五 «Пять»
メンシコフ号を波止場に停めると、ニコラエフは海牛に刺さった銛を引き抜くよう指示した。直ぐに浜に打ち上げられるから流される心配はないと説明すると、彼らは納得してその通りに従った。程なくして一行が浜に移動すると、既に丸々と太った海牛の二頭が、既に浜にその巨体を横たえていた。猟人たちは物珍しそうに、半ば興奮気味にぞろぞろと寄り集まり、これが幾らになるだとか、その前に今日の晩飯だろうとか、口々に話し合っていた。ニコラエフは少し離れたところにいて、ぼんやりと波打ち際の人だかりを眺めながら煙草をふかしていた。
その時、猟や作業所のある高台の階段から、メチェレフが慌ただしく降りてきた。腕には赤表紙の帳面と鉛筆と、細々した道具を一式抱えている。
「同志諸君!これより作業を始める!」
彼は酔いから復活したらしく例のキンキン声でそう叫ぶと、太った身体をゆさゆさと揺らしながら、猟人たちのいるところに向かって走ってきた。
「今から言う者――カーター、アイヒマン、ガルニエ、それからシュー・ヤンとルオ・ユエ、君たちも手伝うように。今から、こいつの体長と一番太いところの胴回りを計測する」
メチェレフは息を弾ませながらそう言って棒の様に突っ立っていたサミュエルに、二つの巨大なメジャーを押し付けた。彼は忙しそうにまた群衆に向けて振り返ると、また声を張った。
「それから、それ以外の者は計測の作業が終わったら、即刻解体の作業に取り掛かること。直ぐに宿舎から鯨包丁を一人一本持ってきたまえ。非常に大きく、重い刃物なので扱いには十分注意するように」
労働者たちはすぐに動き出した。多くの猟人は列を為してぞろぞろと宿舎に向かったし、メジャー係の者達もメチェレフの的確な指示を受け、作業は進んだ。その中で、メジャーの端をどうやって、巨大な海牛越しに渡すかと言う話があった。
「石を結びつけるんだ。それで思い切り投げれば向こうに届くだろう?」
メチェレフは足元の手頃な石ころを拾うと、サミュエルに手渡した。サミュエルはこの太った男に、少し感心した様に鼻を鳴らした。メチェレフは構わず作業を見守った。暫くして、ルオ・ユエと一緒に体長を測っていたシュー・ヤンが大声で数値を報告した。
「九・三八メートルだ」
「大物だな。胴回りは?」
今度は、サミュエル・アイヒマン・ガルニエの三組の方から声が上がる。
「最大で七・二メートル」
「感謝する«Спасибо»!」
そこから先は完全に、メチェレフの仕事であった。彼はぶつぶつとなにやら呟きながら、恐ろしいスピードでノートに鉛筆を走らせた。ページはあっと言う間に小難しい数式で埋まった。役目を終えた猟人たちがメチェレフの周りにどやどやと集まってきたが、彼はお構い無しに、まるで野次馬など眼中に無いかの様に計算を続けた。猟人たちも彼の邪魔をしては悪いと思い、息を殺してその様子を見守っていた。
数分間、計算に没頭していたメチェレフはついに顔を上げた。すっかり先の丸くなった鉛筆をコートのポケットに押し込み、帳面に乗った黒鉛のかすを払うと、彼は誇らしげに報告した。
「推定体重は約七トン、うち商業価値のある肉は三トン、脂肪は五百キログラム、革は三十平方メートル分取れる」
「つまり、良いのか悪いのか」
そのシュー・ヤンの問いに、興奮で頬を染めたメチェレフはにんまりと笑って、勝ち誇った様な口振りで海牛を指して叫んだ。
「これでわからんかね?大漁だよ、同志!」
程なくして、ニコラエフ船長の監督の元で海牛はあっと謂う間に解体され、ゴツゴツした骨と、真っ白な脂と、内蔵と、美味そうな霜降りの肉ばかりになった。メジャー部隊の五人は次の海牛のためにまた駆り出され、メチェレフはデータから数字を割り出した。二頭目は一頭目に比べればやや小ぶりであったが、それでも十分すぎるほどの資源を蓄えていた。猟人たちは今日の夕飯への期待に労働の疲れも忘れて歓喜し、空風の吹く砂浜を異様な熱気で満たしていた。
「こんなに上等の肉、見たこともねえや」
ルオ・ユエは目をキラキラさせた。サミュエルも満足気に目を細める。
「これで今日は熱いステーキが腹いっぱい食える。冷たいセリョートカの缶詰とはもうおさらばだ」
