下手な奴だな。名前は?」
言われ慣れた言葉に、俺はぎこちない笑み浮かべ、歪な形のその口で返事をした。
「…黒木です。黒木大河」
「あーっと、はいはい。さっきの奥さんの息子か。なるほどね。引越しご苦労さん」
納得といった表情で腕を組み直し、男は頷く。立ち上がり顎髭を撫でてまじまじと俺の顔を見た後、もう一度首を縦に振った。
「だったら。通さない理由もないかぁ」
男は気だるげに腰を上げると、ポケットから鍵を取り出し、開錠した。男が扉を押すと、鈍い音を立てて開き、町への侵入が可能となった。
「…えと、ありがとうございます」
「あん?俺がここで何してるのかって?」
「いや、聞いてな…」
「よく聞いた、坊主。俺は見ての通りここの門番をしている。けどよ、人が通ることなんて滅多にないんだ。今日は三人も通っているが、こりゃ相当珍しいな。普段は一週間で一人通るか通らない程だ。一月誰も通らないこともザラにある」
俺の訂正を無視して、男はよく動く舌で止めどなく語る。
「その。だから…」
「え?誰も来ないのに俺はここでどうしてるかって?そりゃもちろん暇よ暇。だからこうして時々人が来てくれると、たっぷり話をしたくなるわけよ。よし、ここはひとつ俺の昔話でも…」
「聞いてないで…」
「あれはもう三十年前のこと。京間区住みのサキちゃんに呼び出された俺は…」
背中のギターをずっしりと重く感じた。このまま突っ立っていたら潰れてしまいそうな錯覚に陥る。
「あ、あの。もう行きます!」
俺は男の言葉を遮った。ちょっと語気が荒かったかも、そんな杞憂で無意識に顔を歪めた。
「ははっ、そんな申し訳なさそうな顔するなよ。俺が勝手に呼び止めてんだ、坊主が気にすることはねぇ。あぁ、ちょっと喋れて気晴らしになった。ありがとよ」
おどけて男はそう言った。椅子に座ると俺に背を向ける。そのまま男は、顔も合わさず話を続ける。
「それじゃあ気を付けて。またな…じゃなくて、さようならがいいか。もう二度と会うことはないしな。それと…そうだ坊主、黒い空には気ぃ付けろよ」
男の言葉がひっかかり、俺は質問をしようとして、やめた。代わりに呟く。
「さようなら」
扉をくぐり抜ける寸前、ふと後ろを振り返ると、ひらひらと手を振る男の背中があった。
五月の風に急かされて、扉は音を立てて閉まった。
扉をくぐった先は至って普通の町だった。案外閉塞感は無い。土地が余っていることを主張するかのような広い道、間隔を大きくあけて立ち並ぶ民家。人通りはほとんどない、静かな並木道。
強いていうなら、辺りは紛うことなき田舎町だというのに、ずっと遠くに都会顔負けの背の高いビル群が見えることと、
「たっか…」
そのビルや先ほどの入口の壁の高さをも凌駕する、圧倒的なタワーが建っていることだろうか。
ポケットから携帯電話を取り出し、俺は母さんからのメールを確認する。「ひばりが丘団地に向かって。着いたらメールよろしく」俺は思わずため息をつく。文章から察するに、電話をかけても母さんは応じない。これでは道がわからないので、人に尋ねるしかない状況に落胆する。
人通りも少ないが、そもそも見知らぬ人間に話しかけるなぞ俺には不可能に近い。
「帰りたい…」
絶望に打ちひしがれる俺の横を、二十歳前後の男が通った。恐怖を消して挑むしかない。俺は意を決して、
「す、すみません!」
「はい?」
男は立ち止まりこちらを振り返った。その怪訝そうな目が、俺の緊張を掻き立てる。
「あ、えっと、道を聞きたくて」
「ふーん。…君さぁ、どこに住んでるの?」
男は右手を首に当てながら、うつむき加減にそう聞いてくる。
「ああ、今日引っ越してきて」
「あ、余所者か。そう、じゃあね」
男は俺を一瞥すると去って行った。首元に光る柄の悪そうなネックレスに、俺は恐怖を覚えた。
男の不快感のすべてをネックレスになすりつけたのだと思う。あの男を心の中でなじる肝すら、俺は持ち合わせていなかった。
「やっぱ帰りたい…」
男が去って、ふたたび俺は立ち尽くす。
コミュニケーションという難題を日々当たり前のようにこなす全人類に、ただただ俺は畏怖の念を抱いていた。会話もできないのか…、俺はもう死んだ方がいい。どうしてもマイナスに考えてしまう。そんな自分をまた嫌悪。
ふと俺は、人のいないこの道を不気味に思った。大通りであろう広い道は、やけに閑散としている。
いくら田舎と言えど、日曜日の真っ昼間にこんなに人がいないものだろうか。
この町は、なにかおかしい…?
