ポリアンナ③

 明かりのない店内は静かで薄暗かった。


 真子が照明を点けると普段と同じ明るさに戻るが、それでもいつもと違う寂しさが残っている。きっとパンが並べてあるはずの棚が空っぽになっているからだろう。


「ごめんねー、今日はパン焼いてないから日持ちするものしか出せないけど。クロワッサンとか好き?」


 真子は二人のために、昨日焼いたクロワッサンと、紅茶を出してくれた。


「すみません、お休みのところ……」


 陽毬が遠慮がちに言うと、真子はあっけらかんと笑った。


「いーのいーの、どうせパン焼く時間以外はいつも暇なんだから。それに、折角のデートなのにお店が閉まってたらがっかりでしょ」

「で、デート、ですか……?」


 陽毬はちょっと頬を赤らめた。


「あれ、違った?」


 テーブル席に真子も腰掛けてきた。本腰を入れて話をしようという姿勢だ。


「二人は付き合ってるんじゃないの?」

「え、えーっと……」


 陽毬は微笑みながらも、返事に困っているようだった。


 それも当然だろう。二人は、少なくとも今はまだ、真子のいうような関係ではない。それなのに陽毬がはっきりとした答えを言わないのは、きっと自分を気づかってのことじゃないかとユウマは思った。あまりにきっぱり「そういう関係じゃない」なんて言い方をしたら、それはそれでユウマが傷つくかもしれない。そう考えて、陽毬は答えあぐねてるのではないだろうか。


「だから違うんですって。桜町さんとは友達で……」


 あまり陽毬を困らせるのも心苦しい。ユウマは断腸の思いで口を挟んだ。


 本当は「付き合ってるんです」と言えるものなら言いたい。だけどそれは嘘になるし、困っている陽毬を助けるには、ユウマが事実を口にするしかなかった。


「そっかー。じゃあこれからって感じなんだ」


 真子もしつこかった。


「でもいいの? 黒江くん、そんな簡単に『友達です』なんて言っちゃって。もし彼女が友達以上って思ってたら、傷つくよー」

「えっ」


 真子の一言に、ユウマはうろたえた。


 そんな逆の発想はまるでなかった。確かに、陽毬はユウマのことが好きで、だけどユウマがどう思っているかわからないから答えあぐねていた、という可能性だってないとはいえない。


 でも、そんなことあり得るだろうか。もしそうだったら、それって両想いってことになってしまう。


「黒江くんは……えーっと」

「桜町です」

「桜町さんのこと、友達としか思ってないんだ?」

「そ、そそ、そんなこと……!」

「ってことは、黒江くんは、桜町さんのこと好きなんだ?」

「あわわ……」


 ユウマは完全にパニックになっていた。『いいえ』と答えれば陽毬を傷つけてしまうかもしれないし、『はい』と言えば告白したも同然だ。なんと答えても大変なことになるし、なにも答えなくても大変なことになる。


「あの、私たち、まだ本当にそういう関係じゃないんです」


 ユウマのうろたえっぷりがあまりに気の毒だったのか、陽毬が助け舟を出してくれた。


 しかし真子は耳ざとかった。


「まだ?」


 真子が強調したことで、自分の言ってしまったことがわかったのだろう。陽毬はまた頬を赤くした。


「そっかー。まだ二人はお友達なんだ。じゃあ、まぁ、今日はそういうことにしておこっか」

「そういうこともなにも、それが事実なんです……」


 そう穏やかに指摘しながらも、ユウマの心中は平静とは程遠かった。〝まだ〟ってことは〝そのうち〟がある、そう思っていいのだろうか。


「それにしても、黒江くんも隅に置けないねー。あたしビックリしちゃった、こんな綺麗な子を連れてくるなんて」

「そ、そんな。綺麗だなんて、全然」


 陽毬はビックリしたように胸の前で両手を振った。


「よく言われない?」

「い、言われたことないです……」

「えー、意外。髪も綺麗だし、笑顔も素敵だし……モテるでしょ?」

「そんな、モテたことなんて、一度も」

「桜町さん、香水とかつけてる?」

「つけてないです」

「そうなんだ? なんか桜町さんが椅子に座ったとき、いい香りがするなぁって思ったから。ね、桜町さんっていい匂いがするでしょ?」


 真子に話を振られて、ユウマは困った。でしょって言われても。


「僕にはわからないですけど……っていうか、言ってることが段々オッサンじみてきてますよ」

「年を重ねると、オッサンもオバサンも違いがなくなってくるの」


 そういうものなのだろうか。ユウマはあまり信じられなかった。若い頃のことは知らないが真子は昔からこんな感じだったんじゃないかという気がするし、陽毬は年を重ねたとしても今みたいに楚々としたままな気がする。


 そんなことを思いながら、ユウマはラタン編みのトレイに並べられた小ぶりなクロワッサンを口にした。「おいしい」


「あっ、私も」と目下の話題から逃れるように、陽毬もクロワッサンを手に取った。


「本当、すごく美味しい」

「ありがとう。焼きたてだと、もっと美味しいんだけどねぇ」


 真子はそう言うが、ユウマにはこれでも十分に美味しく思えた。とても昨日の売れ残りだとは思えない。食べたときのサクサクした触感も、プレーンなクロワッサンのパン生地の味も、口の中で感じよくほどけていく。


 真子の話によると「クロワッサンは焼いてから二日くらいは美味しく食べられる」らしい。ただどうしても「風味は落ちちゃう」のだそうだ。それもユウマには全然わからない。パン職人をしているだけあって、真子は嗅覚が鋭いのかもしれない。パン屋に限らず、料理人やソムリエなど食べ物を扱う仕事には鼻の利く人が多い。


 それから真子は、パン屋の一日がどう始まるかとか、パンを焼く工夫とかを、話してくれた。


「『恋愛小説家』って映画、知ってる? あのエンディングで、パン屋が出てくるでしょ。あんな風に、まだ外が明るくなる前から毎朝パンを焼いてるの」


 陽毬はその映画を見たことがあったらしく、とても楽しそうに真子の話を聞いていた。ユウマはとにかく、陽毬が楽しそうにしているのが嬉しかった。こうしていつも人生の明るい側面を眺めて過ごせたら幸せなのに。そんな風に思いながら、ユウマは楽しくお喋りをする陽毬を隣で見ていた

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