七 «Семь»

「まだ揺れるぞ。うわっ、危ない!」

 突如船体が横に傾き、青い海中が窓から覗いた。刹那、船員室は悲鳴に包まれる。轟々と籠った怪音の響く船内で、猟人たちは転げ落ちてしまわない様に必死で壁に掴まり、激しい揺れに耐えるしか無かった。壁を隔てた前方の部屋から、何か荷物が崩れる様な大きな音が聞こえた。

「さっきより風が強いぞ!」

 そう叫ぶルオ・ユエの声には絶望が滲んでいた。部屋の真ん中に座るメチェレフも、半ば諦観の念を持って青い泡沫が見え隠れする窓の外を澱んだ眼差しで眺めていたが、思いついた様にはたと太腿を叩くと、鋭い目を大きく見開いて皆に呼びかけた。

「こうなったらやむを得ん、備蓄用の食料を半分海に捨ててしまおう」

「良いのか?勝手にそんなこと」

「責任は全て私が取る」

 メチェレフの青灰色の瞳は不安そうに揺らぐシュー・ヤンの目を真っ直ぐ捉え、白い手が両肩をがっしり掴んだ。

「だからシューヤン、そこの指揮は君に任せたい。魚艙の隣に第一倉庫がある。その中の木箱に食料が入っているから」

「わかった。任せてくれ」

 普段では考えられない程の彼の気迫に気圧され、シュー・ヤンは力強く頷いた。メチェレフは安堵した様に一瞬顔を綻ばせたが、直ぐに口を真一文字に結ぶと彼の手を取って強く握った。

「運ぶ時も船全体のバランスを忘れずに、だ!」

 それだけ言い残して操舵室へと駆けていくメチェレフの背中を見送ると、取り残された猟人たちは一斉にシュー・ヤンの方を見た。壁に手を付きながら第一倉庫に続く狭い廊下を一列で歩くと、先頭の彼はドアを開ける。地下魚艙の上の空間を利用したその倉庫には、メチェレフの言った通り所狭しと木箱が積み上げられていた。そのうちの数個は先程来の激しい揺れで地面に落ちてしまっていた。船体の中央部に配置されたその倉庫は、右舷側と左舷側どちらにも扉がついている。シュー・ヤンは当たりを見回し、木箱を数え、暫しの思案の末指示を出す。

「黒パンはそのまま、まずは重い缶詰を運びだそう」

「左右の扉どちらも使った方が良いな。二手に分かれて、ドアの所で受け取る様にしたらどうだ」

 そのサミュエルの提案を聞いて、ルオ・ユエは胸をドンと叩いて一歩進み出る。

「じゃあ、俺とシュー・ヤンで荷物を仕分けよう!腕力には自信があるぜ」

 乗組員たちは拳を突き上げ、ウラ«Ура»と一声大喊を上げた。こうして運び出されたセリョートカの木箱は、禍々しい怪物の様な黒い海に次々と飲み込まれ、儚くも荒波に噛み砕かれて行った。

 一方その頃、ニコラエフの操舵室に駆け込んだメチェレフは息を切らしながら状況を報告した。

「今、船体安定の為に載荷の一部を海に投棄している。船長、そっちはどうだ」

 ニコラエフは咥えていた葉巻を乾燥した唇から離すと、鋭く煙を吐いて前方を指した。

「おう、視界が悪くて動こうにも動けん。風が弱まり次第今日はこのまま港に帰るが、良いな?」

 そう言って振り返るニコラエフに、メチェレフは頷いてドアノブに手をかける。

「勿論だ。近くに氷山が無いか猟人に見張りをさせよう」

「頼んだぞ」

 返事を待たずに行ってしまったメチェレフの背中に向けて、ニコラエフはそう呟いて親指を立てた。

 半分の積荷を捨て終えた猟人たちの元に戻ったメチェレフは、視界の悪いなかで座礁を避けるため、十分ずつ交代での見張りを指示した。猟人たちは五人四班に分かれ、最船首の楼甲板の上に三人、その下の甲板の上に左右一人ずつの定位置に着くと、白い絵の具の様に濃い吹雪の中で懸命に目を凝らした。楼甲板の上に登った三人もまた、見張りをしながら海に投げ出されぬ様にと必死に手摺りに掴まっていた。ふとシュー・ヤンが目線を船の真下に落とした時、彼は刺々した海面にこんもりと浮かぶ、よく見慣れた丸い背中を認めた。それは数頭の群れを作り、ゆっくりと波を裁つ舳先の前でクルクルと旋回している。

