第10話
――それを見た瞬間、脳がバチッと音を立てた。
思考が焼き切れる感覚。
眼球の裏に焼きついた、あの異形。あの質感。あの中身。
嫌悪の象徴のようなその姿は正気で直視していいものじゃなかった。
呼吸を忘れていた。いや、呼吸なんてしている場合じゃなかった。
「陽菜、行くぞ」
低く押し殺した声。ルイの指が、無言の合図のように私の手を取った。
まるで、何かに「見つかってしまう」ことを恐れているような歩き方。
慎重で、それでいて急ぎ足。私もただ頷いて従うしかなかった。
倉庫のシャッターを抜ける。
その途端、空気が変わった。そして同時に、その理由もわかった。
風だ。
やんわりと、風が吹いている。
この世界で風を感じたのは初めてだった。
歩く。
街路灯の光が、どこか赤黒く滲んでいる。まるで光が濁っているようだ。
歩く。
音のない街に、私たちの足音だけが響いていく。
でも――なんだかその音は遅れて聞こえる気がする。
反響でもない、遅延。
私たちの歩みに、街がついてこられていない。
コンビニの前を通りかかる。ちら、と自動ドアのガラス越しに店内を覗いた。
……誰か、動いた?
いや、そんなはずはない。私の錯覚だ。
だけど。
あのレジのバイトの男の目線が、明らかに前より「こっちを見ている」気がした。
「ねぇルイ……あれ……」
「見なくていい」
遮るように、ルイの声が低く割り込んだ。
「見られてる気がするなら、こっちも見返した時点で、アウトだ。」
「見返す……って、じゃあ本当に……」
「分からない。でもな、確実に何かが変わっている。感じるだろ」
うん、と答えたつもりだったけど、声になったかは分からない。
道中、私は何度も振り返えろうとした。
しかし、そのたびに、背筋が粟立つ。
「見なければ現実にはならない」そう囁かれているかのように。
街は静かだ。人々が、風景が、空が、すべて沈黙しすぎている。
まるで、「見えないもの」の通り道を確保するために、静止しているみたいだ。
息が浅くなった。
浅く、早く、肺に取り込める空気が薄い。
「……待って」
足が止まる。
膝が震える。背中が妙に熱い。それでいて冷や汗が止まらない。
「陽菜、立て。今ここで止まるのは…たぶん、よくない」
ルイの声も焦っていた。
珍しく、取り繕うような軽口もなかった。
ふたりして、走った。
止まることが怖かった。止まったら、何かに“追いつかれる”気がした。
振り返らなかった。
振り返ってしまえば、次は自分があれになると本気で思った。
ようやく、ホテルの前にたどり着いた。
“Se Road HOTEL”。
消えかけのネオンが、まるで虫の息のように点滅していた。
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