煙草
入学して以来、わたしにとっての楽しみは金曜日を迎えることくらいだった。
大学に行っても退屈な講義を受けるだけ。家に帰れば両親がいるだけ。
唯一昼食は、平日ならほぼ毎回兄と食べているから、その時間だけは楽しみにしていた。でも、それ以外はどうだっていい。
高校時代までに感じ取っていた、緩く絞め殺されていくような空気感というものが、大学でも当然のように存在していた。誰もが遠慮していて、ある一定のライン以上は絶対に踏み込まず、互いに距離を取って適切な空白を保つ空間。
嫌気が差すのは確かだけど、その空気感が無ければ、わたしは自分の異常性を曝さなければならない状況になっていたのだろうと、そんなことを考える。誰もが遠慮しているからこそ、私は救われている部分があるのだと。
経済学の講義を終えて、大学を後にする。
今日は兄が大学に来ていない。今朝『今日は行かない』とメッセージが届いていた。理由を訊くと単純な言葉が返ってきた。
『気が乗らないんだよ』
気が乗らない——
『そんな理由で休んでいいの?』
思ったことをそのまま打ち込んで送信する。
すると返信はすぐだった。
『いいんだよ、そのくらい』
良いのだろうか。いや、良くない気がする。
そうは思ったが、兄は特段素行が悪いとか、成績が目も当てられないとか、そういうことは一切ない。大学生にもなれば欠席連絡などしなくていいし、自分の意思で講義をサボっても何も言われない。ただ自分の首を絞めるだけ。だから、本当は〝気が乗らない〟というだけの理由で大学に行かなくても、良いのかもしれない。
そんなやり取りがあったから、わたしは少し早めに大学を出てきた。
実はあと一つ講義が残っているのだけど、兄の怠慢な精神を見習って——見習ってはいけないけれど——サボタージュを決行した。
清々しい気分で道をゆく。
兄のところに行くには、まだ少し早いかなと思いはしたが、わたしが会いたいので行くことにした。
坂を上ると、見慣れたアパートが視界に入ってくる。小まめに確認しない兄の代わりに郵便受けを覗き、何もないことを確認してから階段を上っていく。
三〇一号室の前に来て、スマホの内カメラを起動して髪型を整える。……していることが乙女のそれだけど、今更気にしない。綺麗に、可愛く見られたいのは事実だ。たとえそれが血を分けた兄が相手でも。
一年前までは、そういう些細な——恋心を自覚しているからこそでてしまう自分自身の行動に嫌気が差していたし、嫌悪感もあった。ただ今は、そういうものが一様に薄らいでしまった。良いことではないけれど、自分を隠す必要が無いというのは、清々する。嘘を吐き続ける苦痛を、私は知っているから。
インターホンは押さず、そのまま部屋の扉を開ける。
また薄暗い。電気を点けていないみたいだ。
ゴミ出しの機会を逃したのか、ゴミ袋から溢れそうなペットボトルの群れが、框のすぐ傍に置かれていた。
通路を進み、部屋を覗き込む。
ふわりと、風が吹く。
前髪が揺れる。
同時に、慣れ始めたにおいが流れてくる。
「あ、」
電気も点けずに部屋の窓を開け放っていた兄は、その窓際で煙草を吸っていた。
部屋に入ってきたわたしに気付いた兄は、こちらを振り返って少しだけ眉を顰めた。
「インターホンじゃなくていいから、ノックくらいしろって」
「はいはい」
「『はい』は一回」
「はーい」
兄はわたしから視線を切ると、窓の外へと顔を向けた。
ベランダがあれば、少しは煙草を吸う姿に箔が付いていたかもしれないけれど、生憎この部屋にベランダはない。二人並べば隠れてしまうくらいの幅の窓際に、兄は左隣を一人分空けて立っていた。
その隙間を埋めるように、兄の隣に立つ。
「なんて銘柄?」
兄が箱を見せてくる。そこにはキャメルと書かれていた。チャーミングなラクダのイラストも付いている。
「一本ちょうだい」
そう言うと兄は「未成年喫煙だぞ」と言うだけ言って、一本箱から取り出して渡してくれた。
それを受け取った瞬間、わたしの心が蠢いた。
やってみたいことがあるのだ。
ただそれは、少しだけ勇気がいる行為。……もちろん身体を重ねる以上に逸脱した狂気ではないけれど、それでも恥じらいが胸を軽く締め付けるような、そういう。
「ねぇ、お兄ちゃん」
呼ぶと必ずこちらを向いてくれる瞳に、僅かな警戒の色が混じる。わたしの声音に、そういう『普通の兄妹』から逸脱した行為を要求する時だけに塗り重ねられる、危うい色があるのだろう。
それでも、私は言葉を続ける。
「シガーキス、してみたい」
果たして兄は、あからさまに躊躇った。その逡巡は深く、重たかった。
もしかすると、兄はその行為を、エリカさんとすることを望んでいたのかもしれないと思わされた。兄が夢見た些細な未来を……もう訪れることは決してない未来を、わたしが一つ奪おうとしているのではないかと。
気付いたところで、もう遅い。
一度放たれた言葉は、無かったことにはできない。
たっぷり十秒以上掛けて、兄は答えを出した。
「——分かったよ」
錆びた鎖を引き千切るような、そういう感じがした。
後悔と諦観が同時にわたしを襲う。それを断ち切るように、指を動かす。フィルターを咥えて、兄の顔に近づける。
観念したように、一度溜息を吐いてから、兄はわたしの咥えた煙草に自分のそれをくっつけた。
深く吸い込む。
むせる。
「背伸びするからだ」
吐き捨てるような言葉がぐさりと刺さる。でも、火は点いたみたいだ。
三ミリでも、こんなに胸が苦しくなるんだな、と——そう思った。
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