「おい見ろ、海牛が」

 シュー・ヤンが下を指差すと、その海牛たちは水面に顔を出した。つぶらな真っ黒な瞳で彼らを見つめながら、冷たい水の下では朗らかにヒレを揺蕩わせている。手摺りから身を乗り出したルオ・ユエは、呑気に波と遊ぶ海牛たちに向かって唾を飛ばす。

「ったく、こんな時にも……命拾いしたな、お前ら!今はそれどころじゃねえんだ」

「彼奴ら、人間ならとっくに詐欺師に騙されて野垂れ死んでただろうな。お人好しすぎてさ」

 そう言って苦笑いするサミュエルに、シュー・ヤンは無言で頷いた。否、善良な性質が仇になるのは人間だけではないだろう。我等、彼等が全て弱肉強食の「営み」の中に組み込まれている限りは……そんな考えが暫時彼の頭に過ったが、突き刺す様な白い北風に吹き飛ばされてしまった。

 乗組員たちの努力の甲斐もあり、それから一時間も経つ頃、非常にゆっくりとした速度で旋回し、南南西方向に進んでいたメンシコフ号は、無事にブリザードを突破した。船員室に戻った彼らは、メチェレフからその吉報を聞くと抱き合って喜んだ。丸くくり抜かれた窓の外には、まるで先程の悪夢が嘘の様な、清々しい青空が広がっていた。


 凡そ三時間もの間海を彷徨った一行は、昼前にセルゲーエフ島に帰還した。先程まで氷点下の酷寒に曝されていたシュー・ヤン達は、頭上に降り注ぐ暖かな陽光に思わず手をかざした。皆が口々にお互いを讃え合い安堵の溜息を漏らす中、波止場に一歩降り立った途端、激しい揺れに目を回したメチェレフは安心して身体から力が抜けると、その場にバッタリと倒れてしまった。ニコラエフはそんな彼の隣にしゃがみ込むと、長時間吹雪に曝されて冷えきった頬を叩いた。

「でかしたメチェレフ、お前の漢を見たぜ」

 切迫した状況から解放された彼は、火事場の馬鹿力で抑えていた例の悪心がぶり返してきた様で、波止場の縁から身を乗り出すと激しく嘔吐した。胃の中の物をほとんど吐き出してようやく落ち着いた彼は、這いつくばったままニコラエフの方に振り向くと、真っ青な顔に草臥れた笑みを浮かべた。

「街に、可愛い家族が待っている限りは死ねないね」

 常々彼の船酔いに呆れている猟人たちも、この日ばかりは労いの言葉をかけた。暫くそうしていたメチェレフだが、時間が経つと少し回復した様でむくりと起き上がり、この日最後の指示を出した。

「諸君、今日は猟果がないので作業も休止だ。誰か、厨房に行って事情を説明して、昼食を用意するよう伝えてくれ」

 程なくして、彼らは石畳の道にぞろぞろと隊列をなし、寮へと帰って行く。日中とはいえ気温は五度を下回っていたが、ずっと吹雪の中に居た彼らにはむしろ温かく感じた。草木も生えていなければ渡り鳥もいない不毛な島に、穏やかに打ち寄せる波の音がただこだましている。俯きながら先頭をフラフラと歩くメチェレフに、シュー・ヤンは声をかけた。

「正直、こんなに頼りになると思わなかったよ。生還できたのは君の的確な指示のおかげだ」

「常に冷静でいてくれた君にも感謝する。謝謝」

 顔を上げたメチェレフは片言の華国語でそう言うと、力なく微笑んだ。

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