その夜、約束通り彼らの食卓には、一人一枚の厚切りのステーキが並んだ。ステンレス製のプレートの上には、食器の質素さには見合わぬ豪快に盛り付けられた海牛のフィレが、白い湯気をしきりに立ち上らせている。漸くまともな食材が手に入った厨房の厨師は少しばかりやる気を出した様で、プレートには焼いた黒パンと、馬鈴薯や人参入りのオリヴィエ・サラダが添えられていた。さらにブツ切りの鱈が入った漁師風のボルシチまで、プレートとお揃いのスープ皿に注がれて振る舞われた。
「こんなに分厚い肉、初めて食うな」
シュー・ヤンは皿を持ち上げ、真横からその厚みを確認すると、しみじみと呟いた。
「これから毎日海牛尽くしで、きっと帰る頃には飽きちまうんだぜ……なんて贅沢な悩みだろう!」
ルオ・ユエは興奮のあまり、床につかない短い足をバタバタと前後に振っている。馳走を前に、自分自身も待ちきれないといった様子のメチェレフは席から立つと大声で呼びかけた。
「諸君、料理が揃った者から冷める前に食べたまえ。良い食事を«Приятного аппетита»!」
その合図を聞いた労働者たちは、彼らの神々への感謝を済ませると一斉に食事を始める。彼らの談笑、歓声、そしてカトラリーが皿に当たる温かな音で食堂は満たされた。西洋料理を食べた事のなかった華国人の二人はサミュエルにナイフとフォークの使い方を教わりながら、恐る恐るそれを切って口に運ぶ。丸々と肥えた巨体に海藻の旨味をたっぷり蓄えた海牛は、まさしく芳醇な仔牛の味であった。柔らかな肉は少し咀嚼しただけで雪の様に融けてしまい、甘く濃厚な芳香が鼻を抜ける。まるで南の島で採れる椰子油の様だと、サミュエルはその脂を指して形容した。メチェレフも都会仕込みの優雅なナイフ使いで肉を切っては口に運び、噛み締めながら満足そうな笑みを浮かべていた。
「あれが、これか……」
肉の旨味が肉体労働で疲れた身体に染み渡る様で、シュー・ヤンは一口、また一口と食べ進めた。これが今朝、自分が撃って仕留めたあの巨大な生物かと、彼は思いを馳せた。自ら好奇心を持って猟人の前に現れ、非常に温厚かつ友好的で、撃たれても逃げず無抵抗で藻掻くだけ。しかもその身体から取れる資源は全て商品価値の極めて高い上等品だ。こんなに人間に都合の良い生き物が自然界にいて良いのだろうか。そういう人間を沢山見てきたが、大抵はペテン師に騙されて、散々搾り取られてろくな結末を迎えなかった。自分の叔父も、国民小学校の友人も……。
銛を背中に突き立て水面にもがく海牛を見て胸に感じた圧迫感が、その肉のあまりの美味に氷解していくのに代わり、彼の頭にはそんな疑問が湧き上がった。そこまで考えたものの、シュー・ヤンの思考はその肉のあまりの美味さに全て掻き消されてしまった。そして、気づけばステーキをぺろりと平らげ、プレートを持って黒パンのおかわりを貰う列に並んでいた。
次の日は海には出ず、昨日狩った海牛の解体作業が行われた。労働者たちは管轄委員の指導の元で黙々と鉈や鋏を奮い、総合作業所で缶詰になって肉、脂、皮を扱いやすい大きさに裁断した。時折船長のニコラエフがその様子を覗きに来ては、細かな刃物の使い方を教えてやっていた。細かくなった二頭分の海洋資源は、建物地下の広大な冷凍庫と倉庫に格納された。
夜の二十一時から二十二時にかけて、猟人たちには一時間の短い自由時間が与えられている。
「メチェレフ委員。さっき剥いで倉庫にある皮革を、十センチ四方くらいのを一切れ貰えないだろうか」
管轄委員執務室のドアを叩いて踏み込んできたサミュエルの申し出に、その日の日誌を記入していたメチェレフは暫しの思案の後許可を出した。
「そのくらいなら構わん、見過ごそう」
黒革の椅子に座ったまま壁際のフックを指さし、倉庫の鍵を渡すから後で返す様にと支持するメチェレフのいい加減さに苦笑いしながらも、サミュエルは一言礼を言って外に駆け出して行った。十分もせずに帰ってきたサミュエルは執務室に鍵を返すと、大切にその革を両手で包んでシュー・ヤン達のいるロビーへと歩いた。メチェレフも彼の商人としての主体性を興味深く思った様で、彼を追う様にして席を立つ。
「なんと上質な革……丈夫かつ靱やかで、牛革よりも扱いやすそうだ」
毛皮商のサミュエルはブツブツ呟きながら、品物の品定めをする様に革をピンと張ったり、波打たせてみたり、表裏返したりを繰り返した。
「そんなに良いのかい?」
サミュエルがロビーの椅子に腰かけると、隣のルオ・ユエは興味津々の様子で彼の手元を覗き込んだ。
「そうとも。従来、こんなに柔らかな革は仔牛からしか取れなかったが、いかんせん耐久性が低くてな。一年使うと擦れ切れて使い物にならんのが玉に瑕だ。それがこの海牛革は見たところ、丁寧に手入れしてやれば五年は持ちそうだな」
