通学路①
目が覚めたと気づくより前に嫌な感じがした。
朝起きて、時計が静かにしているときというのは、早く目が覚めたか、アラームをかけ忘れたかしかない。光の加減と、目蓋の軽さが、思考が働き出すのに先んじてすでに予感というかたちで答えを与えてくれていた。寝坊した。
ユウマは慌てて布団から起き出すと、ハンガーに掛かった制服を見てちょっと悩んで、やはり洗面所へと向かった。こんな悠長なことをしている場合ではないと思いつつ、しかし寝起きのまま出るのも無謀に思えて、出来る限りの速さで顔を洗って歯を磨いて頭髪を
居間を通りがかるときにはすでに制服に着替え、通学用の
「起きてたの? 朝ごはんは?」
「ごめん、遅刻するから今日は……」
「遅刻って。まだこんな時間じゃない」
母親の言う通り、登校時刻にはまだたっぷりと余裕があった。確かにユウマが普段家を出るのより少し遅いとはいえ、慌てるような時間ではない。しかし学校に遅刻するのなんかよりよっぽど重大な事情がある。
ユウマは母の疑問には答えず、急ぎ足で玄関へと向かった。家を出ると、ためらいなく駆け足になる。まだギリギリ間に合うかも。無理だろうとは思いつつも、
ユウマの通う
いつもなら目的の場所より少し手前で足を緩めるところだが、今日はそうしなかった。できれば角を曲がる前に、何度かゆっくりと呼吸をして、走ってきたことが顔に出てしまわない程度には息を整えておきたかった。しかし今はそうも言っていられない。
時計を見る。いつもより五分も遅れていた。
元々ユウマは朝が早いというわけではない。中学生のころもそれ以前も、遅刻ギリギリというほどではなくても登校するのは遅い方だったし、それは高校に進学してからも同じだった。それが毎朝早起きをして同じ時間に登校するようになった。
今日より五分前、いつもの時間にこの角を曲がると、その時間にはたまたま
その偶然を毎朝起こすために、ユウマは毎晩翌日の準備を済ませた上で早めに布団に入るようにしてさえいた。そうやって早起きして、少し先に着くようにしておいて、間違いなく偶然鉢合わせするよう、角の前で時間を潰してから出てゆく。
「黒江くんって、時間に正確なんだね」
陽鞠はときおりそう感心したが、下心あってのこと故にユウマは後ろめたく笑うしかない。ちなみに陽鞠はいつも『kuma+kuma』という朝の地域情報番組を見終わってから家を出ているらしく、それで毎日同じ時間にこの場所を通るのだそうだった。ユウマもその番組を見てみたが、地域の情報をお届けするという建前はほったらかしにして、熊の着ぐるみと人間の女の子がひたすらお喋りしていた。
その番組が今日だけは〈五分くらい繰り下げて放送されてたりしないかな……〉とユウマは願った。もしくは陽鞠も〈たまたま今日だけ寝坊してたりとか……〉。起こりそうもない万が一に賭けて、間に合わないのがわかっているのに急いで来てしまうくらい、既にユウマは冷静さを欠いていた。
そう都合のいい偶然があるはずもなく、角の先に出ても、通りを歩いてくる陽鞠の姿はない。
それでも〈いや寝坊したかもしれないとすれば……〉そんな見込みのない前提の上に〈もしかするともっと遅れて来るということもあり得るかも……〉と、あり得そうもないことをもっともらしく考えて、遅刻ギリギリまでここで待とうかなどとさえ思いはじめているあたり、恋というものが人を愚かにするという言い古された言葉にはかくも真実味がある。
「黒江くん」
そんな迷妄に捉われた背中に、声が投げ掛けられた。ユウマが振り向くと、通り沿いにあるクリーニング店の狭い駐車スペース脇にある自動販売機の前で、制服姿の女の子が飲み物を手に立っていた。
「おはよう。今日はちょっと遅かったんだね」
にっこりと微笑むのに合わせて、長い髪がたおやかに揺れる。
思いがけない光景にユウマは当惑しつつも、自然と自分の顔が
「おはよう」ユウマは自動販売機の方へ早足で歩み寄った。「ちょっと寝坊しちゃって……」
「そうなんだ。珍しい」
「桜町さんこそ」
どうして? と思う気持ちを抑えつつ、ユウマは陽鞠の手にした280mlサイズのペットボトルを見た。陽鞠は学校に行く途中、飲み物を買ったりすることは普段ない。
「あ、これ?」
と陽鞠は、果実の写真にシンプルな顔が描き足されてあるラベルを、ちょっと
「待ってる間、なんか飲みたくなっちゃって」
ユウマは一瞬、言葉を失った。心臓が鼓動を早め、全身に熱を帯びた
「ま、待ってたって……?」言わなくてもいいことをつい言ってしまう。
陽鞠はさも当然のように笑って答えた。
「だっていつもは黒江くんが待っててくれてるから」
ユウマは思考が停止したかのように固まってしまった。
……毎朝ちょっと早めに来ているくせにさも偶然出くわした振りをしていることが陽鞠に知られてしまっていたのは予想外で、顔を覆って走り去りたい衝動に駆られる。できれば存在ごと消えてなくなりたい。しかしそんな即死級の恥ずかしさと同時に、真逆の感情が起こって、ユウマの情緒を無茶苦茶にしてしまっていた。
もちろんユウマだって毎朝一緒に登校している友達が遅れて来たら待つ。でもそれは一緒に登校するという暗黙の了解が二人の間に形成されているからであって、偶然一緒になる顔見知りをその日はたまたま見かけなかったからといって待ったりはしない。そうすると、陽鞠はいつもユウマと一緒に学校に行こうと思ってくれていたというわけで、その事実はユウマの平常心を叩き割るには十分な威力があった。
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