なんだかさっきから弱腰だ。だが、ひとつ気になると疑心暗鬼が止まらない。
山の上に隔離されていて、町に入るには厳重な門をくぐる必要がある。何故?果たして入り口の変な男は(決して悪い人では無さそうだが)何者なんだ?さっきみたいな余所者を嫌う人間がいる中、この町で俺はやっていけるのか?
「しんぱい?」
「わっ」
急に耳元で囁かれて大河は思わず声をあげた。乱れる思考が突然遮られ、パニックになりかける。
慌てて俺が振り返ると、初夏だというのに、真っ黒いコートを身につけた長身の女がそこにいた。
本当はつまらないのに笑っているような、女の冷たい笑みを不気味に思う。愛想笑いが得意な俺だから、気づけてしまう違和感だった。
「今は礼拝の時間だもの。外に出てるわけないじゃあないか」
覗き込むような姿勢のまま、女は俺に語りかける。その甘い声色は、状況が状況なだけにかえって不気味に感じた。
俺は悪い目つきを更に鋭利に尖らせて、でも必死に女からは視線を逸らした。
「てゆーか礼拝のこともわからないってことはキミ、もしかしてこの町の人じゃあないね」
「あ、いや今ちょうど越して来て」
俺は来た方向を振り返る。
が、道がない。
「は?」
慌てて俺は辺りを見回す。しかし先ほどまでの並木道の景色はない。
周辺は靄に包まれていて、遠くが見渡せない。まるで俺と女の周りだけが切り取られているようだった。戸惑う俺を無視して、女は話し続ける。
「そんなことよりそれってギター?かっこいいね!音楽できる人憧れちゃうなぁ」
整理が追いつかず話が頭に入ってこない。俺が口をぱくぱくさせている間も、ぺらぺらと女は話を続ける。
「ひばりが丘団地はこの先。角を左に曲がったら、土地が高くなってるところがあるから。看板もあるしだいじょぉぶ」
「あ、ありがとうございます…」
まるで心を読んだかのように、女はてきぱきと俺が知りたいことを教えてくれた。混乱しながらも俺は礼を言う。
「いいってことよ!…それよりさぁ、キミ」
女は俺を上から下までじっくりと見て、不敵に笑う。
「からっぽ、だね」
意味がわからず固まる俺を気にも留めず、女は続ける。
「やわな心じゃツルマキは危険だよ。せめて自分を認めてあげないと。じゃないとさぁ」
女は一呼吸おく。その間は、例えるなら粘着質で、俺には何十分にも長く、厳かに感じられた。
「殺されちゃうかもよ?」
冗談、じゃないのだろう。本能的に俺はそう思った。先ほどまでの朗らかなテンションとは相反する、凍りついたような響きだった。
「じゃ、特別にあたしから警告だよ!」
突如悪寒がする。俺は反射的に目を瞑る。直後、
「”じゅうじ”と”どろ”にはきをつけろ」
突如文字列が頭に浮かび、意識が朦朧とする。
数秒の金縛りの後、ふっと息を吐き、目を開くと女の姿はなかった。額が汗ばんでいる。
「”じゅうじ”と”どろ”…?」
夢か現実か、たしかに受け取った言葉を呟き、反芻する。
「わけ、わかんねえ…」
しばし俺は無言で地面を見つめていた。
「けど…」
自然と口角があがる。恐怖と混乱の先にあったのはまさかの興奮だった。俺は、自分の感じたものに少しばかり戸惑う。
顔を上げる。額に吹きつく風が気持ちいい。
「行くか。…行ってみるか」
俺は足元の小石をまっすぐ前に蹴り飛ばした。
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