初めて見たサミュエルの真剣な目つきには、商売人の魂が宿っている様だった。シュー・ヤンには彼が細身のエレガントな背広を着て、ベルガラムの小洒落た革細工の店で客に同様の説明をしている様子が容易に想像できたし、彼の仕事に対する誇りと真摯さは、ある種尊敬に値する物だとすら思えた。シュー・ヤンは感心してつい言葉を漏らした。
「奥深いもんだなあ」
「そうとも。革製品と謂うのは人間の皮膚と同じで生きているのさ、君たちも肌が乾燥したら保湿剤を塗るだろう」
「へえ、面白い!」
ルオ・ユエの純粋な子供の様な瞳には、好奇心の光がクルクルと忙しなく飛び交っていた。自分の生業に興味を持たれたサミュエルもまた、嬉しそうに何度も頷いている。
「なあサミュエル、もっと革の話を聞かせてくれよ。凄く興味があるんだ」
「ああ、勿論だ」
ロビーの机で談笑していた彼らの元に、人民服姿のメチェレフが筆箱を持って現れた。空いた椅子にどっかりと腰を下ろすと、なにかの参考にと黒い革製のポーチをサミュエルに手渡す。
「そういえば、僕の筆箱は海牛革製だ。セヴェルスクに来てからかれこれ一年使っているが……見てみろ、結構綺麗だろう」
サミュエルは至極嬉しそうにそれを受け取ると、革肌を優しく撫で、縫い目を指でなぞり、ボタンを開閉したりしながら、蓋の留め具から裏地の縫い目まで舐める様にそれを観察した。
「確かに綺麗だ。縫製も頑丈で良い、ク連邦でもこんなに良質な加工ができるとは恐れ入った。粗悪品しか作れんと思っていたよ」
我を忘れた様子の彼に苦笑いしながら、三人はその様子を見守った。祖国の産業が貶されたメチェレフは複雑な気持ちを抱きながらも、この男のキラキラした瞳に、商いと謂う命を繋ぐ営みへの活力に、共産主義者ながら惹き付けられるのを感じていた。サミュエルは急に顔を上げたかと思うと、そうだ、と言って自室の方へ駆けて行った。間もなくしてロビーに帰ってきた彼の手には、大きな革製の道具入れが握られている。彼は椅子に腰かけ、机の上にその道具入れを展開すると、不思議そうな顔をしている筆箱の持ち主に微笑んだ。
「少しだけひび割れが出来ているから磨いてやるよ。これをすると長持ちするのさ」
そう言って彼は小瓶入りの黄色いオイルを指の腹に少しとって、筆箱を優しく擦り上げた。すると乾燥していた革肌は、みるみるうちに高級感のある艶と靱やかさを取り戻していく。最後に乾いた小さな布で表面を拭き、ピカピカになった筆箱をメチェレフに返すと、彼は嬉しそうに礼を言った。
「新品同様だよ、ありがとう。そうだ、そのオイルと言うのはどこで売っているものなんだね?」
「我が商会の店舗ならどこにでも置いてあるが、……少し都会に出て、百貨店の革細工店や、靴屋なんかを探してみてくれ。俺のお薦めはミンクの脂だ」
主義主張が相いれぬ故に絶えず対立している二人が海牛革を囲んで笑顔でいるのを、シュー・ヤンは少し嬉しい気持ちで見ていた。一番熱心に聴いていたのはルオ・ユエだった。彼は大きな黒い目をピカピカと光らせて、海牛の革切れを頻りに触り、サミュエルの手入れ道具を物色した。サミュエルはその様子を微笑ましげに見守っていたが、感慨のため息を漏らすと窓の外に広がる黒い海を眺めていた。彼の碧緑色の瞳は、少し涙ぐんでいる様にも見えた。
「販路を広げ、更に価格を下げることが出来れば、我が商会はこれで天下を取れる」
「君は本当に革が好きなんだな、サミュエル」
シュー・ヤンが微笑みかけると、彼は照れくさそうに鼻の下を掻いた。
「好きじゃなきゃ、こんな冬に北の果てまで来て肉体労働なんざしないさ」
それから暫く、ロビーの一角には穏やかな時間が流れていた。彼らは故郷の風習や、仕事の話に花を咲かせた。メチェレフも好奇心を持ってそれを聞いていたが、ふと時計を見て就寝時間が近づいているのを確認すると、彼は三人を連れ立ってロビー奥の居室に繋がるドアを開けてやった。
「諸君、もう就寝の時間だ。明日はまた猟があるから早めに寝るように。おやすみ«Спокойной ночи»」
「もうそんな時間か。じゃあな、おやすみ」
メチェレフは目元に彼らへの僅かな憧憬を滲ませながら、部屋に戻る三人の後ろ姿を黙って見つめていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます